第13話 後日談 下
初夏を迎えようとしていた。
職場復帰を目指して、会社までの歩行訓練を始めた。
朝食にハムエッグにトースト。珈琲の香りに包まれたキッチンは日常の歯車に戻りつつあった。
私は姿見の前でネクタイを結んでいた。以前と比較して右手の自由が利かずに、それだけで遅刻の原因になりかねない。背後から声を掛けられて、振り返った。そこには妻が和服を前に垂らして、自慢気に笑っていた。
「諫早の叔母さまから届いたのよ。今度のお茶会に着ていこうと思って。どうかしら、昔、お母さまのために縫った手縫いだって。あなたが七五三を迎える時の、お祝いに着て欲しかったんだって」
青魚の鱗のように光る色無地。
蒸気機関車の往路に乗り合わせていた老婆の着ていたものだ。
脳裏でぱちんと焚き火で薪が爆ぜたような音がした。
全てが繋がった。
畳まれていた記憶がほどけて、あの車内での会話が展開していく。
「それは親孝行だねえ」と老婆は袂から紙小箱を取り出して、私にその中身を揺すって勧めた。それは酢昆布の入った小箱だった。
「で、長崎に行きなさるの」
「はい、そこに母がおりまして。長崎も久しぶりですので」
「ご住所はお分かりで?」と尋ねられたが黙って被りを振った。
「ああ。必ずお逢いになれますよ。それはもうよく私は覚えております」
母の手紙にこうあった。
母は、私が火傷を負ったことで、世間にも祖母にも責められた。子供の火傷は親の責という風潮のあった時代だ。それで滝の観音で水ごり行をしたらしい。そのために心臓麻痺を誘発して倒れた。
母はあの駅舎に行き、周遊券の説明を詳しく聞いた。白眉の駅員よりも、もっと丁寧な担当者だったらしい。「お子様の快癒の身代わりですか。菩薩のような方ですね」と。
説明を聞き母は、時間旅行よりも現時間に留まることを選んだ。そして滞在時間の許す限り言付けでも我が子に贈り物を続けることを選択した。
ポイントを旅で浪費しなければ、残り時間は年単位で持つはずらしい。
しかも母の寿命ポイントを考慮すれば、私の五歳の節句を期待出来たという。だが同時に不安もつき纏う。いつの日かは、不意に自分が我が子の目前で霧散してしまう。哀しみを子に抱かせたまま、去ることを畏れた。
父には事情を話してある。父は悲嘆に暮れたが限りある生活に波風は立てたくはない。祖母や妹にはとても言えなかった。
それでも幸せの糧は日々にあった。時折は父が、私の手を引いて長崎の家にも訪れたらしい。
最後にあの老婆は、山間の駅で降りた。近隣には滝の観音がある駅だった。
妻の名を呼んで、私は立ち上がる。何かに狼狽した妻の目が丸くなるが、その声も届かない。
光の渦が明滅し、世界が光に包まれていく。身体から重さというものが光の束に返還されていくのを感じている。
娘の名を叫んだが、音にはならなかった。叶わないものだ。ついさっき学校へゆく後ろ姿を見送ったばかりだ。
鼻梁をするりと抜けて、支点を失った眼鏡がテーブルの上に転がる。
蜘蛛が這うように、メタルフレームがきらりと輝きながら跳ねている。
それが最後に見・・・・・
その列車は夢の狭間に 百舌 @mozu75ts
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