第4話

 気が付けばそこは決して近付くなときつく言い含められた楽園の端の端で、見慣れない外周の壁はひどくひび割れてぼろぼろで、手を触れれば砂になって崩れ落ちた。

『――イヴ』

 がさがさとなにかの混じった、荒い声が声が私に掛かる。

『その壁に触れてはいけません』

 振り返れば、いつもより荒い姿をした≪蛇≫が立っていた。拳を握って≪蛇≫に詰め寄る。

イヴになにをしたの?! どうして! どうしてあんなことをしたの!?」

『あなたたちを愛しているからです』

 私は叫んだ。力の限り叫んで、その言葉を拒絶した。

「わからないよ!」

『わかってくれとも、許してくれとも言いません。けれどどうかその壁から離れて』

「あんなのイヴじゃない! 返して! 私のイヴを返してよ!!」

 激情のまま振るった拳は≪蛇≫をすり抜け、私は勢いのままつんのめり、≪蛇≫の向こう側に倒れ込む。

 そして、その先のアダムと目が合った。

 声にならない悲鳴を聞いた。

 私とアダムが同じではないと気付いてはじめて、アダムの悲しみに、アダムの苦しみに思い当たる。

 けれどそれがどうしたというのだろう。逃げるアダムを、なぜ追わなければならないだろう?

 心が通じないなら、共にいる意味などどこにあるというのか。私の半身はもうどこにも存在しないのに。


 私の名を呼ぶ≪蛇≫に背を向け、その言葉のすべてに耳を閉ざして、私は楽園の外へと続く扉に手を掛けた。

 力を込めると、扉の取っ手は半ばから千切れて折れる。

 それでも諦め切れず力の限り押すと、私より先に蝶番が折れた。扉は音を立てて壊れ、行く手に生まれて初めて見る楽園の外の世界が広がった。


 楽園の外へと踏み出し、少し歩いて一度だけ振り返る。

 虫かごたちが私を追いかけてくるけれど、彼らは見えない壁でもあるかのように一列に立ち止まっていた。

 外側から見た楽園は色褪せ錆びて、今にも崩れ落ちそうに見える。


 *


 ただまっすぐに歩いた。

 行く当てもなく、ただひたすらに、こんなにも歩いたことはないほど進んでも、世界は尽きるところがなく、そして砂と岩を除いて何ひとつ目に入るものはない。

 愛。

 自分の外に、自分がいるということ。

 愛しているから、と≼蛇≫は言った。

 ならばどうして≼蛇≫は、私から愛を取り上げて、奪い去ってしまったのだろう。

 ≪蛇≫はあまりに長生きで、≪蛇≫はあまりに物知りで、私たちにその思うところを窺い知ることは叶わない。

 いつか読んだ本に書かれていた言葉を思い返す。

 誰かを愛したいと願うなら、その誰かの幸福を願えばよいのだと。

 幸福。それはかつての私たち。揺り籠の思い出の名前。何もかも満たされたものの感情。思いつくすべての望みが全て叶ったもののための言葉。


 目的も無いまま、ただ目の前に立ち塞がる斜面に手を掛け、必死に前に進んだ。掴んだ岩が何度崩れ落ちても、進むべき道など他にない。

 かつて投げかけられた問いを思い出す。

――どうしてイヴは、イヴが考えていることがわかるの?

 その質問に、私たちは同じだからと答えた。それが愛だと、まだあのとき私たちは少しも理解していなかった。

 ≪蛇≫の言葉を思い出す。

――皆のことを考えるのです。皆が何を望み、何を欲し、何を求めているかを。

 あのとき、≪蛇≫が教えてくれたのは人の愛し方なのだと気が付いた。

 私たちは同じものを愛することができる。

 けれどそれだけが愛の形ではない。

 誰かを愛したいと願うとき、まず必要なのはその誰かの望みを知ることだ。大きな望みだけではない。些細な、ふと思い立って手を伸ばすような欲求に至るまで。

 知らぬ願いの成就など、求められるはずもないのだから。


 岩だらけの斜面を登り切ったとき、世界は大きく広がった。

 大きく広がり、その残酷な姿を私の視界いっぱいに見せつけた。 

 永遠に続くような、荒涼とした世界。

 暗く、静かで、塵と冷たい風に満たされた、生命無き世界。

 私の知らなかった、この世界のほんとうの姿。


 掴んだ土さえ、手の中に残らず指の間をすり抜けていく。

 肌の温もりも、溢した涙も、口から洩れた呻きも、虚空に消えて二度と還らない。

 ここには何もない。

 何もないのだ。この世界には。私たちに与えられた何もかもを除いて。

 いつからだろう。

 いつからこれを知り、この中にひとり立ち、全てを奪い去ってゆくこの世界から、私たちを守り続けてきたのだろう。

 幸福。かつての私たち。揺り籠の思い出。

 満たされた者の感情。不安も焦りも、なにひとつ思い悩むこともないこと。

 愛。幸福を願うこと。

 ≪蛇≫の望みを、≪蛇≫の幸福を考える。

 何もないこの世界に、たったひとりで立ち向かい続けるその理由を。


 ≪蛇≫は私を、私たちを愛している。

 私たちを、命の限り愛している。


 *


 私は語り終え、こちらに向けられたいくつもの顔を見渡した。

 小さな灯りに照らされる子や孫たちの顔はどれも真剣そのもので、私のしわがれた言葉をひとつも聞き漏らすまいと目を輝かせていた。

 木造りの粗末な窓枠がかたかたと嵐に揺れる。日が暮れてから外の風鳴りは激しさを増すばかりで、熾火に晒しても老いた身体は芯まで冷え切っている。

 今日はここまでと話を切り上げるつもりでいたが、子どもたちはきっとそれを許すまい。あの後、今は無き楽園へと引き返し、アダムや仲間たちに迎えられた私の顛末はもう何度も語って聞かせた。であれば彼らが今聞きたがっている話は、残るひとつに違いあるまい。

 私はやれやれと小さく溜め息をつく。

 今から話せばきっと夜明けまで掛かるだろう。老骨には堪えるが仕方がない。

 老い先短い命に代えても、語り継がねばならない大事な話だ。


 さあ、最後に≪蛇≫の話をしよう。

 私たちの背後に横たわる、気の遠くなるような長い長い≪蛇≫の道程を。

 行く手に広がる、これから生まれる子らが越えていく果てしない旅路のために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女の園のエデン 狂フラフープ @berserkhoop

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ