終章~エンドロールの後の~

お帰りの際は足元にお気を付けください。

 四月最初の空は、暖かな日差しに満ちた晴れ模様だった。公園に植えられている桜は、つぼみが膨らみ始めて開花まではもう目前だ。

 僕はいつもの公園のベンチに藤乃さんと座って、そんな桜の木を見上げていた。桜の枝を揺らす風は穏やかで、暖かな春の香りを孕んでいる。

 今日の藤乃さんは、黒色のシンプルなスーツを着ていた。初めて見るスーツ姿は、いつもよりも大人っぽかった。


「このあとはバイト?」


 藤乃さんが訊いた。 


「はい。今日を最後に、しばらくお休みです」

「そっか、もうすぐ大学始まるもんね」

「もちろん、働く時間がないことはないと思うんですけど、しばらくは様子も分からないですから。それに、大学は最初が肝心だって先輩から脅されてるので」

「そっか。鳴瀬くんなら、きっと大丈夫」


 似たような言葉を、一岡さんから言われたことを思い出す。あの時は自信がなくて素直に受け取れなかったけど、今ならその言葉を信じられた。

 僕が藤乃さんと会うのは、葵と一緒に三人で映画を観たあの日以来だった。

 エンドロールが終わって、シアター内に薄明かりが戻った時、すでに葵の姿はそこになくなっていた。それを予感していた僕たちは、そのことには触れずに、そのまま劇場をあとにしていたのだった。

 消えてしまった葵について、僕たちはまだなにも話をしていない。だけどそれは、その話題を避けているわけじゃなくて、今はまだ昔を懐かしんでいる時じゃないから。


「今日は、なにか報告があるんですよね?」

「うん、そうだった」


 藤乃さんがそれを話そうとした時、公園の広場の方から騒がしい声が聞こえてきた。男の子たちの叫び声だ。

 小学校高学年ほどの男の子たちが数人、ボールで遊んでいたらしい。その途中でなにかトラブルがあったのか、一人の男の子が「下手くそ」「ふざけんなよ」と周りの男の子から責め立てられている。

 なんだか、前にも見た光景だった。


「またケンカ」

「……はい。男の子だと、口調が荒っぽいことも多いですから。本人たちはすぐ忘れちゃうんでしょうけど、やっぱり気になりますね」


 責められている男の子のことを思うと、胸が締め付けられるのは相変わらずだ。それでも、前よりは少し冷静でいられていると思う。

 藤乃さんは、じっと男の子たちの方を見つめている。


「私も、今は少しだけ分かるような気がする」


 男の子たちは、すぐにボール遊びを再開し始める。

 どうやら、サッカーボールをワンバウンドさせてパス回しをする遊びみたいだ。僕はひそかに、責められていた男の子のことを応援する。失敗してしまったら、ますますひどい怒声を浴びせられてしまうかもしれない。

 そんな男の子たちを見つめたまま、藤乃さんはとつとつと語り始める。


「私ね、お父さんとお母さんと、いろいろ話をしたの。葵のこととか、会社でのこととか、これからのこと……。自分の話なんて、ほとんどしたことなかったから、全然上手く伝えられなかったけど。それでも少しだけ、前より分かり合えた気がしたんだ」


 僕はじっと耳を傾ける。

 藤乃さんが話してくれる、ただそのことが嬉しかった。


「それでね、最後にちゃんと言えたんだ。これからは、思ってることをなるべく言葉にして伝えるからって。そうしたら二人とも、初めて見せるような安心した顔をしてくれて……。無理はしないで私のペースでいいからって」

「……はい」

「自分がなにを感じてるのか、それに気づくのは難しいし、口にするのはもっと難しいけど、やってみたら意外に気持ちいいんだね」


 僕の頭には、あの日のマンションのエントランスでの一幕が思い出される。


『分からないの、ちゃんと言ってくれないと。あなたがなにを考えているのか』


 たとえ実の親子だって、無条件で理解し合えるなんてありえないんだ。それでも相手のことを理解したいから、僕たちは言葉を交わすんだと思う。

 そのことに気づけたのなら、きっと二人の間に、あの時のようなすれ違いはもう起こらない。

 それを確信できるくらい、藤乃さんの言葉は力強かった。


「これからは、もっとたくさん伝えられますよ」

「……うん、そうだといいな」


 藤乃さんのその声は、「やった、新記録!」という子供たちの歓声でかき消された。ワンバウンドのパス回しが上手くいったみたいで、みんな一緒になって喜んでいる。そこには、ミスを責められていた男の子も一緒だ。

 それだけのことで、僕は嬉しくなれる。


「それとね」と、藤乃さんは言いながら、身に着けているスーツを示して見せた。「この前から、仕事も探し始めたの」

「お互い、忙しくなりますね」

「……うん。今日もこれから説明会に行ってみるつもり」


 自分のことで忙しくなった藤乃さんは、きっともう前のように映画館に来てくれることはないだろう。そもそも映画館を訪れていたのは葵がいたからで、その葵がいなくなってしまえば、わざわざ足を運ぶ理由もない。

 僕の方も大学が始まれば、この先どうなるか分からない。確実に分かることは、バイトに費やす時間は今までより圧倒的に減るだろうこと。授業は忙しいだろうし、サークルにだって入りたい。


 僕たちは、僕たちの道を進んでいく。

 僕たちをつないでくれた葵がいなくなったのだから、それは当たり前のことだ。

 それでも、思わず訊かずにはいられなかった。


「また、きっと会えますよね」


 藤乃さんは小さく笑った。


「うん。必ず」


 二人一緒に公園を出て、僕は左手側へ、藤乃さんは右手側へと歩き出す。僕はそのまま映画館へ、藤乃さんは説明会の会場へと向かって歩いていく。

 僕たちの道が再び交わる時はくるのか、今は藤乃さんの言葉を信じようと思った。



 春休みの終わりを目前にして、「Cinema Bell」はいつもの落ち着きを取り戻しつつあった。

 お客さんで賑わって忙しくなるのも困るけど、閑散としたロビーを見るのは、少し物悲しい気持ちになる。

 だけど、お客さんが少ないからといって手を抜いてもいられない。僕は気合を入れなおしてから、いつものように仕事にとりかかる。


 今日の担当もフロアのセクションで、上映が終わったシアターに一人で入っていく。すれ違うお客さんへ、しっかりと笑顔のあいさつも忘れない。

 スクリーンの前に立って、お客さんが全員出て行くのを見送ってから、緩やかな階段を上って列の上段へと向かう。上の方は相変わらずのうす暗さで、背筋がうすら寒くなるのは止めれれない。むしろ、実際に怪しげな存在がたくさん住み着いているのだと知ってしまって、この特有の不気味さも、気のせいでは済ませられないのが困ったところだ。

 だけど、住み着いているモノの実態が分かった今、不思議と嫌な感じはしなかった。


 一番上段の列までたどり着くと、一つ一つ折り畳みの椅子を確認しながら、落ちているゴミを拾っていく。この作業にも、もう慣れたものだ。はじめの頃、何度もひじ掛けに足をぶつけて悶えていたことを思い出して、不意に懐かしい気持ちになった。

 腰をかがませているのが辛くなって、背筋を思い切り伸ばしてみる。誰もいないことをいいことに「んー」と声を上げた時だった。


 ふと、温かな風がふわりと身体をなでた気がした。

 僕は思わず、辺りをきょろきょろと見回してみる。今はもう、特に暖房も入れていなかったはずだけど。


 もしかしたら、今もまだ見守ってくれているのかな。


 そんなことを考えて、僕はまた気合を入れ直す。早くしないと、次の上映が始まる時間になってしまう。

 温かな風の感触を思い出しながら、僕は椅子を確認する作業を繰り返していく。

 ぱたぱた、ぱたぱた、と、静寂のシアターにはそんな音だけが規則正しく響いた。

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幽霊劇場の七不思議 天野琴羽 @pinntaronn

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