部署の女の子がひとり、今日付で退社した。

深海くじら

見送る側はいつだって切ないもの。

 部署の女の子がひとり、今日付で退社した。得意分野の違う子だったので、とくに教えてあげられたことは無かったけれど、僕なりに可愛がってはいた。


 「女の子」なんて云うとフェミ界隈から総攻撃を受けそうだが、息子と同世代の女子を他にどう呼べばいいのかわからない。別にオトナと認めてないわけじゃない。都内に部屋を借りて独りで暮らし、やりたい仕事を出来るひとになるために手間や時間の掛かる周辺業務もしっかりこなそうと努力する。その姿は十分に尊敬に値する。昔ならいざ知らず、今の窓際の自分などとは比べものにならないくらい立派な社会人だ。

 その上で、やっぱり彼女は、僕にとっては「女の子」だった。小柄だけど歩くのは意外に早く、くるくるとよく動く大きな瞳を輝かせていろんなものに興味を示す。一見するとおとなしそうに見える外見は、しかし好奇心の塊で、(僕を含む)周りの年上たちが投げ交わすさまざまな話題にもついてこようとするし、ツボに嵌れば主導権イニシアティブすら取ってくる。そんなときに一瞬見せる誇らしげな貌が、堪らなく微笑ましい。

 話しかけてくる地声が小さくて、聞き返してもよくわからないことが何度もあった。もう一度尋ねるのと、わからないまま前後の文脈から類推して話を合わせるののどちらが失礼に当たるか、なんてことを密かに悩みながらする雑談も楽しかった。


 異動して間もなかったころの彼女とコンビを組んでコンペ案件を手掛けたことがあった。そう言えば、はっきり一緒にやったと云える仕事は、あれひとつだけだったかもしれない。

 事前調査のロケハンとして、とある競馬場で半日をともに過ごした。

 暑過ぎも寒過ぎもしない春のパドックで、周回する駿馬を観ながら名物のコロッケを二人で齧る。ポケットに忍ばせてきた二本の赤ペンの片方を彼女に渡し、これもロケハンのひとつと言いながら出走表に赤丸を付けて投票券を買った。スタンド、ゴール前、内馬場、指定席など、施設のあちこちを隈なく散策し、数か所ある飲食エリアを巡る。お互いの読みを批評しあい、大型ビジョンに映る結果に一喜一憂しながら、僕らは笑い合った。

 施設から駅までの導線を確かめながら散歩もした。そこに遊びにくる人たちの視線を試考し、彼らの高揚感を想像し、お互いの見解を話し合って。


 それから数日間は、二人で建てた骨子を基に他のスタッフを混じえ、毎日遅くまでああでもないこうでもないと肉付けする作業。タレントを選ぶ段では、若い彼女の見識と審美眼が大いに力を発揮した。そうやってようやく出来上がった企画書を施設に収めにいくのも、二人で行った。

 真っ直ぐの国道を、ペーパードライバーを自称する彼女にハンドル握らせ、助手席の僕はポイントで車線変更のアドヴァイスするだけ。緊張したけど楽しかったと話す彼女とは、現地の直前で運転を代わった。駐車場に停めるのは僕の役目。

 無事提出すれば、その日の仕事はもう終わり。ハードだった日々の慰労代わりとして、その近辺では名物のラーメンを食べに行く。日暮れ前のひととき、ファミレスのようなボックス席に向かい合って、僕らは歓談した。残念ながらそのとき何を話したのかはもはや憶えていない。だが、仕事のつかえが取れた楽しい時間だったはずだ。

 会社に車を戻す仕事は僕が請け負い、沿線の駅前に彼女を送り届けた。僕らが一番近くにいた一日。


 残念ながらその仕事を受注することはなく、彼女が推し、僕らが選んだタレントは、別の会社と組んでその仕事を得ていた。

 巷の話題は感染症で埋め尽くされ、カラオケが得意だった彼女の歌声を聴く機会も無くなった。



 世の中の雰囲気が外向きになってきた今年五月のある日。以前僕が教え、前日に彼女が見つけられなかったとこぼしていたラーメン屋でのランチを誘ってみた。タイミングが良かったのだろう。フライング気味にオフィスを出た僕らは、ゆっくりした足取りで目的の店に向かう。彼女は自分がどこで迷ったのかを熱心に説明し、僕は道すがらの以前の風景を昔語る。そうして着いたラーメン屋のカウンターで、彼女は退職することを教えてくれた。


 彼女が力をつけてきていたのは知っていた。若い彼女は、そう遠くないうちに新しいステージを求めて巣立っていくだろうと思ってもいた。だから退職すること自体には驚きはなかった。ただ、逢えなくなるのが残念だった。

 別になにをどうしようというわけではない。彼女と僕の個人的生活が被ることを求めたり想像したりするような邪な考えなどではないのだ。ただ、向かいの座席から、同じオフィスから、彼女の痕跡が完全に喪われてしまうことが寂しかった。

 この一年は互いに在宅勤務が長く、直接仕事で絡むことのない僕らはとくに顔を合わしたりメールをやり取りすることもなかった。もともとそういう関係ではない。過不足の無い、ただの同僚。それでも、同じ会社に、同じ部署に所属しているという絶対的安心感は、少なくとも僕にはあった、と思う。そのリレーションは、ひと月後には無くなるという宣告だった。


 むろん、僕は受け入れる。ことも無さげに。むしろ、祝福をもって。


 美味しかった、と言う彼女の満足顔を見ることができて、僕は嬉しかった。もう機会はないだろうから、ささやかではあったが、そのランチは奢らせてもらった。あのときのコロッケに続く二度目にして、おそらくは最後のご馳走。



 有休消化も済ませ、今朝、久しぶりに彼女は出社してきた。当たり前だが、元気そうだった。

 取り立てて伝えることもない。ただ自然に、今日が最後などと意識せず淡々と接する。僕がわざわざそんなことを示すのは、大きなお世話だ。最後の一日であることは、彼女自身が全身で理解している。僕なんかよりもっと影響を受け、共に時間を過ごした多くの同僚への追慕を噛みしめているのだ。モブである僕がしゃしゃり出る場面ではない。


 向かいの席で、何人かの同僚と連絡先の交換をしている。僕は黙って自分の仕事をする。父親のような歳のおっさんが出る幕じゃない。彼女はひと月前、ちゃんと僕とのステージを用意してくれていたのだから。


 定時になり、部署のメンバーが集められた。照れくさそうではあるが、いつもよりも大きくはっきりとした声で、彼女は挨拶を始めた。自己評価を低めに設定している彼女だが、それでもこの三年での成長の跡ははっきりと見て取れる。だからこそ、希望する転職も叶ったのだ。僕らは拍手して見送る。




「……さん」


 帰り支度をしていたはずの彼女が僕に声を掛けてきた。僕は顔を上げる。


「連絡先の交換、してませんよね」


「そんなの、おっさんが言い出せるものじゃないしね」


 僕の返事に笑った彼女は、自分のスマートフォンを開いてきた。僕もあわてて自分のスマートフォンのアプリを開く。彼女の手元の画面に映し出された二次元バーコードを僕の手の内のカメラが読み取ると、すぐに彼女のアカウント画面が開く。


「何かスタンプを送ってください」


 スタンプ?!

 これは、試されてるのか? 僕のセンスを!?


 しかし、逡巡する暇などない。常人の三倍くらいの時間をかけて、僕はスタンプを送る。僕の名字の名札が付いたジャージを着たアニメ調美少女のサムアップ画像。間髪置かず返された動画スタンプのコアラが、ヘルメットを脱いでこちらに挨拶してきた。なにとぞ……。



 部署全員に見送られてエレベーターに乗った彼女は、とても照れ臭そうだった。

 大丈夫。新しいオフィスでも、きっと可愛がられることだろう。そしてその中で、スキルを磨き、経験を積んで、そう遠くない未来に、彼女にしかできない仕事をモノにすることだろう。


 僕は遠いところで応援する。

 そして、いつかどこかで彼女の仕事を見かけたとき、そのことをこの連絡先に伝えるのだ。自分のセンスを総動員させて選んだスタンプで。


(了)

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部署の女の子がひとり、今日付で退社した。 深海くじら @bathyscaphe

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