九月心中

音無 響吾

九月心中

あれは、九月で一番の快晴の日だった。

無惨に焼けた東京は未だくっきりと焦げ臭く

駅の日陰に還らぬ親を待つ幼子たちが集まり涼んでいる。

バラックの周りはこれまで穴の中に隠れていた多くの人々で群がり、戦禍とはまた一変した生活がそこに生まれようとしていた。


戦争が終わって丁度、

ひと月ほどたったあの日だ。


墨田区 京島。

東部の下町のように焼夷弾の延焼を受けなかったこの地に彼の生家はある。


残暑厳しい中、私は砂埃の立つ白い道を辿り進んでいった。


「御免ください。」


空気を流す為、玄関の引き戸は全開にされている。外は晴れ晴れとした青空だというのに、眼前に続く廊下はひっそりとして暗い。


私は室内を覗き込むようにして、たたきの前まで進んだ。


「ご無沙汰しております。」

「アラ、まぁ」


初老の女性が、驚いたように口元に手を当てながら出迎えてくれた。

彼の母親である。


せっかく会いに来てくれたのにこんなざまで申し訳ない。そう言って、その人は私を案内した。


「いえ、わかっております。」


何も上がり込んで茶菓子を貰いに来た訳でも世間話をしにきた訳でもない。


彼の様子は相当悪いと聞いていた。

仲間内でも話題になっており、その姿はもはや病人ではなく傀儡にされた死人のようだと伝わっていたからだ。


実の息子がそんな姿になった母親に気を遣わせてはなるまいと考え、私からは敢えて、彼の容態を聞かなかった。


しかし、私の気遣いも虚しく、その母親は日々の介添の疲れからか愚痴のような、また諦めたような口調で、あれが夜になれば苦しそうな呻吟を漏らすことや、とても会話をできる状態ではない。それどころか、日々の食事や排泄といった細かなことまで家族に頼っていると。聞いてもいないがぺらぺらと話し始めた。


それは、同じく生き残った我々に対する悪態にも聞こえた。






長話が終わり、ようやく部屋の前まで導いてもらう。

その人が襖の引手に手を掛ける寸前、半ば強引に「重要な話があるので、二人きりにしてもらえないだろうか。」と尋ねた。


その人は「ええ。」と短くつまらなそうに返事をして席を外した。



私は、寂しい病人の身体と虚な瞳を頭の中で想像してからゆっくりと襖を開けた。


つん、と膿んだ香りが鼻腔に入り、眉をひそめた。整えられた布団からやけに細く白い左足が乱れ、はみ出ていたのもいかにも病人らしかった。


上半身が包帯に覆われた彼が重い火傷を負っていることも確認し、ここまではすべて想定通りだった。


やはりこの惨たらしい傷跡はあの戦争を思い出させる。


これだけの手負いになって、さぞかし彼もこの世界に絶望してくれただろう。


私は心の底でそんな確信を持っていた。


だが、彼の瞳は虚無では無かった。

顔を覗きこみ、包帯から覗く双眼に思わずギョッとする。


この瞳の正体を知っている。


生を求める者の目だ。




途端に彼を憐れに思った。


そして、可哀想な友の掌にそっと触れ、白い包帯で覆われた顔を長らく見つめていた。


ただ静かに。







どのくらい経ったのだろうか。

沈黙を破り、私は口を開いた。


「ここにいても仕方が無いと思わないか?」

「…」

彼は押し黙っていた。話す気力がないのか、喉まで火傷しているのかはわからなかったが黙っていた。


「知ってると思うが、俺もお前もあぶれ者だ。」

「……」


彼の横で私は正座をした。

何故か。その時の私は弱々しい彼の惨めな姿に憐憫の情を抱くとともに、また勝ち誇ったような、えもいわれぬ優越感を感じていた。


「特に、俺は国の為に死ぬ機会すら与えられなかった。お前と違って。」

「………」


彼の目には虚な目の男が写っている。


「お前もさぞ辛いことだろう。」

「………」


それは私だ。

生を諦めた者だ。


「…しかし、今からでも遅くはないと思っている。」


そう言葉にすると彼の瞳がカッと開き、抵抗するように呼吸が乱れた。


「……ふっ、ぅ…う…ぁ」

「何を言ってるかわからんよ。」

それが命乞いだという事は、わかっている。


「あ…ぁ…ぁ、が」

彼は放り出された白い左足をゆったりと上げて、自室の隅の文机を指した。

「なんだ」

机上には何もない。

「引き出しの中に何かあるのか。」

確かめるように呟き、その掴みをそっと握って引いた。



こちらに向かって微笑む、一枚の写真。

切長の瞳の美しい女学生だった。

常に携帯していたのだろう。写真のふちは白く日に焼け、破れた箇所は後ろから和紙で繋がれていた。


「は…」

声にならない、溜息が私から漏れた。



「………ぁ、いし、て…る、ひとまっ、でる」


「…想定外だな。」

てっきり君は色恋になんざに興味がないと思っていた。


ぐっと私の胸のなかで、焔が揺れた。


「…ぅ、あぁ…ぁ」


「だから死にたくないのか。…そうか。















そう。やはりそうなのか。」










身動きのできない相手を殺すのは簡単な事だ。



気がつくともう、陽が翳り始めていた。


私は台所で夕食の支度をする母親の背に向かい言い放つ。


「………彼は自害しました。戦争で死ねなかった己を責めたのでしょう。」


そう告げると振り返らず、その人は答えた。


「そうですか。………馬鹿な子です。」


身動きの取れない彼がどう自害したというのか。

それを一番身近に知るはずの人は なぜ と問い詰めなかった。

遅かれ早かれ、母親も私と同じことをしただろうから。


「最後に、これを託されました。」


せめてもの手向けにと、その美しい女学生の写真を渡した。

母親はどこか心当たりがあるようだった。


私はもう二度と訪れることのないであろう彼の生家を後にし、途方もなく歩き続けた。

見慣れた街並みが戻ってきた頃、私は主人の帰りを待つ犬のように立ち止まった。


そうして暗闇に飲まれていく東京の焼け跡を眺めながらずっと考えていた。




私から湧き上がったあの焔の正体は、

一体なんだったのだろうか、と。

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