最終話

一七一六年 四月。


俺は弓を引いていた。

周囲の気配から気を削がれ、引き絞った弓を緩める。

親藩紀州藩の上屋敷とは言え、射る弓矢の音しかしない弓場においては、否が応でも耳に入る。


尋常ではない様子。騒がしいのは表御門の方だ。

紀州からの急使であれば表御門を使う事はない。表御門は身分の高い者しか使用しない。


つまり俺か、俺より上位者か。

それの意味するところ、千代田の城より急使が駆け込んできたようだ。ブハブハと苦しそうな馬の嘶きと押し掛けた方も迎えた方もバタバタとした喧騒が聞こえてくる。


ほどなく江戸家老が駆け込んできた。急ぎ御使者の間へお越しいただきたいと。

間違いない。紀州藩より上位の者は上様のみ。


着替える時間はなかろうと判断し、汗を拭って肩を仕舞い御使者の間へと向かう。

上座に座る使者殿の懐には、目に付くように書状が差し込まれている。

俺が入ってきたというのに、その使者殿は畳に視線を落としたまま、目を見開いて身動きしない。尋常でない様子。その切迫した表情で何が起きたか理解した。


「御使者様。徳川吉宗、只今参りましてございまする」


使者殿は、ビクっと驚いた様子でこちらを見る。その顔は安堵したように見えた。


「上意である」

「はっ」


「徳川権中納言吉宗に命ずる。今まさに幕府存亡の折、急ぎ登城せよ」

「はっ。謹んでお受けいたします」


「私は先に城へと戻ります。お急ぎくだされ」

「かしこまりました」


使者殿は大役を果たし気が抜けてしまったようだ。日ごろの言葉遣いに戻り、気忙し気に御使者の間から出ていく。

平伏しながら、その動きを待ち、足音が聞こえなくなると俺も動き出す。


御使者の間を出るか出ないかというところで、大声で命を下す。

あやつなら側にいてくれるだろう。


「政信! 行くぞ。装束を整えて城へ登る」

「すでにご用意させております。こちらへ」


さすがだ。抜かりない。お前と出会えて良かったよ。


城へと登ると、大広間に通される。その間の主である家継様はいない。使者殿の話から状況は予測できていた。


大広間には、老中首座の土屋 政直殿を筆頭に老中、若年寄、勘定奉行、寺社奉行、町奉行など三奉行、側用人など幕府の中枢を占める者たちが不安そうに座していた。


「おお、参られましたか。こちらにおかけくだされ。時期に尾張殿も水戸殿もいらっしゃるでしょう」

と、土屋殿に声を掛けられる。

その言葉を聞いたかのように、水戸藩主 徳川 綱條つなえだ殿が、やや遅れて尾張藩主 徳川 継友が大広間へと入ってきた。


これで皆が出そろったようだ。


「お揃いのようです。この度皆様をお呼びしたのは他でもありません。家継様の御容態についてです」

この場の最高権力者、老中首座の土屋殿が話を切り出す。


「今年に入り、体調がすぐれぬ日が続いておりましたが、先月ついにご危篤となり意識が戻っておりません。上様は、ご兄弟もおらず、跡取りもおりません。このような次第となったからには御三家のどなたかに後を継いでもらわねばなりません。それは誰かというのが問題です」


喉に詰まった物を吐き出すように、話し始めた土屋殿の言葉は止まる事はなかった。


「どなた様かご存念はおありでしょうか?」


土屋殿の最後の言葉。大広間には沈黙が訪れる。


「無いようでしたら、我らが老中の総意をお話申し上げる。我らは紀州藩主 徳川 吉宗様にこそ継いで頂きたいと考えております」


グッと声にならない声がする。その声の主は誰だろうか。今の俺はそれどころではない。


皆の視線が背中に突き刺さるようだ。どういう反応をするのか見定められている気がする。


「皆様方のご期待はありがたく思いますが、家格からすれば尾張殿の方が適しておられましょう」

「いや。家格のお話であるならばさようでしょう。しかし吉宗様は神君家康公の曽孫、継友様は玄孫。ひとつ家康様に近こうございます。宗家の直系が途絶えたのであれば、一番血の濃いお方が継ぐべきでしょう」


「それであれば、松平清武様がいらっしゃるではありませんか」

「かのお方は、既に齢五十を超えられておる上に、他家の家督を継いでおられた方です。適しているとは言えません」


「しかし……」


と、問答をしていると廊下より別の侍が入ってきた。

その侍は、老中首座の土屋殿に耳打ちする。少し驚いた様子を見せる土屋殿だが、流石に長年、権力の中枢に居ただけはある。すぐに表情を戻し、重々しく告げる。


「天英院様よりお言葉です。吉宗、その方が家継様の養子となり、将軍を継ぐよう。後見の役目を負うべし」


この言葉には、さすがの老中方以下、全ての者からどよめきが起きる。


それはそうだろう。女が政治に口出すことはあり得ない。

政治や儀礼の場である表の政務は表で、将軍の私事の場である大奥の事は大奥で。幕府が成立して百年以上、お互い口を出させず、干渉しない事で存続してきた。


それを崩してまで口を挟む。それはつまり大奥が表からの干渉を受ける事を意味する。そのような不利益を被ってまで、将軍の後継者選定に口を出すとは。


それがどよめきの正体だ。

俺はある程度、そのどよめきが落ち着くのを待って、こう告げた。


「お受けいたします」



※※※



「「おめでとうございます!」」


紀州藩邸に戻ると評定の間に詰める家臣より、将軍就任の祝言を受ける。

すでに情報は伝わっていたようだ。

多くの者が嬉しそうな表情を隠そうともしていない。


俺は皆の挨拶に礼を言うと、考えていた構想を話す。


「俺は慣例通りに紀州藩は潰さぬつもりだ。従兄弟の宗直を藩主に迎える事にする。

よって、紀州藩は無くならぬ。仕事も残る。和歌山城には国元を離れたくない者や離れられぬ者もおろう。そういう者は、名乗り出るよう申し伝えよ」


驚きとともにわずかながら安堵の雰囲気が漂う。

その雰囲気に俺の考えが間違っていなかった事を察して、自分自身も安堵する。


「細かな調整は山波 政信に相談せよ」



その日の夜。私室を抜け出て縁側で月を眺める。


「政信か」

「はい。……ついに将軍になられましたな。きっと天下の万民は吉宗様のお蔭で幸せに暮らせましょう」


「俺はなりたかったわけではないのだがな。継友とどちらかと言われてしまえば、あやつを将軍にするわけにはいかなかっただけだ」

「そうですね」


「皆に背を押され、時代にも背を押されたのかな。振り返ってみれば偶然が重なりすぎているように思えるよ」

「悲しい事も多かったですね」


「そうだな。今でも思うよ。加納源六として気ままに暮らしていれば、もっと幸せだったのではないかとな」

「…………」


「しかし将軍となった以上、己の幸せより、万民の幸せを優先せねばなるまい。それが幕府の頂点に立つ者の責務だ。改めるべきを改め、始めるべきを始める。江戸城の者達には苦労を掛けるだろうな」


「きっと老中様方も殿の突飛な発想に振り回されるのでしょうね。紀州に地にいても目に浮かぶようです」


「政信……お前は共に進んでは……くれないのか?」


「私は色々ありましたから。都会は充分です。私は屋敷の離れに引きこもっているのが性に合っていますから。それに、紀州の地を離れぬ理由もありますし」


「……さくらの事か?誠にすまなかった。……いや、何も言うまい。紀州藩の事は頼んでよいか」


「はい。お任せください」



 さくらよ。あの時の決意が実ったよ。

 俺が将軍になってしまった。いや、自分でなろうとしたのだがら、なれたというべきなんだろうが。やはり、なってしまったという感覚が近い気がするよ。


 あの日、橋で見かけた君は美しかった。

 

 未だに縷々と考えるとは女々しいな。

 無理を押して連れてくるべきだったか。いや、それは二人にとって良くないと結論を出したはずだ。


 相変わらず弱いな、俺は。

 そうだ、江戸の街に沢山の桜を植えよう。

 それくらいは許してくれるだろうか。



◇◇◇山波 政信


「色々というのは、さくらの事ではないのですがね。本当の理由は殿の懐刀として裏から支えてきた己の所業のせい。そのような後ろ暗い男は、これから天下を明るく照らす吉宗様には不要でしょう」


 終わってしまった会話を惜しむように、遠く離れていく吉宗の背に話しかけてしまう。

 もう止めねばと思うのに、言葉が止められなかった。


「まあ、これは私が墓場まで持っていけばいいのでしょうね」



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吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~ 裏耕記 @rikouki

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