3 覚えているだけの記念日

 私と彼はカプセルを飲み込んで、記念日と同じ店で食事をし、彼のプロポーズを思い出し、同じホテルの最上階のやたら沈み込むベッドで抱き合った。

 なにもかもあの日と同じようにした。毎年変えていたアクセサリーや髪型や香水を無意味な抵抗だと諦めて、あの日とまったく同じ髪型にセットし直し、下着まで同じに揃えた。彼が気付いたことはない。多分上と下の色が違っていても気付かないだろう。どうせすぐに脱がしてしまうからだ。

 彼はあの日と同じように、私とは違った熱量を流用して愛情の温度を昂らせていた。思い出のなかの私はそんなことにもまったく気付かず、素直に私のおっぱいや表情や感じている声が彼を興奮させているのだと勘違いしていた。すれ違った愛で、のぼせ上がっていた。

 私は覚えている。寸分たがわぬ気持ちで八年前の私に同期できる。きちんと濡れるし、ちゃんと私たちの愛に酔うこともできる。でも、今の私がどう思うかはまた違った話だ。

 私は映画館でみるような気持ちで――安っぽいラブホテルに張り付けられた鏡から俯瞰してみている遠さで――思い出と同期した記念日の私たちを眺めていた。歳をとってしまったら素面では見ることの難しい、激しいばかりのアトラクションみたいな記念日。白けたラブロマンスを映画館で一人座って観ているみたいだ。これはいつ終わるのだろうか。私はそればかりを気にかけていた。

「どうだった?」

 私は行為が終わったあとで、眠りそうな彼に聞いた。

「ぼくはしっかり君を愛していたよ。きちんと覚えているしね。いい記念日だった、相変わらずね。八年目もちっとも変わらず、あのときの愛を確かめた。君もそうだろう?」

 私はホテルのアメニティで自分の股を拭きながら曖昧に頷いた。よく見ればホテルのロゴが変っていた。某国外資系の傘下の会社に乗り替わられていた。外側はいっしょだったけれど、いつのまにか入れ替わっていたのだ。気付かないうちに、スリみたいな狡猾さで取り替わられていた。何もかも同じものなんて、ひとつもないことの証明のように。

 私はすっかり気落ちして彼に尋ねた。

「ねぇ、私を愛してる?」

「もちろんさ。あの頃と少しも変わらずね」

 もう何年も前から分かっていたことだ。今さら確認しても仕方がないのに。

 彼が愛しているのは八年前の私だ。盛り上がって、いろんなことを忘れて熱中していた頃の私たちの記憶だ。八年目の私の乳房を撫でながら、一年目の私の乳房に溺れている。鮮明に思い出した記念日だけは、私との熱を取り戻すだろう。変わらない記憶に惑わされて、不変であることを信じ切って。

 きっと彼は気付かない。一年目と八年目の私の違いに。八年経って変ってしまった私たちの愛と関係に。そうして私から別れを切り出してはじめて、こんなはずじゃなかった、何かの間違いだったとわめき散らすのだろう。ぼくは覚えているのに、あんなに愛し合っているのに、と。八年も前の記憶を現在形で語るのだろう。一年目から八年目までの間の記憶をすっかりなかったことにして。

 寝息を立て始めた彼を、私は冷めた目で見下ろす。

 きっと彼は気付かないだろう。

 ホテルの運営会社が変ったことに。政治家の論旨がすり替えられていることに。私の気持ちが遠ざかっていることにも。

 彼はなぞっているだけなのだ。記念日を忠実に守って、私の愛や戦争の悲惨さを思い出して。今に目を向けず、今までがどう変わってきたかにも目を向けず。ただ口にするのだ、ぼくは覚えているんだ、と。

 まるで機械みたいに。決められたことを、一度覚えたものを、繰り返し繰り返し、疑うこともなく。

 一体なんのための平和なの?

 一体だれのための愛情なの?

 きっと彼には答えられないだろう。

 私はそっと指輪を外して、ベッドボードに置いた。取り返しがつかなくなってからわめけばいい。それぐらいの自由はまだ残っているはずだから。

 それともなにも感じないかしら。私との愛も思い出さないかしら。

 別にそれでもいい。

 きっと私も思い出すことはないだろう。

 覚えているだけの空虚な記念日のことなんて。


<了>

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忘れない記憶の記念日 志村麦穂 @baku-shimura

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