法と意義
「全然関係ないんだけどさ、影谷先生」
放課後に教室で一人勉強しているC宮は、付き添ってくれている学級担任の影山先生へにわかに声をかけた。
「どうしましたか」
「なんで髪染めちゃいけないって校則あるんだろ」
C宮の言葉を聞いた途端、影谷先生は点検のためにワークのページをめくっていたその手を止めて、眉尻を下げた。
「……また、ですか。君も懲りませんね」
「だってぼく、チビじゃん。それにほら、本性は陰キャなんだから見た目だけでも強くなきゃさあ」
唇を尖らせて、むう、と不満を漏らす彼は、彼なりに髪を染めなければならない理由があるらしい。くるくるとシャープペンシルを器用に回しながら、そこに誠意は見られないものの、どうにか、という藁にもすがる気持ちで影谷先生に訴えている。
「別に。僕は悪いと言いませんよ。僕自身は髪型、髪色は自由でいいのではと思うので」
そう言い切ると、影谷先生はまた視線を下に向け、点検作業を再開して行った。パラパラ、パラパラ、ポン、パラパラ……という規則正しいささやきが教室に発される。
C宮は影谷先生の反応を見て、その反応に最大限の期待をし、席から立ち上がった。
「なら、生徒指導の
「かといって校則をなくすべきとも思いませんが」
厳しい一言が不満を訴えるC宮の言葉を遮った。
影谷先生にいわゆる〝上げて落とされた〟C宮は、そのままの姿で動くことができず、まるで氷漬けされたみたいに硬直するしかない。がっかり、というのが今の彼の感情にふさわしい言葉である。
「え、なんでなん……なんで上げて落としたん……新岡先生の味方するん……」
「いえ、そういうわけでは」
「ひどいじゃんね。 ぼく、期待しちゃったもん」
影谷先生はそんなC宮の声を聞いて、どうしようかと一瞬悩んだ。しかし、このままするのはなかなかすわりが悪いと、手元の腕時計で時刻を確認し、作業を一度中断することにした。
そしてC宮に対し、いいですか、と前置きをして話し始める。
「僕は、恐れていることがあるんです。それは……」
「それは?」
「一言で言えば同調圧力です」
「同調圧力?」
「こういう時には、仮定で話するのがいいでしょうね。もしも、で話をしてみますか」
影谷は座っていた椅子から立ち上がって静かに黒板と向かい合う。そして、白いチョークを一本ばかり手に取って、彼の考える仮定を横書きで書き記す。非常にきれいな字である。
心穏やかにゆったりとした筆の走りだ。
「もしも、髪を染めてはいけないという校則がなければ……生徒たちの髪色はどうなると思いますか?」
「みんなそれぞれ好きな色になる、かな」
「そうですね」
次に、五人の棒人間を横並びに書き記していく。はらはらと舞い散る粉がわずかに影谷先生のスーツを汚し、紺色の袖口が白くなっていっている。
「たとえば。ここに仲のいい五人組がいたとします。あなたはそのメンバーの一人です。そしてさらに、五人中四人が金髪だったとしましょう」
今度は黄色いチョークを手に取って五人の棒人間のうち、四人の頭を黄色で塗った。C宮は、自分がいつもいる五人組のことをさしていっているのか、と聞きたくなったが、ぐっとその気持ちを抑えた。
「そして、あなたが残った五人目です。想像してみてください」
「ぼくだけ、金髪じゃなくて黒髪ってこと?」
「ええ、そうです」
C宮は少し考えてみた。しかし、わずかに首を傾げるばかりだった。
「別に、よくない? ぼくが黒髪がいいってんならさ」
「そうですか。ところがどうでしょう」
すると影谷先生は、またチョークを持ち替えて赤色にし、黄色に頭を塗られたうちの一人の顔に怒りを露わにした表情を付け加える。
「言葉にされたわけでも、あからさまな態度でもなく、しかし、あなたは、圧力を感じます」
その表情は、黄色に頭を塗られた残り三人にも付け足されて、最後の一人だけが何も手の施されていない棒人間となった。
「……どうして仲のいい五人組なのに、同じになってくれないんだ、と。C宮くんはそういう経験、ありませんか?」
C宮は袖口をぎゅっ、と握りしめる。
その様子を見るに、C宮にはわずかな心当たりがあるようだった。
「あなたはそうして、黒髪がいいのに、圧力に耐えかねて金髪にしました」
影谷先生は、黄色のチョークに持ち替えて、残りの棒人間の頭を黄色で塗り、怒りの顔を指で擦るように消した。
「……いかがですか?」
「それはちょっと、怖い、かも」
「ええ、ぼくもそれは怖いです」
おもむろに黒板消しを手に取って、優しく黒板を消していく。力があまり入っていないのだろう。粉塵を撒き散らしたというのに、黒板には薄く白い痕跡を残してある。
「それが、同調圧力?」
こくり。
影谷先生は頷いた。
「あなたたちの年の子どもというのは、同じであることを求める傾向が強いと僕は思っています。ですから余計に、本来社会的制裁——いわゆる刑罰などでしょうか? それらとは関係なしに個々人の中で完結すべき、マナーやモラルといったものと同じようにしてみんながそうであるからと相手に行動を強制してしまう。その結果同じにならないものを排除しようとしてしまうものです」
「つまり、校則がなかったらそうやって、暗黙のリョーカイで〝みんな金髪にする〟みたいなルールができちゃう可能性があって、同じじゃない人をハブったりするかもしれんってこと?」
「はい。僕はそうなってしまうことを危惧しています」
さっさっと服についたチョークの粉をふるい落とす影谷先生。C宮は、先生がそうしてもとの席に帰っていくのをじっと見つめながら、先生の次の言葉を待っていた。
「させることを強制するより、させないことを強制したほうが害が少ないものです。自然のまま、が楽でしょうし」
「ふうん……」
「ピアスの方がもっと利害を考えられますか? たとえば、先ほどの理論をピアスに置き換えてみるとか」
「うわあ……強制されてないのに強制的に痛い思いするのはやだなあ」
「それを可能にするのが同調圧力ですよ」
影谷先生は、めずらしいことに、口角を上げて笑みを浮かべ、C宮の移り変わりの激しい表情を眺めている。C宮は、だんだんと得体のしれない恐怖のようなものが心臓をつかんではなさないようになり、わずかな息苦しさを感じていた。
しかし、それでもなお畳みかけるような言葉がさらにC宮にかけられる。
「これが、殺人だったらどうでしょう。人を殺してはいけないという法律がないから、徐々にマナーやモラルとなって人を殺すのが普通だ、という考えが植えつけられてしまう」
「そんなの、血でいっぱいになっちゃうよ!」
「ええ、そうですね。ですが、少なくとも今の社会ではそんなことは起こりません。なぜならば?」
「法律が、あるから」
そうですね、という柔らかい声が鳴り、C宮はつきものが落ちたようなすっきりとした表情を浮かべる。そして、しばらくの時間をおいてC宮は苦笑した。
「ぼく、どうかんがえても頭が真っ金々のA崎とかD島とか奥村を見んのはやだな」
影谷先生もそれにつられて、くすり、と笑う。そして、それは想像ができませんね、とC宮返した。
「こう考えると、大きい権力によって振りかざされる法にも何かしらの意味を見出せるようになるでしょう?」
「ま、たしかに……? ちょっとは納得できた、かも」
おもむろに点検用の判子をもって、またゆるやかにワークのページをめくり始める。C宮も、徐々に試験の過去問題を解き始める気持ちへと変わっていった。
ここで、話は終わったかと思っていたC宮は、よく声の通る二人きりの教室に控えめでも確かな影谷先生の声が発されたのを逃さなかった。
「なので僕は、C宮くん自身に抗い続ける強い意志があるならそのままの髪でいればいいと思っています。それはあなた個人の価値基準であって、つまりは個人の自由ですから」
それに、僕の言っていることが必ずしもすべての校則に適応されるわけでもないと思いますし、そもそも法というのは変わるものですしね。
そう話す影谷先生は、なぜだか物悲しげであった。しばらくじっと、C宮はその様子を眺めている。感情の起伏がない先生なのかと思っていたが、それは表に出ていないだけで、多くの感情が先生の中に渦巻いているのかもしれない。そう思うと妙な親近感と強い信頼を抱けるような気がして、どことなく先生に対する安心を覚えていた。
両手で頬杖をついて、C宮はにっこりと笑う。
「先生も、人間かあ」
ジューン・ホワイトの雨の日は 夜明朝子 @yoake-1201
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