やる気と元気は桃の中。

 目の前で、残りの一つが失われる。そんな感覚は二度と味わいたくなかった。

 そんなことを考えながら、仕事に追われるようにして過ごす日々は、鬱陶しい。もう直ぐ夏休みにも入り、ようやくひと段落する頃だというのにこの忙殺ぐあいはいかがなものだろう。だが、もう少しで帰れそうだ。

 僕はふと、もうとうに定時を過ぎてしまった時計を見上げてため息をつく。

「ねえ、影谷先生」

 楽しそうな声で話しかけてきたのは、隣の席に座っている、職業に似合わない派手めな姿をした女性だ。名は九瀬という。彼女はこの学校の美術科の教員であり、現在僕が担任をしているクラスの副担任でもあった。

「今日はいつもにまして陰険さが漂ってますけど、どうしたんです」

「僕、そんなに悪そうですか」

「目つきがこう……こう! こんな感じなんです」

 彼女はキツく目を釣り上げて、狐のような顔になる。別にこれと言って何か不満があるわけでもないのだが、そう思われているのはどうにも心外というか、複雑というか、なんと表現したらいいのかわからない。

「そういうつもりはありませんでした。不快にさせてしまったのなら、申し訳ありません」

「別にそう言うつもりで言ったわけじゃないですよ? ただ、元気がなさそうな影谷先生にこんなものを見せようと思いまして」

 彼女は何かを企むような悪い笑みを浮かべそして一枚の新聞記事を取り出した。正しくは、新聞に掲載されている広告といったほうが正しいかもしれない。

 僕はそれをみた途端、口の中に苦い味が広がる感覚がした。そこに写っているのは、可愛らしいバスケットに入った一つの桃……に見えるが、正しくはただの桃ではない。

 頂上にある切り込みを手がかりにスプーンでその蓋を救ったとする。そうすると、中からは溢れんばかりのホイップクリームが見える。周りの桃を切り崩しながら、ホイップクリームと絡めてすくう。口の中に瞬く間に広がる甘さと、桃のフルーティーで爽やかな味わいがたまらない。だんだんと壁を切り崩していけば、濃厚なカスタードクリームが待っている。ホイップクリームとカスタードクリームが混ざり合い、そうして桃と優しく絡み合う。味のハーモニーなんて言葉がこれほどふさわしいものには出会ったことがない。

 しかし、僕は今年のこれを逃していた。


 だいぶ前、部活動が終わって直ぐに仕事を終え、それがあるケーキ屋【ジェミニ】に向かった。急いだ甲斐もあって、僕の目の前には三つ、それが残っていた。順当にいけば、僕だって買えると思っていた。しかし、たまたま前に並んだ女性がなんとそれを三つ、残りの三つ、その三つを全て買っていってしまったのだ。

 あまりにも悲しくなって、僕はその後に特に食べる予定でもなかったシュークリームを買って、虚しくもクーラーのとても効いた自家用車内で食べるはめになった。


 そんな出来事があって、その物の姿を見て、僕だって平常心ではいられない。

「……悪意としか思えません」

「結論を急がないで、影谷先生」

 彼女は、その広告を僕に見せびらかしながら、楽しそうに語り出す。

「もし、それがこの学校内にあるとしたら……そして、それを上げると言ったら、影谷先生はどうします?」

 時刻は午後六時、空腹を感じる胃がキュッと縮こまる。口内にじんわりと広がる唾液を、ごくりと飲み干し、彼女の方を見ることしかできなかった。

「ふふふ……乗り気ですね。それでは、一つ。私と知恵比べをしましょう。影谷先生が勝ったら、この"まるももちゃん"を差し上げます」

「なるほど。そうきましたか」

「タダっていうのもつまらないでしょ?」

 こほん、と咳払いをして九瀬さんはにっこりと微笑んだ。

「ルールは二つだけ。その場から動かないこと。私への質問は、はいかいいえで答えられる質問一回だけすること。答えがわかるまでは、その椅子から立ち上がってはいけません。答えが決まったらその時に立ち上がってください。チャンスは、一回きり、です」

「わかりました。答えが決まったらその時に立ち上がればいいというわけですね」

 こんな知恵比べごときで、あの未練が晴れるのであれば、乗るしかない。どうにでもなれ、と期待を込めて彼女からの問題を待つ。

「では、質問です」

「はい」

 とうとうこの時が来た。こうなれば、何がなんでも食べたい。彼女の勝負には正々堂々と挑もう。

「影谷先生の食べたい"まるももちゃん"は、いったいどこにあるでしょうか」

 なるほど、そういうことか。

 理解するまでに、そう時間はかからなかった。


   ***


 状況を整理しよう。

 僕が食べたい例のケーキはおそらく彼女がよほど性格が悪いということがない限り、この学校内にあることは間違いない。となればまず考えなければならないのは、ケーキの保管場所だ。思い浮かぶ候補は大きく分けて三つ。

 ①職員室内にある給湯室の冷蔵庫の中。

 ②家庭科室にある冷蔵庫の中。

 ③保健室にある冷蔵庫の中。

 一番あり得そうなのは職員室。家庭科室は、次の日に調理実習がない限りは、教頭が校内を見回りしている時に、物がないかを確認して電源を切ってしまう。残念ながら調理実習の予定は入っていないし、教頭は先に帰ってしまった。また、保健室は目的が生徒のためであるからして、救護用に必要な物品で埋まっていたはずだ。ケーキを入れる隙間はないし、入れたのなら少し彼女の倫理観を疑ってしまう。ならば、職員室の冷蔵庫だとと思えるけれど……。

 問題を出すと言った頃からなんとなく思っていたが、そう簡単な話ではないか。知恵比べをしようと言いながら簡単に思いつく場所に隠すような彼女ではない。となれば、少し頭を捻る必要がある。

 梅雨もあけて、もう七月も中旬。この気温で常温放置は怖い。当然だろう。ならば、何で冷やしているか。

 順当にいけばクーラーボックスが考えられる。それならば持っているのは、体育科の先生。外で活動する時の熱中症対策として飲み物や氷を保管するのに必要だからだ。しかし、この学校にいる二人の体育科の先生のうち、一人は今日一日健康診断で出勤していないし、もう一人はケーキをどうこうしようというタイプではない。甘いものが苦手だったはず。そんな状態で消費期限が今日であろうケーキを隠すということはないのでは。ましてや、今日いた方の教師と彼女は、昔に少しあった仲。決して貸し借りすることもないだろう。となれば別の選択肢を考えなければいけないか。

 そうなると考えられるのは、"ケーキが冷やす必要のない状態にあること"。つまりは、ケーキを買った時に保冷剤をつけてもらってそのまま持っている状態であることだ。しかし、それも考えにくい。

 【ジェミニ】は、ここから車で一時間はかかる位置にある。今日の暑さであれば到底保冷剤はもたないだろう。そもそも九瀬さんは、この時間まで美術室で片付けをすると言っていた。まさか勤務時間に嘘をついて外出して二時間かけてケーキを買ってきて……という真似をするとは考えにくい。

 さて、八方塞がり。どうしようか。


 前提を見直してみる?

 どうやって?


 彼女はこの学校内にある、と言ったが、それは本当なのか。正しくは「僕と彼女がくだらない知恵比べをしている間に学校内にやってくる」というべきなのではないか。

「では」

「はい」

「質問を一つ」

「なんでしょう?」

 彼女はわかるはずもあるまい、という余裕綽々な様子でいる。これはある意味賭けだが、核心でもあるかもしれない。この前提が正しければ、結果は職員室の冷蔵庫というふうに考えられるだろうし、間違っていれば……。

「本当にそのケーキは、今、現在、この学校にありますか?」

 彼女は驚いたように目を見開いて、そして泳がせた。

 ここまでわかりやすいのも、なんと言っていいのかわからなくなる。

「……い」

「い?」

 いい淀む九瀬さんに、僕は結局どうなんだと尋ねようとした。しかし、その声はかき消される。それは、職員室に入ってきた体育科の菅野先生によって、だった。

「よう。九瀬さんも、影谷くんも。今日も遅くまでお疲れ様。がんばるね」

「か、菅野先生ぇ……」

 僕は彼女にむけて、にこりと微笑んでみる。しかし、彼女は不満そうに顔の真ん中にパーツを集めている。サッと立ち上がって、僕は菅野さんに向かって言った。

「健康診断、お疲れ様でした。……ところで、菅野さん。どうして学校にいらっしゃったんです。今日は年次休暇、とられてましたよね?」

「ああ、それは。この前、影谷くんがこれ、食べ逃したって言ってたからさ」

 そう言って彼は右手に持っていた見覚えのあるケーキ箱を掲げる。

「九瀬さんに、まだ居るよって聞いてたし、差し入れにな?」

「はあ……! もう、いいですよぅ! 負けました!」

 悔しさと、不満をあらわにした彼女の声がもう人の少ない職員室内に響いて、菅野さんは目を丸くしていた。


   ***


 職員室の応接室に、ケーキを三つ広げて、淹れたばかりのコーヒーを各々のマグカップに注いだ。

「なるほど。俺が来る前に影谷くんが帰らないように、九瀬さんは影谷くんで少しの間遊んでたってわけね」

「はい。なのでずうーっと考えてさえくれれば、どのみち影谷先生は、"まるももちゃん"、食べられたんですけど」

 彼女はそうぼやきながら、桃のケーキにプラスチックのスプーンを突き刺す。鼻腔に広がるコーヒーの匂いを味わいながら僕は、その時を少し待った。

「影谷先生が、思いのほか気づくのが早くて、どうしようかなって焦ってたんです。菅野先生から連絡いただいてから、ここに来るまでの時間を考えて……それで引き止めなきゃ! って思っただけで」

「それはよかったな。道路が空いてたんだ。思いのほか早く来れたよ」

 僕は目の前に置かれた、まるごと桃の使われたケーキをじっと眺めてみる。この前は、目の前にいたのに食べられなかったから、嬉しくて心が躍り出しそうだった。

「正直に言ってくだされば、何時までだって待ってました」

「でも、それじゃあサプライズ感がありませんよ」

「そんなに食べたかったんなら、買ってきて正解だったな。……まあ、影谷くんの今週の落ち込みぐあいったら半端なかったから」

「僕、そんなにでしたか?」

 菅野さんは、がっはっはと効果音がつきそうなほど大きな声で笑ってそして歯を見せて笑う。

「あんたのクラスの生徒が、『だれが影谷先生をあんなふうにしたんですか!? これじゃあ、いつもの倍の影がかった先生になりますよ!』なんてことを言ってたぞ」

「それ、馬鹿にされてませんか……」

「そんくらい好かれてるってことだろ?」

 やっとの思いで、ケーキの蓋をすくい、口に入れる。これはじんわりと甘さがひろがって、でもすっきりとした味わい。桃の壁を切り崩して、中に詰まったホイップクリームと一緒に食べると、それだけでもう胸がいっぱいだ。

「僕、もう少し頑張れそうです」

「そりゃよかった。無理はすんなよ?」

「私もお手伝いしますよ!」

 ケーキの箱に、もう未練はない。

 夏休みは、もう目の前にある。

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