第3話 お先にどうぞ
いやだな、もう。
毎晩、帰宅時間はそれとなくずらしているつもりなのだが、なぜかカブってしまう。
オートロックとは名ばかりのショボいエントランス。たてつけの悪い自動ドアの開閉は遅く、出入りする住人の背後にぴったりとついて行けば、部外者でも不審者でも不法侵入し放題だ。管理人室の灯りは煌々と点いているが、そこに人影があった試しがない。もう六年もこのマンションに住んでいるのに、私はここの管理人を一度も見たことがない。
管理人室の前を通り過ぎた、少し奥まった所にエレベーターホールがある。蛍光灯がチキチキと虫の鳴き声のような音をたてながら点滅している。そこで私は今夜も、彼とエレベーターが来るのを待っている。
彼は知らない人だ。人となりどころか名前さえ知らない、顔見知りと呼ぶのもどうかと思うくらい縁のない、赤の他人。仕立てのいいスーツをパリッと着こなした背中。私なんかと違って、どこか良い所にお勤めなのだろう。部署は営業とかかな。
だが、そんなエリートっぽい人がこんなうらぶれたマンションに住んでいるのは怪しい。だから……、
ホールにこもった振動音が響く。やがてエレベーターの扉がのろのろと開くだろう。そうしたら、
「お先にどうぞ」
私はいつものように、彼にエレベーターをゆずるのだ。出来る限り自然な動作で卒なく。ホテルのベルアテンダントのようなイメージで。隙なんか与えてやらない。だが彼はいつものように、今夜も「解せない」と言いたげな表情で、眉間に軽くシワを寄せてこっちを一瞥してからエレベーターに乗り込んでいくだろう。ドアが閉まり、再びモーターが低くうなりを上げ、彼を運んで行くだろう。
けっこう、イケメンなんだよなぁ。ため息が出てしまう。これが縁で恋が始まるなんて期待はしていない。ただ、あんな涼しげな目元をしたいかにも高潔そうな人が変質者だったとしたら、もう人を信じられなくなるよなって思う。いや、私は端から男なんか信じていない。ああいう顔は犯罪に利用したら無敵。地味でおばさんになりかかりの私に、勝ち目なんかない。
毎晩、最寄りの駅で遭遇し、背後を無言で着いて来る男がまともな訳がない。
私はホールでしばらく待って、降りてきたエレベーターが、無人であることを確認してから乗り込むだろう。黄色い光に満たされた室内は、二人、三人でも息が詰まってしまいそうなほど狭い。自分の住むフロアよりも数階上のボタンを押す。そこに着いたら今度は非常階段で適当な階まで行って、またエレベーターを使い、非常階段をまた降りて、と複雑な道程を辿って自分の部屋に帰る。念には念を。私みたいな喪女がストーカーに狙われているだなんて、誰も信じないんだから。
「あの、」
「え? あ、はい!」
エレベーターを降りたあとに通るルートを思い描いていたところ、唐突に彼の方から声をかけて来たので、私は飛び上がるほど驚いてしまった。
「よかったらお先にどうぞ。いつも先に行かせてもらってるから……」
え、意外に良い人だったりする? それとも何か魂胆があるのだろうか。でも……。
初めて真正面から見た、彼の顔。ためらいがちにこちらを見下ろしている。何となくだが、悪気も邪気も無いように見える、ような。
「どうぞ、よかったら」
もう一度促されて、私はつい深々と頭を下げて礼を言い、エレベーターに乗ってしまった。彼は乗っては来なかった。こちらの方にくるりと背を向けてエントランスの方を見、まるで人待ちでもしているかのような風情で立っている。その後ろ姿を、私はドアが閉まるまで凝視してしまった。
普通に良い人なのかもしれない。だったとしたら、今まで悪いことしちゃったかも……なんて呆けていたら、階数ボタンを間違えて押してしまったらしい。エレベーターは私の部屋のある階を過ぎて、上へ上へと昇っていった。
***
じっとりとした恨めしげな視線が下から
黒いモヤモヤ……何かの気配は、駅の改札をくぐったあたりからいつの間にか俺を着けて来る。マンションまでの道程のはじめの三分の一くらいまでは、それは俺の目の前をふわふわ漂っているのだが、公園の横に差し掛かる所できまって背後に回り込んで来て、あとはずっと後ろをひたひたと着いてくる。今日は電車に乗る前にコンビニに寄り道をして、ATMで不動産屋に金を振り込んで来たのだが、それでもいつものようにそいつとエンカウントしてしまった。
霊とかはあまり気にしない方だし、もともと視える体質でもないのだが、よほど怨念が強いのか、それとも変に気に入られてしまったのか……。
その霊は俺の部屋のすぐ上の階の空き部屋に棲み着いている。夜毎、天井から人の足音の様な家鳴りがギシギシと聴こえて来る。なんなら部屋が地震かと思うくらいにガタガタ揺れる。怖いというほどではないが迷惑過ぎた。五月蝿くてよく眠れない。越してから三ヶ月、ずっと。そのせいで最近、仕事で普段の俺なら絶対やらかさないようなミスをした。心が折れた。
異様に安い家賃は築年数ン十年のためだろうと思ったら違った。某物件公示サイトでこのマンションを検索してみたら、やっぱり俺の部屋の真上が事故物件だった。それはいいとして……いや、よくはないが……なんでその霊は、毎晩俺のことを家まで付け回すんだろう? 家まで、というより、エレベーターまで。俺は何もした覚えはないぞ。
あ、そうか。エレベーター。毎回必ず、なぜか霊はエレベーターで俺に先を譲ってくる。いや、もしかすると俺が勝手になんか譲られたと思っただけで、別に霊としては譲ってやるつもりは無かったのかもしれない。
ひょっとして、霊はそのことを根に持っているのか? 何だそれ。俺、悪くないだろ。だって、霊はただエレベーターの扉のサイドにスススと移動してただじっとしているだけなんだから。そしてじっとりとした視線をこっちに送って来るだけなんだから。譲ってくれてんのかと思うじゃん、普通。
「よかったらお先にどうぞ。いつも先に行かせてもらってるから……」
そう言ってみたとき、何か深い考えがあったわけじゃない。連日の寝不足でパーになった頭でふとひらめいただけの一言を言ってみたというか、口をついて出たと言ったところだ。
すると、
『どうもすみません』
と言われたような気がしたが、幻聴だったのかもしれない。
ああ、どうしよう。と俺は部屋に入るなりベッドに倒れ込んで思った。さっき幽霊はエレベーターに先に乗って行ったけれど。明日はひょっとしたら図々しくなって、一緒に乗って来たり、部屋まで着いて来たりするかもしれないじゃないか。流石にそれは気持ちが悪いぞ。でも無駄な仏心を発揮した俺が悪い……気がする。
三ヶ月ぶりに熟睡した。この晩は一度も上の階からの足音や家鳴りに起こされ無かった。次の晩も、その次の晩も、そのまた次の晩も、幽霊は出なかった。ひょっとして成仏したのか?
だが素直に喜べない。だって、新居の敷金と礼金と二ヶ月分の家賃、もう、振り込んじゃったし……。
(おわり)
エレベーターの扉が開いた 増田ふすま @fusumasuda
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