ジューン・ホワイトの雨の日は
夜明朝子
バースデイ・バーズデイ
学ランのフックを、首を絞めるかのように一番上まできっちりと止めて、姿見とまっすぐに向き直った。そして、まったくもって存在価値もなければ、むしろ行き過ぎた添加要素ともいえる伊達眼鏡を手に取り、つるをもって、それを掛けることにした。
これといって焦る用事もないが、家にいる用事もない。本棚より、適当に一冊文庫本を取り出し、通学かばんを手に取って玄関へと向かう。
「いってきます」
半ばひとりごとのように、いっぽう家にいる母にも伝わるような、そのくらいの声量で言い放ち、ドアノブをひねろうとする。すると、リビングの方から、「ちょっと、まって」と声をかけられる。
「どうかした? 母さん」
声の主である、母は、水仕事で濡れた手をいつもつけている前掛けで拭いながら、少し慌てた様子で見送りにやってきたかと思うと、僕の方を一度見て、傘立ての方を見、そしてまた僕を見た。
「大したことじゃないいんだけどね。今日は何時ごろ帰れそう?」
「特になければ、放課後すぐに帰宅するよ」
「わかった。そうそう、今日雨降るみたいだから、傘を持って行ってね」
いつもと様子がちがう、とそう思った。見送りはしたりしなかったりで、その日の朝の忙しさにもよる。しかし、母の挙動を見るに、明らかに今日が特別な日であるような感覚がしていた。
「……今日、なにかあるの」
このまま心の中で思案していたところで解決はしまいと感じ、素直にそう聞くと、母は、「心外だ」とでもいいたげに目を見開いた。
「なにかもなにも、今日はあなたの誕生日でしょう。今年になってから勉強で忙しそうだけれど、息抜きくらいしてもいいんじゃない?」
そう言って、母は微笑んだ。
僕は、この年になっても誕生日を祝ってもらう、というのに少し恥ずかしさも感じながら、素直に母の好意を受け取りたいとそう思い、了承の意を伝えた。
***
図書館に行くでもなく、何の本を読んでいるかといえば、最新の進路雑誌だった。めくってもめくっても思考が定まらない。どうにもこのことについては考えられない、というよりは考えたくない、といったような感覚がしているのだ。今日ここで隕石が落ちて死んだら全部無駄になる。なら、考えなくても変わらないのではないか。
しばらく呆然として黒板を眺めていると、突如として目の前で勢いよく手が振られ始めた。
「影谷? どうしたんだよ、夏バテか? まだ六月だけど、早くね?」
彼のことは、大変よく覚えている。同じクラスの北という男だ。明らかに染めていると思われるピンクブラウンの髪の毛は、特に目立っていて、不思議と目に入ってしまう。だが、見た目と才能というのは無関係なもので、彼はクラスで頭がいいとよく言われていた。進学校の学年十位ともなれば、頭がいいことに間違いはないだろう。いっそ彼に対しては、眩しさを感じるほどだ。
そんな人間がどうして僕に。
「べつに、なにもないです」
「なにもないって感じじゃなかったけどな。あ、あれかあ、先週も担任に呼び出されてたじゃん」
「あったとしても、北くんには関係ないかと」
「かもな。でも、おれ、暇なんだよ」
そう言って彼は右手前方にある小さな黒板を指差す。それは、様々な委員会が今日の昼休みに行われていることを示していた。彼らの普段の様子を見ていると適当にかわして遊んでいそうで、北くんの周りの友人たちは果たしてまじめに参加しているのだろうか、と疑問に思ってしまう。偏見は、よくない。
細められた彼の眼は、ゆかいなおもちゃを見つけたとでも言いたげだった。どうにも好かない。そもそも人と積極的に関わっていない自分の悪い癖なのかもしれない。それにしても、彼の態度はあまり好意的にはなれないでいた。
「おれさ、お前のこと嫌いなんだよね」
「そうですか」
「でも、嫌いになれないんだよね」
「そうですか」
「……なんでだか聞かないの?」
「別に好かれたいとも思ってませんし、嫌われていても特には」
「あ、そう」
さながら小学生の男子のように机を斜めに浮かせてロッキングチェアのようにゆらゆらと揺らし始めてた北くんは、口に含んでいた泡を吐き出すかのようにぽつり、とつぶやいた。
「おれさあ、鳥になりたかったんだよなあ」
言葉を返す価値もない、そう思ったがこのままでは彼の体裁も悪いだろう。いい歳して小学生じみた願望をぶつける彼をこのままにしておくのは僕としても居心地が悪い。
「鳥、ですか」
しぶしぶ僕はそう返した。すると、彼は作り物のようなハリボテの笑みを浮かべて楽しそうに話し始める。
「そうそう! だって人間より、はるかに広い世界で生きてんじゃん?」
「それが幸せとは限らないのでは。空に食料はありません」
「え……? そう来る……? たしかにそうだけどさあ……」
そういうと彼は、手元のルーズリーフの短辺を長辺に合わせ、三角形を作るように一回だけ折った。
正直いうと、彼とは決して無縁ではなく、高校に入学したばかりの一年生の頃には今日のようによく話しかけられ、その度に突拍子もない話題を振ってきては、冗談として帰着してしまうということが度々あった。学年が上がって二年になると、文理によって彼とは離れたのだが、例年のごとく理系選択者が少なかったために、混合クラスができ、三年ではその混合クラスにて再び同じくしたというわけだ。
実のところ、僕は「カゲヤ」で、彼は「キタ」であり、結局何がいいたいかというと出席番号が前後なのである。それはつまり、一年の時も、そして今年も、なんとも奇妙な縁で彼と繋がりを持ち続けているのである。
「お前の行きたい学部は?」
「それ、あなたに関係ありますか?」
「単なる興味だよ。別にいいだろ、聞いたって」
「…………数学ができればどこでも」
「へえ……」
それは、どこかでお前程度が? とでもいうような含みを感じる。鳥肌がたった。気味が悪い。いっぽうの彼は、こちらの方など全く見ていなかった。今度は、三角形を作って余った長方形部分を折り、しっかりと折り目をつけたかと思うと器用にもそれを切り離していた。
僕が感じ取った気味悪さとは裏腹に、彼は変わらず淡々と話しかけてくる。
「先生からも何か提案はされてんだろ?」
「どれも妥協している感じがして、いまいち目指したいと思えなかったんです」
残った三角形をもう一度折り、小さい三角形を作ったかと思うと今度は正方形型になるように、三角の袋に手を入れて開く。感情の起伏のない淡々とした声で、北くんは呟いた。
「妥協、ねえ」
「いけませんか」
「言ってねえよ。妥協は、しないほうがいい」
進路雑誌を閉じて、僕はまっすぐ彼を見続けた。光に当てられた髪の毛は、元の色以上に明るく太陽の光を通してなびいている。そんなことを気にも留めず、彼は折り目をつけ続けており、かと思えば今度は細長い菱形になるように正方形の袋を開いた。
「お前のことは嫌いだ。目を向けられるたびいつも品定めされてる感じがする。だから嫌いだ。だけどそうなったのは、お前のせいじゃない。そんな気がするんだ。だから嫌いになれない」
知ったような口ぶりで何を、と思ったが口には言わなかった。とても言える雰囲気ではなかったからだ。彼は器用にも二股となったその菱形の先がより尖るように、四ヶ所ほど折っている。
「なんでおれがこんなこと言うか気になるんだろ?」
「別に」
「そんな顔してねーよ。矛盾してるって思ってんだろ」
微塵も思ってませんが、と言いかけてやめた。彼の顔を見ると、彼は、眉を顰めて真っ直ぐにこちらを見ていた。何を言わんとするかは、わからなかったが、滲み出るその表情には、不快が全面的に現れている。口に入った害虫を、半ば自暴自棄になって噛み砕いているようであった。
「少なくともおれは、そうさせられた側なんだよ。お前は違うのか?」
「意味がわかりません」
僕は断言した。そして聞いた。
「何かを確かめたかったんですか?」
「あー、こんなこと話すつもりじゃなかったんだけどな。まあいいや」
彼は、激しく自身の頭をかき乱したかと思うと、改めて折りかけのそれに向き合って、テキパキと仕上げていく。呆然と見ているうちに、自分でも意図せず疑問に思ったことを口に出してしまう。
「今のあなたの姿は、そうさせられた結果、ということですか?」
「……お前がそう思うならそうなんじゃね?」
はぐらかしてみた結果、はぐらかし返された挙句、話を百八十度転換され、机に置いていたシャープペンシルは「使うわ」の一言と共にとられる。
奇妙な縁というのは、どこにでも存在するものだと改めて思った。偶然、なんかでは片付けられないような、複雑に絡み合った人間関係と、僕は一生向き合っていかなければならないのかもしれないと思うと、なんとなく気分が落ち込んでしまう。
それは北くんも感じていたのかもしれない。彼は、四月に僕と再びクラスを同じくしてから一回目の席替えをするまでのあの間、僕の背中を眺め続けて何を感じていたのだろうかと漠然と疑問を持つ。僕は彼が見えていなくて、彼は僕を見ていた。その答えが、今日なのだとしたら、この日は、来るべくしてきたのかもしれない。はた迷惑な話だ。
頭の中の歯車が歪な音を立てて僅かに動き出したような、そんな感覚がふと湧いてきて耳鳴りがした。
「ほらよ、お前にやる」
「……これは、鶴ですか」
「そ、ナガイキしますようにってな」
とても立派な贈り物とは言えない羽を広げる折り鶴が、どこか北くんの「鳥になりたい」という願望と重なって見えて、わかってほしいという欲望もまたヒシヒシと感じる。
さてと、と独り言を呟いて彼は立ち上がり、学ランの下に着ているパーカーの皺をのばす。見上げていると、少し呆れたようなそぶりも見られたが、その呆れが一体どこに向けられたのかは、すぐさまわかった。
「誕生日じゃなかったっけ。おめっとさん」
「あ……はい、ありがとうございます」
軽く下げた頭を上げると、そこにはもう彼の姿はない。ふと、教室の前方を見れば、委員会を終えた彼の友人数名が、戻っており、北くんはそれを迎えているようだった。彼はたった一つの安っぽいルーズリーフで作られた折り鶴を置いて行ってしまった。
羽をつまんで手に取り、眺めてみる。折り紙で作っているというわけではないのに、非常に綺麗な折り鶴だった。
外は、雲行きが怪しい。
母が言っていた通り、午後には雨が降りそうだ。
「え、何か書かれて……」
どうやら羽の裏にメモ書きのようなものが残っているらしい。それは、つばめもいいよな、という一言であった。それが彼の何を意図するところであるかは、わからない。
だが、その一言に漠然とした興味を持ったのは、彼に対して少なからず何かしらの情が湧いたからに他ならないと思う。
***
「ただいま」
「あら、おかえり。相当濡れたね、風が強かったの?」
ようやく帰ったのも束の間、雨に打たれた疲れが泡のように湧き上がり、このまま倒れてしまいたいほどであった。頭髪はかろうじて少し湿っている程度であるが、制服はすっかり水分を含んでしまっている。鞄の中身は学校を出る前にビニールで覆ったから大きな被害はないと思うが、鞄そのものはすっかり色を濃く変えてしまっている。
「たぶん、傘は壊れてないと思う」
「すぐにお風呂に入っておいで。体が冷えるよ」
「そうする」
その場で学ランの上だけを脱ぎ、受け取ったタオルで家を汚してしまわない程度に全身の水分を拭き取る。
ゆったりと、しかし最短の距離を進み脱衣所へ入ると、すぐに手に持っていたものを洗濯かごへと入れようとした。
「あ……」
その瞬間、ひどいことに、大量の水分を含み、羽はボロボロになってしまって首のちぎれかかっている折り鶴がポケットから落ちていく。すっかり力なく、とても生きているようには感じられないほどだ。かわいそう、とは思ったが、所詮はルーズリーフだ。残念、や申し訳ない、という感情は全くない。今日生まれて、今日死ぬ運命の鶴だったのだ。決して僕のせいではない。でも、自由になろうとしている彼も、ゴミとなったこの鶴も、今日というこの日だけは僕の頭の中に残り続けるんだろうか。そして明日には。
そんなことを考えながら、床からつまみ上げたそれを、静かにぐしゃりと握りつぶした。
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