1秒の遅刻

初戸間 遊沙

1秒の遅刻

 午前8時32分。

 本日7月3日は雲一つない晴天で、空高くの太陽は燦々と輝き、火照った私の肌を焼いている。大きく息を吸い込んでいるが、排気ガスと汗の匂いを感じるだけで、酸素が体を巡る気配はない。


 視界の端では、今にも消えそうな公園もどきのブランコで、スーツを着たサラリーマンがぶつぶつと何か呟きながら笑っていた。


 スーツなんて見てるこっちが暑くなる。半袖のアロハシャツを着て欲しい。


 ちらりと腕時計を一瞥しながら、もう何回目になるか分からないため息をつく。


「あーもう限界、酸欠で死ぬー。なんで今日に限って遅刻するのよ」


 この世界に私が産まれ落ちて15年。最大の危機が訪れていた。


「あと十分でテストが始まっちゃう。もし間に合わなかったら...」


 走る足がさらに加速する。焦りと走りすぎで心臓がブチュってなりそう。


 もし仮にテストが受けれないなんて事になったら母が怒り狂うだろう。一度だけブチギレた母を見たことがある。その時は、父の眼鏡と家の窓ガラス3枚で済んだけど、今回のは格が違う。


 家の柱一本と私の命一個くらいは覚悟しておく必要がある。


 悲鳴をあげる足に反して走るスピードが上がっていく。悲鳴を上げたいのは私の方だっての。遅刻すれば死、というか肉親に家ごと破壊されてしまう。まさしく背水の陣というわけだ。


 私の足が止まる。赤信号と言う名の壁が立ち塞がった。


 「あーもう今日は、ほんとついてない。ここの信号、待ち時間が長いので有名なのよね。」


 少しだけ残念そうな声を出しながら、走り疲れた足を休める。休んでもしょうがない。だって赤信号だし。いっそのこと遅刻した理由を全部信号のせいにしてしまおうか。それになんだか寒くなってきた。


 「本当に疲れたわ。それにしても今日は寒い...さむい?」

 

 自分の言葉に驚いていると、足元に冷気が流れ込んできた。冷気の流れてくる方を見ると、いつの間にか黒い男が立っていた。

 

 黒いというのは、肌が黒いというわけではない。黒いのは男の服装の方だ。黒い帽子に黒い手袋、真夏だというのに、漆黒のベンチコートを着込んでいる。傍らには黒い男の背丈もある大きな黒い鞄。


 ただ男の顔だけは不自然なほどに白く、額には汗ひとつ浮んでいない。


 思わず一歩後ろに下がる。この男、何処かおかしい。男の服装も十分異彩を放っているんだけどおかしいのはそこじゃない。


 男の周りだけ静かで冷たい。


 騒がしい街の喧騒が、男の周囲では静寂に書き換えられる。あれだけ暑苦しいと感じていた空気が、汗で濡れた制服から体温を奪っていく。


 全部、私の気のせいかもしれない。それでも冷え切った体やあたりの静寂は確かに存在していて、はっきりと現実を体感させられる。


 黒い男が白い聖書のような本をポケットからとりだして読み始めた。聖書のような本には、謎の文字列と数字がびっしりと書き記されている。


 私はなるべく自然な動作で前に向き直した。何も見なかったことにしよう。幸い、見て見ぬ振りは自信がある。触らぬ仏になんとやらって言うし。いや神だっけ?似たようなものだしどっちでもいいか。


 信号機の色が変わる。私の道を阻む壁がなくなった。


 私は力強く走り出す。通っている高校はここから走って三分ほどの距離にある。全力で走って残り二分で教室に向かえばギリギリ間に合う。というか間に合ってくれなきゃ困る。


 半分ほど渡ったところでふと、強い視線を感じた。具体的に言うと背中に。私は何も考えずに首を後ろに向けた。


 あまりに

 迂闊だった。

 愚かだった。

 油断していた。

 いつも気おつけていたのに。15年間上手くやってきたのに。


 黒い男と目があう。黒い男の死人のように白い顔が驚愕に染まっていく。私の顔からは血の気が引いていく。私が黒い男を見たことが黒い男に認知された。


 思わず足が止まる。恐怖で体がすくんで動かせない。そんな私を正気に戻したのは誰かの怒声だった。


「そこの高校生、危ない!!今すぐ逃げろ!!」

 

 その声も大きなエンジン音で全てかき消される。そして聞こえてくる誰かの悲鳴。音のする方見ると、すぐそばにトラックが見えた。たしかに赤信号のはずなのにこのトラックは私に近づいてくる。気づくと私の体は無意識に走り出していた。髪を振り乱し、必死に足を動かす。しかし、無情にもエンジン音はどんどん近づいてくる。トラックは止まらない。


 鈍い音が私の肩から鳴る。それと同時に強い衝撃が全身走り、吹っ飛んだ。


「誰か早く救急車を呼んでくれ!!笹原高校の生徒がトラックに轢かれたんだ」


 頭から血が抜けていく。息を吸うたびに肺が軋む。動こうとするたびに激痛が全身に広がる。


「よかった。意識が戻ったんだね。今救急車を呼んでいるんだ。自分に何があったのか分かるかい?」


 目を開くと見えたのは、真夏の雲ひとつない晴天だった。あと黒い男の顔。


「トラックに轢かれたんだ。意識が戻ってよかったよ。どこが痛いとか話せる?」


 私に優しく微笑みかけてくれる隣の青年の反応で胸の内の燻りが確信に変わってゆく。ああ、やっぱり見えてないんだ。青年には見えていない。黒い男は私にしか見えていない。


 幼い時から見えていた、誰にも見えない存在。それは何かの残滓だったり幽霊だったり異形の化け物だったりで、私は見えないふりをした。生まれてから15年間ずっと。見えるはずないものなんて見えない方が幸せに決まっているから。


 でも、見つかってしまった。それも最悪な奴に。黒い男の傍に置かれた大きな黒い鎌を見つめながら言う。


 「これまでにいろんな化物を見てきたけれど、死神は初めて視えたわ」


 言葉は伝わるみたいで、黒い男の顔が苦虫を噛み潰したかのように歪んだ。青年の笑顔は...なんというか困った笑顔になっていた。事故にあった女子高生がこんなこと言い始めたら軽くホラーだもの。ホラーなんて苦手だからやめてほしい。


 全身の痛みがひどくなってきた。血が抜けて頭がクラクラする。少しずつ体が死に向かっていくのを感じる。遺言くらいは言っておくべきなのかな。


「今から私はトラックに轢かれて死ぬ」


「馬鹿なことを言うんじゃない!大丈夫だ君は死なない。だからそんなこと言わないでくれ!!」


 青年の叫び声が聞こえる。ごめんなさい。どんなにあなたが願ってもきっと私は死ぬ。だって隣に死神がいるんだもの。だからさっさと私なんて忘れて欲しい。私なんて見捨ててどこか遠くに行って欲しい。


 名前も知らないあなたからそんなに悲しい顔されたら死ににくいじゃないか。


 黒い男が鎌を持ち上げるのが見える。もう時間が来たらしい。私はゆっくりと瞳を閉じて、鎌が振り下ろされるのを待つ。


 交差点に大きなため息が響いた。青年のため息じゃない。じゃあ誰の...。私が目を開けると鎌を担いだままの黒い男が見えた。そして、面倒臭そうな雰囲気を隠そうともせずに口を開く。


 「何やら覚悟を決めているようだが、言っておく。お前は死なん」


 大きく見開かれた私の眼と、苛立ちに染まった真っ黒な眼が交差する。


「なぜ我が見えるのかは知らんが、お前が我を見て立ち止まったことで、お前の本来の死期から1秒だこ遅れた。大人しく轢かれて死んでいればいいものを」


 黒い男の低く響く声がきこえた。死なない。死なない。何度も言葉が頭で反芻はんすうして胸の内に溶け込んでいく。


 私は死なない。死神が見えてしまって、自分の死期から遅れたから。黒い男...これじゃ命の恩人に失礼よね。よし、これからは感謝の気持ちを込めて死神さんと呼ぼう。


 死神さんに命を救われた。ほんの偶然で何らかの手違いなのかも知れないけど、そういうことだ。私はこうして生きている。それはきっと見えないものが見えないことよりも素晴らしい。


 「結局、私は遅刻してしまったのね。でもおかげで助ったわ。ありがとう死神さん」


 そう言って笑ってみせる。死神さんは不愉快さ全開の顔で睨んでくる。命の恩人とは思えない顔だ。青年の顔は...おかしいな、視界が暗くなってよく見えない。意識がおぼろげになってきた。


 「次期にまた会う。いいか、我が見えても絶対に無視しろ。次の死期でしっかりと死ね」


 青年と死神さんの声が遠くから聞こえる。私は大きな黒い鎌を担いで離れて行く死神さんを見つめながら今度こそゆっくりと瞳を閉じた。

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