第2話

 それから、楽園の皆の『病』は癒えて、身体が思い通り動くことを喜んだ皆は歌い踊り、騒ぎ始めたのだけれど、最後まで『病』にならなかった私たちだけが、どうしてかこの段になって『病』に罹ってしまった。

 だから遠くに聞える楽しそうな声を聞きながら、私たちは寝床でじっとしていた。

 頭がぼんやりとして、身体が熱くて、少し寒い。皆はこんな気持ちだったのだとようやくわかった。けれど、どうすればその気持ちを乗り切れるのかは、わからない。


 枕元の誰かに気付いたのは、ずいぶん経ってからかもしれないし、そうでないかもしれない。

 そこにいるのが誰なのかと不思議に思って手を伸ばすと、誰かはすぐにその手に自分の手を重ねてくれた。

 たしかにあるのに、触れることのできない手を。

 そうやって、私たちは傍にいたのが≪蛇≫であることに気が付いた。

 寝床の外からは、相変わらず楽しげな声と音が小さく響いてきていた。


「≪蛇≫が居ないと、皆が寂しがるよ?」

 私たちがそう言うと、≪蛇≫は優しく笑って、触れることのできない手を私たちの熱を持った頬に伸ばす。

『大丈夫です。わたしは、向こうにも居ます』

 ときどき≪蛇≫は、よくわからないことを言う。

 ≪蛇≫はあまりに長生きで、≪蛇≫はあまりに物知りで、私たちには≪蛇≫の考えがわからない。

『けれど、あなた方が望むなら、あなた方の傍にだけ居ることもできますよ』

 そしていつだって≪蛇≫は私たちがほんとうに望むことを知っている。

 姿も形も、何もかも違っても、≪蛇≫は私たちのことを何でも知っている。

 幻にすぎない≪蛇≫の手に撫でられることが、どうしてこうも嬉しいのだろう。

 蛇のふたつの手を、よっつの手で包む。その時初めて、私たちは≪蛇≫を独り占めにした。


「……どうして≪蛇≫はそんなに優しいの?」

『それは、あなた方を愛しているからです』

「愛しているって、なに?」

『愛とは自己認識の概念です』

 私たちは、≪蛇≫が言った言葉の意味がよくわからなくて、黙ってしまう。

 ≪蛇≫はしばらく黙って、それから静かに呟いた。

『自分の外に、自分がいるということです』

 それはめったにないことだった。≪蛇≫は一度説明したことを、別の言葉で言い直したりしない。

 だから私たちは≪蛇≫の言ったことを理解しようと必死に考えた。

 それでも、どうしても想像が及ばなくて、そんなことがあるだろうかと私たちは思う。だから愛はきっと、想像もつかないほど途方もなく大変なものなのだろう。

 ≪蛇≫はそれ以上何も言わず、ただじっと私たちの傍に居た。


 それから、身体がうまく動かない間、私たちは頭の中だけでぐるぐると、いろんなことを考えた。幸せのこと。愛のこと。≪蛇≫のこと。≪蛇≫の幸せのこと。

 口にも出さずに、私たちはずっと考え、それから≪蛇≫を呼んだ。

「ねえ≪蛇≫。私たち、病が治ったら、≪蛇≫の手伝いをしてもいい?」

 枕元の≪蛇≫は嬉しそうに微笑む。

 それから細めた目を、ゆっくりと少しだけ見開き、頷いた。


 *


 知っての通り、楽園では虫かごが物を運ぶ。木々の世話や食事の用意も、やってくれるものがそれぞれいた。だから私たちの最初の仕事は、皆にきちんと服を着せて回ることだった。

 その仕事の顛末がどうなったかは、お前たちと同じだから、わかると思う。

 暑い。うっとうしい。面倒だし、動きにくい。

 脱ぎ散らかされた服の山の前で途方にくれる私たちに救いの手を伸べたのは、そのときもやはり≪蛇≫だった。


 *


『イヴ。皆のことを考えるのです。皆が何を望み、何を欲し、何を求めているかを』

 誰かにその人が望まないことをさせるのは難しい。必要なのは、皆が喜んで自分から服を着るよう、皆に服を着たいと思ってもらうこと。

 ≪蛇≫の言うことはわかったけれど、どうやってそう思わせればいいのかがわからない。助けを求めて見上げた≪蛇≫が、いつも通りの優しい笑顔を浮かべて言う。

『本を読んでみませんか』


 知恵のホールにはたくさんの本があって、私たちはそれを知ってはいたけれど、それを手に取ったことも、誰かが手に取ったところさえ見たことがなかった。

 だから≪蛇≫がページに触れて色鮮やかな絵が浮かび上がったとき、私たちはとても驚いた。

『絵本と言います』

 それ以上の説明などいらない。私たちはたちまち夢中になって端から端まで本に見入った。本物と見紛うような、色や形の違うたくさんの服を組み合わせ着飾った人々の絵。服をこんな風に使うなんて、思い付きもしなかった。

 振り返った私たちの考えなど≪蛇≫はお見通しで、声を掛けるより早く答えが返ってくる。無いなら作ればいい。

 そのためのやり方も、本を読めばわかるのだと≪蛇≫は言った。

 その日から私たちはたくさんの服に色を付け、模様を描き、形を変えた。皆に服を着せる仕事のことはすっかり忘れてしまっていたけれど、そんなことをしなくても皆は皆は私たちの服を欲しがり、私たちの真似をする。

 皆は夢中で身を飾り、吹き飛ぶ木の葉のように月日が過ぎた。

 服を染めるもの、髪を結うもの、サンダルを編むもの。それぞれが得意なことを、競うように繰り返す。

 何かを欲しいと思うことが以前より増えた。

 いさかいが増え、いがみ合うものたちが現れ、それでも楽園は変わらず楽園であり続けた。皆がそう信じていた。

 ≪蛇≫が、つがいの片方だけを生命のホールに呼び集めるまでは。


 締め出されたホールの扉の前に座り込んで、私と他のつがいの片割れたちは一様に戸惑っていた。当たり前だ。つがいが今何をしているかなど、考えたこともない。

 扉の向こうで、イヴはいったい何をしているのだろう。そんなことを考えるのはひどく奇妙で、誰もが口を閉ざしてつがいの帰りを待った。

 けれど、閉ざされたホールから≪蛇≫だけが戻ってきて、口を開く。

『こちらに残ったあなた方を、これより女と呼びます』

 皆は扉の向こう、ホールの奥に奇妙な繭の中で眠るつがいたちを見ていた。

 ≪蛇≫は言う。

 彼女らはこれから男と呼ばれるものになる。

 皆のため。楽園のために。

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