【三】


 放課後、彼は部活動へ向かい、私は帰路につく。彼は軽音学部に所属し、ベースを弾いているらしかった。一度楽器に触らせてもらった事があるが、私はあの楽器の良さがあまり分からない。腹の底に響き渡るような重低音の調べ。どうせなら爽やかな、エレキ・ギターの方が彼のイメージには合っているだろうと、楽器を背負っている彼を見るたびに心の中でエゴの暴走が起こる。そんな「おしゃべり」なもう一人の私をなだめながら、今日も家に着くなりシャワーを浴びた。やかましかった雨音や、彼は傘を持っているだろうかなんていうお節介な気分も、そうすればほんの少しだけ、気にならなくなる。彼は練習中も、どうやらスマホを触らないらしい。そしておそらく、下校の時も。そうすると、否が応でも机に向かわざるを得なくなる。それが功を奏してか、私はどの教科も、いわゆる上級の評価をされている。しかし、「戦い」を楽しむ戦闘狂たる私が、上級!異常性が増大するほど、教師達からはより一層の期待と評価を得ることに繋がるというのは、あるいはこれ以上の皮肉が他にあるだろうか。否、あったとしても、私は自分の置かれた状況に悲観することはしない。それは自分が強いからとか、弱いからとか、そんな低俗な価値観によるものではない。楽しければ、それでいいのである。そんなことを考えながら机に向かい、おおよそ一時間半が経過した頃、階下から母親の声がした。夕飯である。それは私の異常性の増大を、もっとも直接的な形で体感させられる時間である。


「あんた、最近食べる量減ってない?」


 母の指摘が、刺さる。味覚の異常はなく、至って健康。いやむしろ、肉体についてはこれ以上健康になることは出来ないくらい、上級である。問題はそこではなく、「興味」である。以前の私は、その日の夕食が何かで一喜一憂する純粋さを、間違いなく持ち合わせていた。毎日それを元に、楽しそうに食事をする様子を見られていれば、私の食事に対する固定観念が形成されるのは致し方ないことで、母はそれとの相対的な変化から、微細な異常を感じ取ったのだろう。私自身も、以前と違う自分が現れ始めていることには当然勘づいている。しかし私は、この場を切り抜ける手段さえ持っていた。


「夏バテ、かな。」


 誰一人として侵すことの出来ない、聖域が展開される。個人の価値観の究極系。それが夏バテなのでないかと私は最近感じるのである。いくら腹を痛めて産んだ我が子に対してだろうと、さすがに母のセンサーは働かない。「あら、そうなの」とか「食べられる時に云々」だとか、最低限の社交辞令的な反応をせざるを得ない。この異常性の発現が初夏に入ってからでよかったと、心から思うのである。そうして、興味の湧かない円卓から解放されると、私は一目散に自室へと向かう。それはもはや、毎日のルーティンと言って差し支えないほどになっていた。


 部屋に入ると同時に、不意にあの音が鳴る。鼓動の加速。唐突に開始されたギャンブル。表か裏か。彼か、それとも「それ以外」か。もっとも、「それ以外」も決して悪いものではない。ただひたすらに、彼が最上級なだけなのである。今日の賭けも……当然、彼にベット。オッズなんて関係ない。リターンなんて、無くたっていい。今日の勝者は……。


 画面を見ながら、私は呟く。モノクロームの世界に色をつける以上の奇跡。水彩画に虹が架かるが如き奇跡。今以上のそれを希求する、健気な乙女の呟きである。


「戦闘、開始。」

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思春記 @Hika-Pika

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