人違い
あれから藤崎さんとは連絡を取っていない。あんなことがあっておきながらも何食わぬ顔で会えるほど、俺は肝が据わっていなかった。
しかし夏休みに入ってからは毎日のように飲んでいたので、逆にこうして会わずにおいている方が形的には違和感があった。当然、近いうちに彼らとは顔を合わせることになる。
三日後、渡来さんと大学で会うことになった。渡来さんはいつも通り奇抜なファッションで校内を渡り歩いていた。
「コンビニのインスタント飯ばっか食ってると、やっぱりここの学食が恋しくなるよな」
カレーライスを持って空いている席に座る。自分も同じメニューを頼んで、彼の前に座った。
とはいえ、食堂は夏休みということもあってかあまり賑わってはいなかった。ちらほらとだが生徒らしき男女が伺える。
「もうすぐ」すると、渡来さんがカレーを口にしながら言った。「多摩川の方で花火大会があるんだよ」
「そうなんですか」
「お前、知らないのかよ」
口に入れていたスプーンを、さも当たり前かのように渡来さんは顔の横で振った。
「毎年開催される花火大会なんだけどよ。それ、三船ちゃんたちと一緒に行かないかって話」
「また、四人でですか」と俺は訊いた。
「四人。まあ、そうだな。四人なんだけど」
しかし、渡来さんはどこか歯切れが悪い。その答えにははっきりとした原因があった。
「さきちゃんは、もう、来ないと思う」
「え」今、彼は何と言ったのだろうか。嫌な予感がして言葉に詰まる。「どういう、ことですか」
「別れたんだよ」
呼吸が止まる。
「おれもよくわかんねーんだけど、突然、
あっけらかんな顔で彼はそう言う。
つらつらと彼が言葉を並び立てる中で、自分のせいだと、そのとき俺は思った。
渡来さんが花火大会に誘ってきたとき、ちょっとは期待した。もしかしたらあの夜のことは本当に夢で——夢でなくてもあるいはそういうことにして——やり過ごせるのではないのかと。しかしそれは間違いで。藤崎さんが渡来さんに別れを切り出したのは、確実に俺が彼女に手を出したからだった。
「心配すんなよ」と渡来さんは言った。「花火大会の日、予定が空いてる女の子が、二人くらいいたから」
そういう問題ではない、と俺は思った。どうしてそんなにも平然とした顔でいられるのだろう。
彼はそれでいいのだろうか。何も言えないまま悩み続けていると、ふいに渡来さんが手を掲げた。
「お、三船ちゃんじゃん」
トレイにラーメンを載せている三船先輩が、少し離れた場所で見えた。彼女は俺たちの存在に気がつくと、嬉しそうにこちらへ駆け寄ってきた。
「めっちゃ偶然だ」
迷わず俺の隣に座り、その耳のピアスを揺らす。「三船ちゃんもここの学食が恋しくなった口かな?」気の乗った渡来さんが言った。
「ゼミだよゼミ。夏休みでも、二週間に一回は集まりがあって」
「うわまじかよ。おれたちも一年後にはこうなるのかー?」
あははと、三船先輩が控えめに笑う。「そっちは何してたの?」
彼女の視線が、交互に行き来するように、渡来さんから、俺の方へと向かう。だが、俺は逸らした。
「ちょうどよかった」渡来さんが言った。「多摩川の花火大会、三船ちゃんも誘おうと思ってて」
その言葉を境に、だんだんと周りの雑音が聞こえなくなっていった。
「花火大会ね。いいじゃん、夏っぽくて。また四人で行くんだよね」
まるで自分の頭が、彼らの会話を聞きたくないと頑なに拒んでいるようだった。
たぶん、もう四人で会うことはないのだと思う。その事実を聞いたとき、三船先輩は信じられないような顔をしていた。驚いたような、どうしてそうなってしまったのかわからないような顔を。
「高野くんは知ってたの」
彼女の声が耳に届く。その声には、どこか怒りが含まれているようだった。
「俺も、今日知りました」
白々しいと思った。元はと言えばお前が蒔いた種だろう、と。それは三船先輩ではなく、自分に対しての言葉だった。
三年前の夏、幼馴染で恋人だった彼女を、出会って間もなかったはずの男教師に奪われた。彼らは人のいない教室で堂々とセックスをしていた。形は違えど、俺がしたことはそれと同様のことだった。
失望し、死ぬほど恨んだはずのあのときと今は、いったい何が違うと言うのだろう。
恨まれたり責められたりしても仕方がなかった。それが怖いから、俺は彼らに正直なことを言えずにいる。自分たちの関係が壊れてしまうのが、おそらくは堪らなく嫌だったから。
何をしても手遅れだということには、もはや変わりはないのに。
「私、帰るね」
三船先輩が静かに立ち上がった。
「高野くんごめん。これ、食べてくれると嬉しいな」
私の奢り、と言って彼女はラーメンを残して行ってしまう。
状況を理解していない渡来さんが、去っていく彼女の背中を見ながら、首を傾けた。
「なんか怒らせるようなこと言ったかなー」
それから、溜息を吐くように天を仰ぐ。
本当に理解していないのなら、それでよかった。しかし俺にはそんな彼のふざけた態度が、少しだけ気にかかった。
※ ※ ※ ※
京王線に乗って初台駅から外に出ると、空が暮れていた。見慣れない場所ながらも落ち着きはある。もう東京の街には並大抵のことがない限り驚かなくなった。
雑居ビルのその谷間で、隠れるようにキスをし合う男女がいた。片方はスーツ姿の大人な女性で、もう片方は世を拗ねていそうな見た目の若い男性だった。
こうしていられるのは今だけだから、という風に彼らは互いの唇を奪い合っている。人の目などまったく気にしていない様子が、彼らの盲目さを醸し出している。
「ねえ」
聞き覚えのある声がしたのは、そのときだった。はっとして、俺は後ろに振り返る。
「話って、なに」
足元からのっぺりとした黒い影が伸びている。そこにいたのは、藤崎さんだった。
俺は気まずくなって、思わずあらぬ方向を見てしまっていた。なぜ彼女がここにいるのか。もちろんそれは、俺が彼女をここに呼んだからという以外に他なかった。
言い訳をするつもりはさらさらない。ただ、自分の犯してしまった罪を、俺は死ぬ前に一度だけでもいいから清算する機会が欲しかった。
命果てるまで じんまーた @jiomata
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