K先生と五人の生徒、あるいは真相

 K先生――影谷先生は、今日も帰りの短学活を終え、無事に放課後が始まったことへの安堵のため息をつく。中間考査も終わって生徒たちの憂鬱な気持ちも晴れたのか、活気を取り戻した秋の教室には心地よい風がふんわりとやわらかさを持って流れ込んできた。

 窓の外では蜻蛉が空をさまよい、やがて疲れ果てて、適当な雌雄の出会いを求める。秋らしい景色が広がっている。そんな穏やかな空気の中で突然、学級日誌と出席簿に目を通す影谷先生を眺めていた数名の女子生徒たちが一斉にキャハハ! とあどけなく笑い出した。

「ねえ、せーんせ?」

 珍しいこともあるものだ。影谷先生は、日誌と出席簿を持ち上げようとしていた手を止める。どうかしましたか、といういつも通りの抑揚のない、だがしかし生徒への愛情を確かに込めた声が発された。

「X田って、元気?」

「元気ですよ」

「そっかあ、それならいいんだけどさーあ?」

 一人、わざとらしく声の調子を上げると、教師を試すような女子生徒の甲高い声が学級の壁にぶつかって反射し、影谷先生の元へと反っていく。影谷先生は、とく、と心臓が揺れ動いたのを感じた。

 X田と言う生徒は、かれこれ三か月、学級に顔を見せていない。一応、保健室通学という形では学校に来ているが、なぜ学級に来なくなったのか、大人たちは誰も知らないし、X田は決して話そうとしなかった。養護教諭にも、副担任にも、部活の顧問にも、両親にも、おそらく友人たちにも、もちろん担任の影谷先生にだって言わない。

 その他のことは普通に話すし、普通に学校に来る。あくまでも学級にだけ来ず、その理由についてだけ、話さないのだ。

「彼について何か知っていることでも?」

「あたしたちは知らないよう。だって、所詮? 単なる? クラスメイトだし?」

「でもでも……」

 影谷先生への嘲笑を込め、彼女たちは、次々にこうつぶやいた。

 ――あの、五人なら。

 ――くすくす。

 まるでKという教師の力量を試してやろうとでもいうように女子生徒たちは口角をあげる。影谷先生の考えていることも理解した上での行動であるのは、のんきな蜻蛉が見たって明らかである。

 影谷先生は、自身のかけている黒縁眼鏡の奥で静かに一度目を伏せた後、彼女たちを目の中に収めて、じっと見つめた。

「さっすがあ、先生。でも、先生ならそうしてくると思ってたよ」

 すると彼女たちは、一度しか言わないからちゃんと聞いてね、と念押しして……。


   ***


「この学級の一軍男子グループのA崎、B野、C宮、D島、E村の五人。この中に一人だけ、X田がクラスに来なくなった理由を知ってるやつがいるよ」

「でも、その一人は、本当のことを言わない。嘘をつく」

「その代わり、他の四人は何にも知らないから……嘘は言わない」

「さあ、この五人の中のだれが秘密を持っているでしょうか!」

「先生なら……わかるよね?」


   ***


「なんか悪いことしたかな、俺」

 影谷先生は、次の日の朝の短学活の前に、まずは五人グループのリーダー格であるA崎を呼び出した。

 A崎は、学級委員長も務め、成績も中の上で、万人に好かれる生徒だ。影谷先生も同様に彼を信頼している。それゆえに、このような呼び出しをされたことに少し不安を見せていた。

「いえ、悪い話ではなく。単に、君へ尋ねたいことがありまして」

「尋ねたいこと?」

「はい、X田くんのことについて」

 それを聞いてA崎は、目を伏せてほっと胸をなでおろした。

 さらに少し顎に手を当て、首を傾げる。

「別にX田と特別何かを話す関係じゃないからな。でも、クラスに来てないのは気になってた。もしかして、それ関連の……頼み事?」

「何かあった際は、是非協力お願いします。それよりも、いつも仲良くしている他の四人……彼らの中でX田くんのことを何かしら知っている人に心当たりはありませんか?」

 A崎は、学ランの首元のホックを指で少しいじりながら、釈然とはしていない様子で、視線を明後日の方へと移した。

「あー、それなら。C宮なら何か知ってるんじゃないかな」

「C宮くんですか?」

 はにかんだA崎は、だって、と言葉を紡ぐ。

「C宮は、X田と幼馴染で親しいはずだろ。なのになんも知らないわけなくない?」


   ***


「……え、A崎がそうやって言ってたん?」

 C宮は目を丸くした。

 天真爛漫な性格で、クラスでもグループでもムードメーカーである彼は、癖のある髪の毛を指で絡めながら影谷先生に尋ねる。

「はい。X田くんと幼馴染だと、そう伺いました」

「んー、まあ、そだねえ。そうだけど……」

「何か、知っていることはありませんか?」

 一時間目終わりの休み時間。二人のいる廊下は教室移動の生徒で騒がしい。けれどC宮は、そんな人の流れに気も留めず、窓の方へ視線を移す。そして全く興味なさそうに、別にぃ、とつぶやいた。

「そんなのぼくだって聞きたいよ。でもあっちがぼくのこと拒否ってんだからそれ以上聞けないじゃんね」

 C宮は何かを考えるように口を閉ざす。

 その後、はっと目を見開いて影谷先生の方を見たC宮は、あ……、と声を漏らした。

「D島とA崎は? ちょうどX田が来なくなった頃になんかD島とA崎がX田のことを話してるっぽいの聞いたし……」

 今のぼく、探偵っぽい? C宮はあざとく微笑む。

 影谷先生は、A崎くんとは先ほど話したな、と自身の中で確認しつつ、A崎くんとD島くんですか、と返した。

「そ。A崎が幼馴染の話を知ってんなら、D島からだと思うし」

 そう言い切り、飛び跳ねながら窓の外を覗き込んだC宮は、学ランの袖口を握り、秋だねえ先生、と無邪気に笑っていた。

「ね、影谷先生」

「なんでしょうか」

「今、ぼくがしゃべったことも幼馴染のことも、あんまばらさんで、ほしい、かも」

 影谷先生は、静かに頷いた。


   ***


「X田? ああ、いましたね。そんな生徒」

 丸眼鏡のブリッジを押し上げながら、心底興味なさそうに言い放ったのはD島だった。

 D島は、非常に生真面目で、教育熱心な両親の賜物か、テストの学年順位は常にトップの生徒だ。しかしながら、時折こうして人とのかかわりに疎い側面を見せることがある。とりわけあの五人組以外で誰かと積極的な交流をしているところを影谷先生は見たことがない。

「それで? 彼に関して……私に何か?」

 三時間目の授業も控えているのだからさっさと終わらせてほしいと露骨な態度を取ったが、彼の努力むなしく、影谷先生の何か聞くまで退かない姿に呆れを見せる。D島は大きなため息をついた。

「聞く相手を間違えていますよ、先生。私とA崎の話はたいしたものではなかったと思います。C島の件は……私が遠回しに伝えてしまったのかもしれないことに関して否があるかもしれませんので、C宮に謝罪します」

 D島は、自身の名札が床と並行になるように安全ピンの位置を調節して、影谷先生に全く物怖じする様子もなく、強く言い放った。

「ですがやはり、話を聞くならB野とE村へどうぞ。彼らの言葉は少なくとも私より信用できるはずですから」

 どうしてそう思いますか。影谷先生はそう尋ねる。

「B野はX田と同じ部活の仲間でしょうし、E村はご存じの通り、万人に優しい性格ですから」


   ***


「ごめんなさい先生。B野くん、もう体育館に行っちゃったのかも」

「E村くんにも聞きたいことがあったので大丈夫ですよ」

「僕に? なんだろう?」

 E村は、指をぱたぱたと動かしながら恥ずかしそうに顔を赤らめた。先生を前に緊張しているのだろう。額に、頬に、冷や汗がにじみ出ている。

 控えめで引っ込み思案のE村は、グループの中で目立つタイプではないものの、バランサーとしての役目は彼の秀でるところである。彼がいるからこそ団体の調和が保てているといっても過言ではない。

「X田くんのことで少し尋ねたいことが。何か、知りませんか?」

「X田くん? 元気にしてるのかな」

「元気ですよ」

「そっか、それならよかった」

 E村は、ズボンのしわを少し伸ばすように手を動かしつつ、ぼそぼそと控えめに言葉を紡ぐ。

「僕がX田くんについて知ってることはないんだけど……」

 でもね、と彼は笑顔を見せて、ゆったりと優しい口調を返した。

「B野くんに話を聞いてみてよ。B野くんは先生に嘘をつく人じゃないと思うんだ。いつもは少し乱暴だけど、彼の優しさを僕は知ってるから。X田くんとも同じ部活で仲良くしてたと思うよ」


   ***


「そんなら、A崎に聞けよ。給食時間前にわざわざ呼び出して聞くようなことじゃねえな」

 四時間目の体育が終わった後も元気だった彼は、もうそこにいない。B野はただ影谷先生に鋭い目を向ける。不機嫌、そのものだ。

 背が高く、筋肉質でガタイも良く、スポーツ万能なB野は、他の生徒から見てもとにかく威圧感がある。勉強に関しては今後に期待と言いたいところだが。それは進路がスポーツ推薦によってもう決まっているところから生まれた余裕ゆえだろう。

「A崎くんとはもう話をしたんです。あとは君だけなので」

「あっそ」

 首を片手で押さえながら、心底面倒くさそうに深いため息を吐いて、かといって影谷先生を無視しようとする様子はない。おれは何もしらねえんだよ、B野はぶっきらぼうにそう吐き捨てる。

「でも、おれならやっぱりA崎に聞く。あいつが世渡り上手ってのもあるけど、あいつは、あいつ自身や影谷先生、おれたちが思ってる以上に秘密が多いから」

 その発言は、少しばつが悪そうだった。影谷先生は生唾を飲み、これ以上聞いていいものかと思案した。その上で、彼はきっと答えてくれる。影谷先生はB野を信じた。

「どうしてそう思うんですか?」

 B野は少し目を泳がせる。

「……クラスで一番、悩みがなさそうだから」

 B野は、わかれよ、と真っすぐに影谷先生の目を見つめた。その恰好はとても真面目と言い難いような、ズボンの両ポケットに手を突っ込んでいるという姿であったが。

「おれは、そういう完璧すぎるA崎が苦手だ」

 影谷先生は、数回瞬きしたあと、わずかに口角を上げてB野に言う。

「そう言いつつも彼と一緒にいるのは、彼を知りたいからですか?」

「…………まあ」

「それが、君のやさしさなんでしょうね」

  B野は、影谷先生のその言葉に少し奇妙な恥ずかしさを覚えて、下唇を噛んだ。


   ***


 窓が開け放たれ、カーテンは波のようにゆらめき、穏やかな午後の時間はすでに始まっている。

「涼しい季節になりましたね。貴重な授業時間にまた呼び出してしまい、すみません」

 影谷先生は、空き教室に呼び出した生徒の真向かいに座るために、一つの椅子を手前に引き寄せ、腰を掛けた。

「手短に。X田くんのことについて話しましょう」

 影谷先生の視線の先に居座る生徒は、先生の声に反応せず、ましてや顔さえ上げようとしなかった。

 先生の授業はいいのか、と生徒は聞く。抑揚のない、淡々とした声だった。無機質で、まるで生気がない。

「自習してもらうよう既に他の先生に頼みました。進度もうちのクラスは問題ありませんから。それに、なによりも僕には優先しなければならないことがあります。……君のことです」

 影谷先生は、一切の動揺を見せず、ただ淡々と、けれども真っすぐな優しさを込めて、生徒に語り掛ける。

「X田くんが学級に来なくなった理由、それは、X田くんとあなたとの間にあった秘密のせい……そうですね?」

 生徒は、黙秘する。

 影谷先生は、そのまま続けて言う。

「その秘密が引き金となって、彼はあなたに執拗な嫌がらせを繰り返しました。でも、あなたは言えなかった。証拠もなければ、目撃者もいない、改善もしない。嫌がらせと言っていいのかもわからないような地味な嫌がらせをずっとされていた。ですが、それも三か月前のある時までです」

 影谷先生は、彼を見放さない。自分の手のひらから生徒をこぼしてしまわないように細心の注意を払って視界に置き続けた。

「……あなたは、三か月前、彼に脅し文句を言いましたね」

 生徒は、なおも口を噤んだままだ。

「自分の目の前にもう現れるな、さもなくば秘密をばらす、と……」

 生徒は、ようやく顔を上げ、窓の外へと視線を向ける。

「おおよそのことはX田くんに聞きました。あなたの名前を出したら、その時のことを話してくれたんです。ですからあとは、君が話してくれるのを待つだけだ」

 影谷先生の言葉に込められている思いは、まぎれもなく、一途な生徒への愛情だ。抱擁と慈愛がそこに存在している。

「よく一人で耐えましたね。きっとその精神力は並大抵のものではなかったでしょう。もっと早くに気付いてあげられず、本当にごめんなさい」

 そんな教師の心を垣間見た彼は、ようやくわずかに口角を上げ、薄ら笑う。そして指で、空気の通り道を作ってあげるように学ランのホックをはじき外し、すう、と肺に酸素を取り込んだ。

 やっとのことで発された声は、すべての人を拒絶するようなほどに細くてすぐにちぎれてしまう糸のようだった。

「ねえ、先生……」

 影谷先生は、彼の言葉をじっと待つ。待って、ひたすら待った。


 ――知ってる? 

 ――聞いた話だけどさ、

 ――トンボって羽が一枚なくなっても飛べるんだって、

 ――でもいろんな生き物の標的になって、

 ――自然界で生きられなくなるんだよ。


 じっと彼を見つめ、影谷先生はその真意を探ろうとした。探りたかった。だから、彼の目が潤んでいくのも、見逃さなかった。


「俺にとっては、この秘密が、たった一枚の、羽なんだ」


 影谷先生は、彼を手放すまいとポケットから紅葉柄のハンカチを取り出して、彼に差し出して。

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