第3話

 つがいのいない日々など始まるまでは想像したこともなかった。

 けれど慣れというのは恐ろしいもの。月日を過ごして繭が解けるころには、繭の中で自分が眠っていることを考えるとなんだか妙な気分になったほどに。

 イヴが知っているのに、私が知らないことがある。

 それはずいぶんおかしな話だったが、思えば私が産まれて来る前、イヴが何をしていたのかを私は知らない。自分が生まれたとき、イヴもこんなふうな気持ちだったのだろうかと、そんなことを考えながら繭の中のつがいを出迎えたと思う。

 繭を間違えたのかと思った。

 周囲のつがいたちを見渡して、何が起きたのか私はおぼろげながら理解した。

 楽園の誰もが、このときはじめて男というものを目にしたのだ。


 *


「≪蛇≫にね、新しい名前を貰ったんだ」

 少しかすれたような低い声は、男になったせいなのだと聞いた。

 男は『病』ではないと≪蛇≫は言ったけれど、繭から出たつがいたちは皆疲れ切っていて、世話をするものがなければ立ち上がることさえできなかった。

「アダム。それが私の名前なんだって」

 かすれた声が言う。

「アダム? 私はアダムという名前になるの?」

 尋ねると、片割れの私は小さく首を横に振った。

「イヴはイヴ。私だけがアダム」

 わけがわからなかった。どうして同じものに、ふたつの名前が必要なのか。

アダムはいつイヴに戻るの」

「もう、元には戻らないって」

 アダムは寝床でくるりと身体を丸め、私から顔を背けた。それを追いかけて、私はアダムの肩を掴む。

「じゃあ私はいつアダムになるの?」

「ならない。ずっとこのまま」

 どうして。

 言いようのない怒りに突き動かされて、私はアダムに食って掛かる。

 つがいを相手に声を荒げるなんて初めてだったけれど、そんなことを思い出せるほど私は冷静ではなかった。

「だって、アダムイヴでしょう!」

「違うよ。イヴはもうイヴだけ」

 そのときの私には、目の前で涙を流されたって、自らの片割れの苦しみも悲しみも何ひとつ理解できなかった。

 だってイヴが怒っているのに、アダムが怒っていないなどということがあるだろうか。

 あのときは、それが私のすべてだった。

 私のすべてが、アダムのすべてだと疑いようもなく信じていた。


 *


 広場には私と同じようにつがいと喧嘩をした住人たちが座り込んでいて、私と彼女らは鏡に映したように同じ考えで、それがまた悔しくて涙が出た。

 私と同じものは、私でなければならないのに。

 それから男になった住人の世話はつがい以外のものが行うようになって、代わりに私は服作りに没頭した。なにもかも忘れられるよう、必死に、無心に。

 数日が経った。

 そうと意識して作った訳ではない。けれどとびきりに仕上がたそれを見てようやく、自分が寝食も忘れいったい何を作っていたのか理解する。

 二着の、お揃いの服だ。

 私と、それからアダムに着せるための。


 謝ろうと思った。

 きっとこの服をアダムも気に入ってくれるという自信があったし、絶対に似合うという確信が足を踏み出せるだけの勇気をくれた。

 久しぶりに見るつがいは記憶の最後にある痩せてやつれた姿ではなくなっていたけれど、それでも私と同じではなかった。

 あれほどもう戻らないと言われたのに、心のどこかで期待して、勝手に落胆をする。それでも手の中のお揃いの服が力をくれた。


アダムのために服を作ったの」

 返事はない。

 ごめんなさいと言おうと思ったのだ。決して嘘ではなかった。アダムにこの服を着せて、それから私もこの服を着よう。必ず喜んでくれるから、そのときならきっとごめんなさいと言えるから。

 近寄ったアダムは、どうしてか見上げる大きさをしている。

 私の差し出した服を受け取ったアダムは、何も言わず、動きを止める。

 なぜ私の服を着てくれないのか、わからなかった。

 焦れた私は、もうひとつの服をアダムの頭から被せて、無理やりにでも着せようとする。だって、これを着ればわかってもらえるはずだから。

 アダムは少し抵抗して、大人しく従った。


 アダムは、私の服を着ることが出来なかった。

 そんなはずはないのに。

 だって。なぜって自分の体で確かめながら作ったのに。私とアダムが同じものならこんなことは起きるはずがないのに。むきになって何度も何度も力をこめる。

 服が、縫い目から音を立てて裂けた。

 ばらばらになって、なくなってしまう。ごめんなさいのための服が。仲直りのための服が。解けて抜け落ちていこうとする服だったものを、私はアダムをまるで抱き締めるように繋ぎ留めようとする。

 泣いてはいけないと思った。歯を食いしばり、涙をこぼすまいと上を向いたとき、アダムの顔が驚くほどに近くにあった。

 アダムの二本の腕が私の背中を押さえつけていた。

「大丈夫だよ、イヴ」

 唇が、私の唇に重ねられる。

 わからなかった。

 おそろしかった。

 自分が何をされたのかわからないまま、私は涙を堪えることが出来なくなった。

 指ひとつ、喉さえ震わせられぬまま、ただ大粒の涙がぼろぼろとこぼれて滴る。

 私のものとは違う、太く角ばった腕に、私は逆らうことができない。

「どうしてそんなことをするの……?」

 ようやく絞り出された震えた声は力なく消え入って、けれど確かにアダムに届いた。

 緩んだ腕を抜けて、後ろ向きににじって逃げ出す。

 そうしなければ取って食われるとでもいうかのように、アダムから目を離しはしなかった。戸惑いがアダムの顔の上で移ろい、感情は暖かな色を失っていく。

 後ろ手が背後の壁を探り当てて、壁にすがって一目散に逃げた。涙と泣き声を辺り一面に撒き散らして、息が続く限り走った。

 喉と腹が引きつって、脇腹の痛みさえわからなくなるまで走って、それでようやく足を止めてうずくまる。

 どんなに姿形が変わっても私とアダムは通じ合い、分かり合えると信じていた。

 アダム

 違う。

 アダム。

 彼の名はアダム。イヴではない。

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