早い朝食

@humitamiko

プロローグ

 おんなのひとの怒鳴り声で目が覚めた。遠くから聞こえるそれに耳を傾けてみると、どうやらおんなのひとは僕の父さんと電話でもめているようだった。しばらくして寝室に入ってきたおんなのひとは、僕に気が付くと、優しい声で「起こしちゃってごめんね。まだ夜だから寝てていいよ」と僕の頬を撫でた。僕はうん、と返してゆっくり意識を沈ませた。だれかが布団の中で身じろぐ音が、隣室から聞こえた。


 ふと目が覚めた。カーテンの隙間から覗く太陽が眩しい。朝は嫌いだ。隣で寝ているおんなのひとを起こさないように、極力音を立てないようにしてベッドを抜け出した。

 黄身を潰した目玉焼きを焼いていない食パンに乗せる。それを咀嚼して、時々砂糖を混ぜた牛乳で熱い口内を冷やす。いつもの朝。一人で過ごすこの時間が、唯一心休まる時だ。お皿を片付けて、通学鞄を背負った。


 今日も眠い。


「りく! 今日も早いなあ」

「なおと、おはよ。お前も大して変わんないだろ」

 なおとはニッと笑って、俺は朝練あるからさ! とユニフォーム片手に教室を飛び出していった。最初から内容なんて頭に入っていなかった小説を閉じて、机にうつぶせる。 暖かい日差しに照らされて、眠気がどんどん増してくる。僕はそれに身を任せた。


「おい、おいって。起きろよ」

「んん……?」

 ずいぶん長い時間眠ってしまったらしい。目を擦る僕を見てなおとは呆れたような表情をし、扉のほうを指さした。

「なんか女の先輩がおまえのこと探してたよ。誰? あれ」

「女の先輩? ああ、姉さんだ」

 おまえ姉ちゃんいたのかよ、というなおとの声を背に扉のほうへ向かう。あくびをしながら何の用? と聞くと姉は、また授業中寝たんじゃないでしょうね、と顔をしかめた。

「今何時間目? 朝からずっと寝てたけど」

「うそでしょ? 今五時間目だよ。ご飯も食べずに寝てたわけ? 今日こそ病院行くからね。逃げないでよ」

 はいはい、お弁当は放課後に食べるから、と適当に流して扉を無理やり閉める。あいつは不満を隠しきれない顔のまま、しぶしぶといった様子で自分の教室に戻っていった。

「おまえさあ、病院怖いの? いくら嫌でも逃げたらだめだろ」

「うるさいな。また放課後起こして」

 なおとが怒ろうとしているのを感じて、少し顔を上げた。なおとは僕と目が合うと諦めたように首を振った。遠くからクラスメイトがなおとを呼んでいるのが聞こえて、なおとが自分で起きろよ、と言い残して、その後の記憶はほとんど無い。

 放課後、僕を起こしたのは担任の先生だった。とうとう愛想をつかされたのかと思ったが、どうやら違うようで。なおとは部活で早く行かなきゃいけなかったから、先生に僕を起こすよう頼んだらしい。夜はちゃんと眠れてるのかと聞かれ、曖昧にうなずいた。

「いくらゲームが楽しくても日付が変わる前には寝ろよ。お前は成長期なんだから」

「…………はあい」

「他に眠れない理由でもあるのか? 怖い夢を見るとか?」

「別にそんなんじゃないです」

 うっとうしいな。ゲームなんかしてないのに。教師という立場に酔うのもいい加減にしてほしい。

「……あ、そういえば」

「お、どうした?」

「お昼、いま食べていいですか」

 先生は苦笑していた。



 重い足取りで家に帰ると、姉が僕の診察券を眺めていた。

「なに勝手に見てんの」

「おかえり。ただいまくらい言ったらどうなの」

 あんたこそこっち見ろよ、という言葉を水に溶かして飲み込む。コップを置いて自室に逃げた。扉の向こうからあいつの声がする。是が非でも僕を病院へ連れていくつもりらしい。正直うっとうしくて仕方なかった。思春期特有の理由なき苛立ちではない。だって、しつこいじゃないか。


 血の繋がった家族でもないくせに。


 僕に母はいなかった。いつから、ということは覚えていない。気付いた時には僕の家族は父だけだった。友達に母親がいない理由を聞かれて困ったこともあるし、同じ質問をして父を困らせたこともある。それでも母がいなくて困ったことは無いし、父の帰りが遅いことで寂しい思いをしたことも無かった。身の回りのことを助けてくれる人がいないことは僕を成長させたし、一人でいる時間は気楽だったからだ。

 なのにある時、世界が悪い方向に変わった。僕が十二歳になって間もない頃だ。父から、結婚を考えている人がいると打ち明けられた。その時はあまり実感が湧かなかったけど、しばらくして母と姉が増えたこの家は狭くなった。そして、僕がそれに慣れる前に、とうさんはでていった。ぼくをのこして、でていった。たった半年の間の出来事だった。

「これが漫画だったら新人賞にも通らないよ」と自嘲した覚えがある。「展開が早すぎて面白くないからね」

 姉は、僕の目を見なかった。父が出て行ったその日以来、一度も僕の目をまともに見ていない。うっかり目が合えば、すぐ逸らす。別につらくなかった。だって、家族だと思っていなかったから。姉だって僕のことを弟だと思っていないに違いない。病院に連れて行こうとするのも、あのひとから言われてるからってだけ。

 ある時、あのひとが、母が言った。

「私達はもう親子なんだから、あの子とりくもきょうだいでしょ?」

 僕にはよく分からなかった。僕を生んだわけでもないのに母で、血も繋がっていないのに姉だなんて。だから、あの時と同じように、聞いた。その時と違ったのは受話器越しの会話だったということだけ。

「父さん、どうして僕には母さんがいないの?」

 父は言った。

「あのふたりはもう家族だろ。あのひとはおまえのお母さんで、あのこはおまえのお姉ちゃんなんだよ」

 僕は電話を切って、トイレに駆け込んだ。盛大に吐いた。胃の中がからっぽになって、胃液が喉を焼き尽くすまで吐き続けた。あまりにも気持ちが悪かった。


 その日以来、僕は家で眠れない。

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