にせもの
尾八原ジュージ
にせもの
今から十五年前、おれが小学五年生だったまだ空に明るさの残る夏の夜のことだった。おれが飯を食うのが遅すぎるといってキレたおふくろが振り回した重たい中華包丁、おそらく本当に当てようとは思っていなかったそいつの角がうまいことおれの後頭部に当たって、なんと頭蓋骨に穴が空いた。泡を食ったおふくろがその辺にあった漫画雑誌のページを一枚破って穴に詰めると、おれは何事もなかったかのように起き上がって、食った晩飯をその場に全部吐いたという。
漫画雑誌以降の件はまったく覚えていないし、与太っぽい話だと思ってはいるが、実際おれの後頭部を撫でると一部頭皮がぽっこりと膨らんでいるところがあり、そこを触っていると額を見えない指で押されているようなおかしな気分になる。その膨らんでいる部分が漫画の一ページかどうかはともかくとして、そのときからおれはおかしなものが見えるようになった。たぶん世間一般に「幽霊」と呼ばれるようなものを。
それから年月が経ち、当時おふくろとふたりで住んでいたぼろぼろの平屋に、今はおれひとりで住んでいる。子供の頃からぼろぼろだったから今更汚いも不便もない。ただ、殺風景な庭の隅に着物姿の知らない女が一人立っていて、陰気な顔でこちらを見ているのが瑕疵といえば瑕疵だった。あれも頭蓋骨に漫画を詰められたときから見えるようになったものだ。
「ここ、引っ越さねぇのか」
居間に出しっぱなしにしている炬燵の向こうで、洋平が言った。こいつはおれの幼馴染で、実家の土建屋を継いだ
「もしくはつぶして建て直すとかさ。いや、俺んちが土建屋だから営業かけてるわけじゃないけど、金はあるんだろ? 霊視一回でいくら取るんだっけ?」
そう言ってヒヒヒと笑った。いくら取るか、おれに聞かなくたって洋平はちゃんと知っている。なんだったらこいつんちはおれの上得意だ。洋平はこれでなかなか「かつぐ」のだ。曰く付きの土地や建物に関わるかどうか、その判断におれの「霊視」を採用していた。
大人になったおれは、ほかに取り柄もないので拝み屋をやっていた。金をとっておれに見えるものをしゃべるだけの簡単極まりないお仕事だが、これが意外と当たるとかでびっくりするほど金になる。
「そのうち金なんか入ってこなくなるよ。そのときのために貯めてんだ」
おれがそう言うと、洋平はチッと舌打ちをして頭をポリポリと掻いた。
「そのうちっていつだよ」
「みんながおれの霊視をうそだって言い始めたときだよ」
実際霊視なんてものは――少なくともおれのものはアテになるまいと思っている。確かにおかしなものは見える。今こうしている間にも、庭の隅には汚れた着物を着た女が立っていて、おれと洋平を睨みつけている。だがあれは幻覚だ。傷つき、おかしな詰め物をされて圧迫されたおれの脳が見せているものに過ぎないのだ。おれは別に嘘をついているつもりはないが、おそらく正しいことも言ってはいないだろう。
いつか誰もが、おれがまったくアテにならないインチキ霊能者だということに気づいて、罵るか見向きもしなくなるに違いない。来たるべき廃業に備えて、少しでも金を貯めておかねばならない。
「まぁそう言うなって。俺は本物だと思うよ? お前の霊感ってやつはさぁ……」
洋平は急に気味が悪いくらい優しい口調になって、なだめるように話し始めた。「あれは? 前にさ、行方不明になってた子供見つけたじゃねえの」
「あれなぁ」
あれもたまたまだろう。山狩りに連れ出され、山中でゆらゆら影が揺れているのを見たからそう言ってみた、そしたらそこに当の子供の遺体が埋められていたというだけの話だ。おれの幻覚がたまたま現実と合致しただけのことなのだ。庭の隅に立っている見たこともない女と同じく幻覚。おれは彼らのことを一度も怖いとか気の毒だとか思ったことがない。
洋平はかまわず、人が死んだアパートの部屋を当てたの、事故車を買わないように忠告してくれただのと寝ぼけたことを言っておれを褒めた。おれは少しも嬉しくなかった。
おれにとっては、頭に穴を空けられたのは悲しい
「だいたいお前、何の用があってそんなとこにいるんだよ」
おれは洋平に尋ねた。
「いやぁ、最近お前顔色悪いからよ」
まぁ元からよかねぇけどと付け加えて、洋平はまた頭をポリポリと掻いた。
「気遣いかよ。暇だなぁ」
「そうだよ。うちは今弟がやってっからなぁ。俺は暇だぁ。せめて役に立とうと、霊視の先生のご機嫌伺いにきてるんじゃねえか」
「洋平んとこはかつぐからなぁ」
「俺だけじゃねえ、俺が知ってる同業者はみんなかつぐよ。ちょっとした事故が命取りになるからな」
確かに建設現場ってのはそうだろう。そういう大変な仕事をしている洋平の家のひとたちを、おれは素直に偉いなと思っている。実際家を建てたり潰して更地にしたり、役に立つことをやってるんだから
「お前は自分の仕事がきらいなんだろうな」
洋平が言った。的のど真ん中だった。
「さすが幼馴染、よくわかってんじゃん」
おれは立ち上がった。台所に行くと、先の尖った包丁を一本取り出して洋平のところに戻った。おれが手にぶらさげているものを見て、洋平の顔色が変わった。
「おい、何でそんなもの」
「こいつでおれの頭のなかのものをほじくり出してくれないか」
おれは洋平の目の前に包丁を置いて頼んでみた。返事はわかっていた。
「よせよお前、そんなことできるわけねえんだから」
洋平はそう言ってまた頭を掻く。無駄だと知りつつ、おれは食い下がった。
「頼むよ」
「ばぁかお前、無理だよ。俺だって死んでんだから」
洋平のひしゃげた頭頂部から、豆腐みたいなものがこぼれだしてきた。無人になった神社で祠を撤去しているとき、突然動き出したユンボにぶん殴られたらしい。
「あんときお前の言うこと聞いてりゃなぁ。下見んとき、怖ぇ顔したじじいがこっち見てるって言ってただろ。断りにくい仕事だったけど、腹くくって断っときゃよかったぜ」
頭の中身を拾いながら洋平はまたヒヒヒと笑った。
「そろそろ消えてくんないかな」おれは幼馴染の幻に話しかけた。「これ以上幻覚としゃべりたくないんだ。いよいよ頭がおかしくなりそうだから」
「幻覚じゃねえんだよなぁ」
そう言いながら洋平は立ち上がり、ぎくしゃくと廊下の方へ歩いていった。念のために部屋の外を覗くと、もう洋平の姿は消えていた。やっぱり幻覚だったのだ。おれは深く溜息をついた。
ひとりぼっちになって庭をぼんやり眺めていると、隅っこに立っている女と目があった。やっぱりどう見ても知らない女だった。なんの心当たりもない。
女は唇の端が腫れ上がり、片方の目は白く濁り、元は白系統だっただろう着物は変色した血で茶色く染まっている。仮にこいつが本物の幽霊だとしたら、その立ってるところに死体のひとつでも埋まっていなくてはおかしい。幽霊ってのはそういうものだろう。自分にゆかりのある場所に出てくるもんじゃないのか? だが残念、そこに何もないことをおれは知っている。一度暇に任せてほじくり返したことがあるのだ。古い櫛が出てきたきりで、ほかには何も出てこなかった。櫛は汚いので元通りに埋めた。
もしも本当に幽霊が出るなら庭の真ん中だ。おれが殺したおふくろがそこに埋まっているのだが、ついぞおふくろの幽霊なんてものは見たことがない。おれと濃い血縁関係があって、おれが殺した相手で、実際そこに死体が埋まっている。なのにそいつの幽霊が見えないってことは、おれの霊視はやっぱりうそっぱちで、あっちの女は幻に違いない。
もし仮におふくろが幽霊にならず、おれになんの未練も残さずに成仏しちゃったんだとしたら、そっちの方がおれには死にたくなるほど悲しい。だから、そういうことにしておかなければ困る。おれの霊感なんぞにせものだ。そうでなければ困るのだ。
にせもの 尾八原ジュージ @zi-yon
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