五人の生徒と和解、あるいはK先生

 秋晴れの教室、三年生はの授業は、受験に向けた対策と並行して行われるものばかりだった。そんなピリピリと張り詰めた空気の中でも昼休み後というのはは、どうしてもお腹いっぱいで皆々ねむくなってしまうものだが、予告なく自習になった数学の時間。生徒たちはどこか生き生きとしていた。四人の班となり、机をつけてお互いに協力しながら数学のワークを取り組む、それが本時の課題らしい。

 しかし、一足先にスポーツ推薦によって進学が決まったB野は、心底退屈そうにシャープペンシルを回して遊んでいた。つまらない、そう思っていたのだ。彼の手は全く動く様子がない。それは、単につまらないのではなく、B野にはそれが難しいからやりようがないのだというのがきっと正しい。

「B野ぉ。お前、進んでるん?」

「くそっ、そんなこと聞いてくんなよ」

「ぼくと同じくらいか、なんならぼくより勉強できないくせに、進路決まってんの、ちょー腹立つんだなぁー」

 B野の向かいの席で顔を真っ青にしながらもくもくと数学のワークに取り組むC宮は、大きなため息を吐く。B野はそんな彼を憐れむことなく、一際大きな声を発した。

「はっ、テストなんて三十点以下取らなければいいだけだろ」

「うわー! 試験直前に影谷先生に泣きついてるやつがなんか言ってんだけどー!」

 彼らの担任でもあり、数学の教師である影谷先生が所用で来られない代わりに自習の教室監督をすることになっていたS先生は、二人を怖いほどの満面の笑みで威圧した。

「私が、何を言いたいかは……わかるね?」

 少ししおらしくなった二人は、お互いのせいだと責任を押し付けながらもしかたなく手を動かしていた。

 それを別の班から見ていたD島は小さく舌打ちをし、E村は苦笑する。いい意味でも、悪い意味でも、彼ららしい。そう思ったからだった。

「……E村はどうです。進捗のほどは」

「難しいねえ。僕は本当に応用問題が苦手で……。この二次関数と一次関数と……なんか、その面積を求めるやつ……わからなくって」

「そこはまず……」

 途端。


 ガガラガラ……。


 それは、突然のことだった。閉めきられていた教室の戸が開いて、そこからA崎が入ってくる。そして、S先生と一言二言ばかり言葉を交わしたのちに、彼はいつも通りの様子で、おだやかに、自分の席へ向かって歩いて行ってしまった。何事か、と生徒たちは彼の様子を怪しんだが、それを訪ねることはできないまま「きっとA崎のことだから大丈夫なんだろう」という暗黙の了解で触れることはしない。

 しかし、A崎がB野の背後を通った瞬間、B野は彼の袖を思いっきり引っ張る。何事か、とA崎は彼の方を見るが、彼は視線を合わせることなく、声変わりを終えた低い声で言った。

「面、貸せよ。放課後」

「やめろよ、みんながこっちを見る」

 A崎は、そんなことを投げやりに言った。

 そんな彼に腹をたてたB野は、彼を転ばせようとでもいうのか……どれほどまでに強く彼を下へと引っ張った。A崎は若干よろめいた末に、呆れて乾き果てた笑い声をあげる。

「はははっ、どうした?」

 B野はそのまま、隕石みたいに強い言葉を彼にぶつけた。

「逃げんな」

 教室中が一斉に静まり返って神妙な空気になる。B野の班の生徒たちは、はらはらと彼をなだめようとし、事情をしらない他の生徒は何事かと二人の方を見る。一部の女子たちは、それを煽るように騒ぎ立てた。

「まったく、君たちは何してるのかな。自習中なんだから、ちゃんと進めなさいよー。そのワーク、来週には提出なんでしょー?」

 クラスの中には若干の疑念が残ったまま、S先生の言葉でおずおずと皆は次週に戻っていく。

 C宮は、まんまるとした目を見開いたままで、おどおどと二人に声をかけた。

「な、なにしてるん……。B野も、A崎に勉強聞くなら、後でにしな、ね?」

「うっせ。お前には話してねえよ」

「毒針マシマシじゃん……。数学が嫌だからってぼくに当たんないでくんない?」

「根倉オタク」

「それ今関係なくね⁉」

 C宮の持ち前の明るさは、こういう時にきっと一番発揮するのだろう、周囲の生徒はそう思って安堵していた。別の班にいたD島は、じっくりと彼らを観察しているばかりだったが、E村は、どうしよう、と一人考えていた。

 ――ちょっとしたギクシャクで、

 ――僕たちが友達でいられなくなるのは、

 ――なんか、やだな。

 心底、困ったような表情を浮かべていた彼を、D島は静かにたしなめた。人一倍、周囲の人間のことを見ている彼は、人の輪が壊れることに人一倍恐怖している。それをD島は理解していた。

「私たちが変わらなけれは、いつも通りでいられるのでは。大丈夫ですよ、おそらくは」

「……そう、かな」

 B野も。

 C宮も。

 D島も。

 E村も。

 少し目元の赤く染まるA崎が〝いつも通り〟なわけないことをわかっていた。きっとそう思われているだろうことを、A崎もまたわかっていたのだろう。

 だから、ついぞA崎はB野の言葉に答えないままだ。


   ***


「……B野。今日は部活、いいの?」

 A崎は、校門前の前に立つ、一際背の高い彼を見て苦笑せざるを得なかった。

「元々引退してるのに進学先でもやるからと無理に残ってたのはこっちだしな。たまにはいいだろ」

「だからって、校門前で待ち伏せはやりすぎ」

「お前みたいなタイプは強引に動くに限る。にしとくと、にされるのはわかってんだ」

 B野は、ぶっきらぼうだが、その実、人一倍優しい。面倒くさそうに首の後ろに手をやっているし、大きなため息も吐く。しかし、今日みたいにA崎がどうにもならなくなってしまう前に、彼の目はその異変を捉えて離さない。

 B野の目は、部活動で培われたものであるか、あるいは彼の本来の性分であるかは定かではないものの、確かに見ているものが他とは違っている。だからこそ、人間の本質的な部分を見抜いた発言を時折するのであるが、おそらくは直観に理論が追い付いていない状態だ。回りくどい方法というものは、彼の選択肢の中にはない。

「……そう」

 ある種の諦念をふくんだ情けない声が、空気中に溶け出て消えていく。逃げ道がないことを悟ったA崎は、それ以上何を言うこともなく、ただ、少し上にある目をじっと見つめるばかりだった。蜻蛉が二人を騒ぎ立てるように取り囲んでいく。

「な、早く行こうぜ」

 ただ、B野が強引な優しさをもって促す行動に従うほか、選択肢がない。A崎はわずかに手を伸ばし、彼の頭に止まっていた蜻蛉を手で払いのけた。


   ***


 児童公園のこじんまりとした東屋、その下に置かれた雨風にさらされてせいか綻びのあるベンチに、学ランを着た中学生が二人、座っている。

 A崎の内心は、凪いでいた。いろいろなことを考えて必死に自分を守っていたはずが、それが全て無に帰してしまった。諦めというべき心がそこには存在していて、彼はそれを自覚していた。

「影谷先生と、何話したんだよ」

 B野はタイミングを伺いつつ、そう切り出した。

「別に。ちょっとした教育相談」

 通学路に近い児童公園であるためか、下校中の小学生たちが楽しそうに騒ぎながら帰っている声が聞こえている。風がそよいで、木々が歓談しながら声を受け取っている。そんな中でA崎の声は今にもかき消されてしまいそうだった。

 そのぐらい弱々しいのに、でも糸をぴん、と張ったみたいに抑揚のないその声に、B野の眉間に皺がよる。

「腹立つ」

「なんで」

「腹立つんだよ!」

「二回言わなくても……」

 短気だな、と苦笑するA崎を横目に、B野はそのままの調子で問い詰めた。

「お前は大概なんかあったときに別に、っていうよな。あん時だってそうだ。三ヶ月前、ちょーどX田が来なくなったころ、様子がおかしいお前におれは聞いたよな。何があっただろって」

「覚えてないな」

「あん時も、お前は別に、っていったんだ。普段は大丈夫っていうのにな?」

「そう?」

 すると、B野はA崎の脇腹を肘で突いた。

 うぐ、という呻き声が起こってBは豪快に笑う。

「何すんだよ!」

「はは! ざまあねえな」

 そうしてしばらく二人、笑い合っていた。

 これまで起きた何もかもを忘れてしまうほどのからっとした空気が周囲に広がってやがて消えていく。

「せっかくダチになれたのに、いつまでも他人と同じ線引きってのは、あんまいい思いはしねえよ」

「あえて言葉にするなら……言葉にするのも難しいんだけど、簡潔に一言で言うと……」

 A崎はそうして学ランのホックに手をやって、外して、掛けて、外してを繰り返していた。目の中にはうっすらとした膜に覆われた憂いが確かにそこにあった。

「弱さを見せるだけの強さが俺にはないんだろうな」

 それは、B野に聞かせているようで、実は自分自身に言い聞かせているようだった。

 わあーっ、と大きな歓声が聞こえる。

 どうやら、小学生たちが公園に遊びに来たらしい。カタキしようぜ! だとか、鬼ごっこしようぜ! だとか元気な声が草原いっぱいに広がって遠くまで行ってしまったみたいだった。

「それがお前の、弱さねえ……」

「その言い方とその様子、さてはお前だろ、犯人。この裏切り者」

「人をナメてんのが悪ぃだろ」

 中学生らしい軽口を叩けるほどまでに、歯車がただしく噛みあい、再び回り始めている。もうあと何か月というわずかな期間、彼らは精一杯に動き続けるのだろう。艶やかな青春を形作るために。

「はぁ…………」

 A崎は顔を覆って、大きなため息をつく。あらゆる暗い感情を一気に吐き出すような、重たいそれはやがて雲散霧消した。

「どうした? 今度はそんなでっけえため息ついてよぉ」

「絶っ対、影谷先生に嫌われた……」

は大変だねぇ、つくづく」

「せっかくここまで乗り切ったのに」

 先生に目をつけられてよかった試しがないのだ、と彼は俯き呟くのだが、B崎はそれに疑問を投げかける。

「影谷先生はそういうタイプじゃねーだろ」

「問題児っていうレッテルはそう簡単にはげるものじゃないさ」

「だとしてもだ。あの先生がお前を憐れむことも警戒することもねぇよ。お前はお前。割り切ってんだろ、あの人は。もし、そーやって態度を変える先生なら、おれのことはとっくに捨ててるな」

 恥ずかしがることもせずはっきりとそういいきるB野に向かってゆっくりと顔を上げたA崎は、しばらくぽかんとしていた。しかし、そのあとすぐに苦笑に変わる。

「B野、お前は何回先生に成績表を見ながら、なんとかします、って言われたんだよ」

「一、二回の話では……ねぇな」

「推薦だろうと内申点は必要だろうに」

 そんなことを二人で話している折に、バサっという激しい音と共にA崎の姿はB崎の目の前から消え、代わりにそこには別の人影が映る。ねぇ、ねぇーと、非常に明るい調子の声が、二人の耳に響き、B野は顔を顰めた。

「ひどいじゃんねー? ナイショ話ならぼくらも混ぜてよ」

「C宮……潰れてるぞ、A崎が」

 くぐもった声がわずかに呻き声をあげている。

 C宮は、焦り、やべ……という声を漏らしながら静かに退いた。そんな彼らに続くように近づいてきた二つの人の影。

「私は止めました。それでも飛び出したのはあなたですよ、C宮」

「C宮くん、先に行っちゃうんだもん……。僕たち追いかけるの大変だったんだよ」

 D島とE村である。馴染む汗をハンカチで抑えながら小言を挟むD島と、パタパタと手で仰ぎ体温を下げようとするE村の二人はC宮とともに学校を出て、ここへやってきたようだ。

「なーんか、影谷せんせーに呼び出されてからA崎のよーす、変だったじゃん? それにB野も変に突っかかるし……。気になってあと追っかけてきちゃったんよねー」

 A崎は困り顔をするばかりだったが、全てを知ったB野はにったりと怪しく笑ってA崎の頭を掻きむしった。

「〝先生に嫌われた〟、とかなんとか言ってウジウジしてやがるからよぉ、ブッ刺してやろうかと思って」

「可愛いところあんじゃん、A崎ぃ……」

「やめろ、脇腹突かないで」

 C宮は、笑顔になって軽く飛び跳ねながらようやくA崎から離れ、袖口をきゅっと握りしめた。D島は眼鏡を押し上げながら、大きなため息をつく。

「……深くは詮索しませんよ、私たちは。今まで通りで別に構わないと思っていますから」

 E村もそれに乗ずるように微笑みながら指を組む。

「影谷先生、A崎くんをすごく心配してた。影谷先生がA崎くんを嫌う……なんてことはないよ。……それにA崎くんは悪くないでしょう?」

 A崎は少し視線を下に落とし、そしてポケットに入れたままのハンカチを強く握りしめた。

 変わるものも変わらないもの、それぞれあり続ける。一本の木が芽吹き、根を強く張って、空へ手を伸ばし、やがて葉を茂らせる。やがてそれは赤く色づいて、はらはらと落ちていき、強い木の幹は、極寒の雪原でじっと春の訪れを待ち続けるのだ。

 彼らも、いつかはそうやって変わってゆく。望もうとも、望まずとも。

「まぁ……なるように、なるか」

 A崎の瞳が僅かに、波立つ。

「なって、くれないかなぁ……」

 そんな空っぽな声は、わずかにE村の耳を掠めてるばかりだ。E村は緊張がほどけたのだろう、ふんわり柔らかく微笑んで、頬を赤く染める。

 蜻蛉が一匹、はらりとやってきてA崎の頭に止まる。四つの羽をピン、と張って次の空を志していた。大丈夫だろう、そんな根拠のない自信を持って彼らは、確かに〝守る〟選択をするのである。そうして、空へと飛び立って——。


 C宮は、A崎の頭に止まった蜻蛉を払い除けながら、ところで、と話を切り出す。

「X田のアレコレ……これまでなんも手がかりなくって、先生も困ってたし、なんも起こってなかったのに。なんで急に影谷先生は、ぼくたちのところに来たんだろ?」

そんな些細な疑問に、その場にいる皆が答えられず口をつぐんだ。


   ***


「影谷先生、一体何があったんですか。あのクラス」

 S先生——九瀬ここのせ涼夏すずか先生は、授業で使うプリントを作成していたのだろう影谷に尋ねる。影谷は少し困った顔を見せた。

「教師は、無力ですよね」

 影谷先生はそうつぶやいて、目を伏せる。

「X田くんの件は、九瀬先生もご存知でしたよね」

「ああ、はい。保健室登校の生徒」

「ええ」

 九瀬は近くにあった事務椅子に座り、影谷のすぐそばに座る。影谷は一度頷いて、ふたたび重たいその口を開き始めた。

「学級の問題というのは、一たす一みたいな単純な話では治らないもので。どうしても手の及ばないところがあります。本当に苦しいことですね」

「A崎くんのことと関係あるんですね?」

「……ここからのことはあまり言いふらさぬようお願いします」

「安心してください、そんなに口の軽い女じゃありませんよ」

 九瀬はニッコリと白い歯を見せた。影谷は冷ややかな視線とは裏腹に口角を上げて彼女の目をまっすぐに捉えた。

「ここからは、彼らから聞いた話と僕の推測を含めてお話しします。一部誤解があるかもしれませんが、状況把握だと思ってどうか聞き流してください」

「承知しました。任せてください」

 影谷はそうして少し視線を遠くにやり、ゆっくりと口を開いた。

「ことの発端は、去年の話です」


   ***


 X田くんはある女子生徒に、告白をしたそうです。ある日の放課後に。……Y藤さんですよ。これに関しては当事者間の問題ですので、口を出すつもりも、何かする気もないのですが。そこで、どうやらY藤さんは「A崎くんのことが好きだから」という理由でX田くんの告白を断ったんだそうです。ここまでは、まあ、年頃の生徒たちの間ではよくある話ですよね。

 ですが、不運なことに。

 生徒会の方の会議に学級委員長として参加し、それを終えて、教室へ荷物を取りに来たA崎くんが、タイミング悪く現れてしまったんです。

 幸いなことに、Y藤さんはそのことに気づいていなかったようですが、A崎くんはX田くんとしっかり目を合わせてしまっていました。それがすなわち、X田くんからしてみれば「恋敵であるA崎くんに弱みを握られてしまった」という状況になってしまったわけです。

 要するに、告白という羞恥心と後ろめたさ、そして敗れたという結果をA崎くんに知られてしまったことに耐えられなかったのでしょう。だから、彼はA崎くんに絶えず嫌がらせをしていた。とはいえA崎くんには、おそらくそのことを誰かに言いふらすつもりも、あるいは笑い物にするつもりもありませんでした。Y藤さんのこともおそらくは一クラスメイトだと思っているでしょうし。……悪い言い方をすると、要するにX田くんの被害妄想だったのです。

 そしてA崎くん自身が重圧に耐えられなくなって、彼に「これ以上自分の前に顔を見せるな、さもなくばお前の秘密をバラす」と言ったのが三ヶ月前ほどの話になります。その日を境に彼は教室にこなくなりました。

 ここまでが、表向きの話……いえ、X田くんが保健室登校になった理由になります。

 ですが、この秘密を知っている人がもう一人いるのをおそらくX田くんは失念していた。

 誰か、わかりますか。

 ……ええ、そうです。Y藤さんです。

 Y藤さんは少なくとも自分の周りの友人たちにはそのことを伝えていました。だからこそ、A崎くんとX田くんの間にあった違和感の原因がY藤さんの一件であることも理解していた。こういう時の女子生徒の団結というのは恐ろしいもので、想像したくはありませんが、X田くんは彼女らに影ではあることないこと言われていたのでしょう。X田くんがそれを直接教えてくれたわけではありませんが、彼の話を聞く限りはそうである可能性が高い。それによるストレスの捌け口が、A崎くんであったというわけです。

 そして、三ヶ月前に彼女たちにとってはX田くんが保健室登校になりました。

 ……なぜか、ですか。

 それはもちろん、Y藤さんからすれば心置きなくA崎くんに近づくチャンスができたわけですから。X田くんの一件で辛い思いをしているA崎くんになら、つけ入る隙があると思ったのでしょう。

 ですがその後、別の壁に当たることになります。Y藤さんにとってA崎くんと一緒に行動している四人の存在です。だんだんと目障りになっていったんですね、彼らが。いつも誰かしらがA崎くんのそばにいて、簡単には近づけない男女の隔たりがあったわけです。とくに、B野くんとD島くん。彼らは、A崎くんにこそフレンドリーですが、他の人からは威圧感があるようで、遠巻きにされているでしょう?

 ……ボディガードとは少し違うような気もします。が、そのような役割であったことは否めませんね。そこに本人たちの意思があったかは別として、確かにA崎くんは守りの堅い状態になっていたのだと思います。そもそも僕に「X田くんのことを知りたいなら五人の生徒に聞け」と言ったのは、Y藤さんたちです。これで辻褄が合うでしょう?

 なぜ今になって、ですか……。

 この時期になると、部活動も生徒会活動も、そろそろ後期になって三年生は受験に集中することになる。そうなれば、一層A崎くんの周りは堅くなり、近づく機会を失いますよね。ですからその前に、五人の友情に亀裂を入れようとした、ということでしょう。……今になって考えてみれば、そうなのではないか程度の予想ですが。

 彼らがお互いに疑心暗鬼になってさえしてくれれば、A崎くんにつけいる隙が生まれる。だから、それを彼女たちは一致団結して実行することにした。

 ……僕という教師を使って、です。


   ***


「放課後に少しE村くんと話しました。彼は人一倍、調和を重んずる性格をしています。A崎くんについて気にかけて欲しい旨を伝えれば、彼は快く受け入れてくれましたので、ひとまずは落ち着くことでしょう」

「本当にそれだけで大丈夫なんです? B野くんは、五時間目のあの時間にA崎くんに突っかかってましたけど……」

「B野くんは、人の本質を見抜く力があります。A崎くんが何かしらをを抱えていることを承知でずっと過ごしていたはずです。彼らの間に何かあったとしても、悪い方向には進まないでしょう」

 九瀬は、本当かなぁ、と一言呟いたのちに大きなため息をつく。影谷があまりにもはっきり言い張るものだから、教師の先輩として信用せざるを得ないのだと、わかっているからこそであった。

「にしても、女の子って本当に怖いなぁ……。私たちが思うよりもずっと大人びている。むしろ、すぎているくらい」

「とりわけ最近の子は、ですね」

「そしてもっと怖いのは、私たちがそういう男女のアレコレに気安く踏み入れる立場じゃないってこと」

「……そうですね」

 影谷は一通り話し終えて、一息つく。九瀬は、たった一つの些細な出来事は氷山の一角にすぎないのだという実感を目の当たりにして、目をぱちぱちとさせていた。

「本当にびっくりです。ともかく、なにか大きな問題になる前でよかったじゃないですか」

「僕としてはX田くんが学級に来れなくなった時点で大きな問題でしたよ。もっと早くに気づけたら、と何度思ったことでしょうか」

 そうして、どことない悲しさと自分に対する憤りで拳を強く握る影谷の目の前で、九瀬は軽くぱん、と手を叩いた。鳩が豆鉄砲を食ったように影谷はその目を見開き、彼女に向ける。

「教師だって、人間です。どんなに頑張ったって、目の届かない部分っていうのはありますよ。それに、この一件は影谷先生のせいだけじゃないです」

「ですが、生徒たちにとってはそれが取り返しのつかないようなたった一度きりの出来事でもあります。僕の落ち度ですよ、これは」

 えー、と不満を漏らす九瀬を静かにたしなめながら、影谷は失笑した。色々とこの件に関してはまだやらないといけないことも多い。真実を知ったから終わりというわけにはいかないのが、教師という職業の大変なところなのだ。自分の実力如何で生徒の一生を左右する可能性のあるその責任。影谷は、心のうちに漠然とした不安を覚えている。

 そんな影谷を知ってか知らずか、九瀬は大きく背伸びをして席から立ち上がり、相変わらずの陽気さで、さぁて、と元気のいい声をあげる。

「今度、同じようなことがあったら迷わず頼ること、ですよ。影谷先生ってば、色んな意味でわかりづらいんだから! 本当に」

「善処します。……本日の授業の方、代わりに見てくださってありがとうございました」

「いえいえ、このくらいなら大丈夫ですよ。美術科なんてそんなもんです」

 美術部の方に顔を出すから、と満面の笑みを向けて去っていった九瀬をじっと見送ったその後に影谷は、A崎と話したことを思い出していた。


   ***


 こんなことを、見せびらかすようにいうのは恥ずかしいことですが。

 そう前置きをして、影谷は話し始める。

「僕はかつて、ある一人の心を壊しました。今思えば、彼はおそらく僕に助けを求めていたのでしょう。ですが、当時の僕はそれを拒絶したのです」

 A崎は、紅葉柄のハンカチを顔に当てながら、意外だと目で問いかけた。

「先生が?」

「ええ、高校三年の頃だったと思います」

 影谷はじっとA崎の方を見つめて、淡々と語る。かつて自分が心を殺してしまったある一人の男の存在をぼんやりと思い出していた。

「とくに仲が良かったわけではありませんし、僕から見れば高嶺の花みたいな……君みたいな人だったのを覚えています。頭が良くて、絶えず周りには人がいる。そういう人でした」

 決して真面目ではありませんでしたがね、と付け加えながら影谷は不意にうつむいた。何を言おうとしたのか、あるいは言うべきだったのかを全く思い出すことのできないままで瞬きを繰り返すことしかできない。おぼつかない口を、思考だけを頼りにかろうじて開閉する。

「でも、おそらく彼にとって、触れたくなくても触れなければならないような何かを、明かしたいと思った人間は、彼の周りにいた人間ではなかったということなのでしょう」

 たどたどしい口調の影谷に、A崎は、少し首を傾げたが、そのあとすぐになにか心当たりが見つかったようで、目をつぶった。

「ええと、何を言っているんでしょうね、僕は。……とにかく、一人で生きようとしないでほしいと思ってます。君の周りには君が思っている以上に素敵な友人がいるでしょう」

「……そんなの」

「無理ですか?」

 その言葉は、A崎にとってみればエペで心臓を一突きされたくらいの鋭さを持っていた。表情の豊かでない影谷の様子と相まって、それは氷でできたつららのようでもある。心臓から感情という血液があふれ出して、とどまってくれないような勢いを感じて、A崎は顔をゆがませた。

「君は、心のどこかで強くなくてはならない、そう見せなくてはいけないという縛りを作っているのだと思います。意図していても、していなくても、です」

「それって、悪いこと?」

「悪いことではありませんが、最善ではないと思います」

 影谷は、教室の窓の外を見遣り、落ちる葉を眺めながら、半ば独り言のようにつぶやいた。

「僕たちは人間です。そして神様の手のひらの上で転がされてはいともたやすく握りつぶされてしまうようなちっぽけで弱い存在です。老若男女など、関係ありません」

 しかし、それは強く根を張りめぐらせた大樹のようにA崎の心のうちにしっかりと根付いて、響いていた。

「だから、生きていくためには弱さを見せる強さが必要なんです」

 A崎は制服のホックを静かに掛け直し、顎に手を当て、静かに目を伏せた。

「弱さを見せる強さ、か……」

 影谷は、黙ってその様子を見守ることしかできないでいた。

 ここからは、彼自身が選んで進まなければならない。自分の人生の主催者は自分なのだから、そこに一教師は手を添えることしかできない。ちょうど、人差し指を立てて蜻蛉の止まり木を作るように。

「……難しいでしょう」

「難しいね、俺にできるかな」

 そう言って、はにかむA崎を見て、影谷は心底安心していた。

 彼はきっと大丈夫だろう、自分の力でどうにかできるだろう、と。自分はただ、羽が治るまでの止まり木になってあげることに専念すれば、それで十分だ。


「できますよ。君になら」


 ほどなくして、彼が教室へ戻るのを見送った影谷は、呆然と昔のことを思い出していた。

「僕があの時、彼に……伝えられていれば。何か変わったんでしょうか……」

 覆水は盆に返らない。溢れたミルクのことを嘆いていてもしょうがない。ただ、それでもそう思わざるを得ないのは、影谷にとって、〝彼〟の存在が、後悔そのものだからだ。

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