第9話 終幕への歩み

「おはようございます、母上」

強張った面持ちで軽く会釈したレセーンの目の下には、はっきりと影が落ちていた。

「よくお休みになられましたか」

「ええ。とても」

そう答えるルフェルの声は、昨日よりも幾らか力強さを取り戻し、それでいてあたたかな穏やかさを滲ませているようにさえ思われた。

「助かった、兄貴。よく効いたようだ」

ルフェルの後ろに佇むラサンテは、常の如く、一体何がそうさせるのか分からぬ力強さを内に漲らせている。兄と違って彼には心労というものがないらしかった。寧ろ、事の行く末を楽しもうとしているかのように見えた。

「効いたなら、よかったが」

「伊達に魔術馬鹿をやってる訳じゃないようだな」

「それはそうだ」

馬鹿にしないでくれ、お前にとっての剣と同じなのだからそれなりに腕は磨いている、とレセーンは言った。ラサンテの場合、痛覚がほぼ機能していない上に元々の再生能力が高いので、レセーンが術を掛けようと薬を塗ろうと、あまり効果を実感できなかったようである。彼にもきちんと効いてはいるのだが、他人の回復を見ていた方がその効果をはっきりと認められるらしい。――現に彼は今朝、ルフェルの胸に穿たれた穴が、昨夜よりも幾らか小さくなっていたのを見たのであった。


「本当にこれでいいのですか、母上」

最初で最後の願いなのだから、聞き届けぬ訳にはいくまい。そう己を説き伏せたつもりでいたレセーンであったが、やはりそう単純には、割り切れるはずもなかった。見届けても、或いは邪魔しても、後悔は残るであろう。手を打つには遅すぎた。

「いいのですよ、レセーン。貴方が気に病むことはありません」

ルフェルは、微笑みらしきものさえ浮かべて言ったのだ。決して笑わなかった彼女が。

ああ、これが、死にゆく覚悟なのか。最後の最後まで屈さぬ、意思の強さよ――。

母もラサンテも、その心の何と逞しいことであろう。己の優柔さが半ば信じ難かった。

「……では、参ります」

ザッハータの許へ母を連れてゆき、その最期を見届けることしか己にできることはない。分かりきっていたことだ。しかし、いざとなるとどうしようもなく心苦しかった。


  ◇


足音が時を刻む。

笑う鬼火に導かれ、つい数日前よりも更に重い足取りで、レセーンは闇の小路を進んでいった。

誰も、何も言わぬ。ただ、黙々と終幕へ歩むだけである。

「レセーンだ。父上のご命令に従い、ここに」

番兵にそう告げると、レセーンは一人、部屋へ入っていった。ラサンテ、ましてやルフェルが何の断りもなく姿を現せば、事が荒立とう。ひとまず話をつけねばならなかった。

「父上、御報告にございます」

「言え」

「ルフェルを……捕らえました。外に待たせてあります」

「連れてこい」

濁った瞳が、一斉にぎらりと光った。


「ラサンテ、母上を」

「おう」

ルフェルの細腕を掴むラサンテ。敢えて多少の力は込めたようだった。


そして復讐者たちは、遂に足を踏み入れた――魔王の待ち受ける場へ。長年の確執が、清算される場へ。


「……こちらに」

レセーンが跪き、ラサンテはルフェルの首筋に剣を当てて跪かせる。それをいいことに一人拝跪しないのが、如何にもラサンテらしかった。

呼んでもいない息子の片割れが何食わぬ顔でそこにいるのが腹立たしかったのか、ザッハータはぎろりと敵意に満ちた一瞥をくれたが、応じるラサンテではない。ザッハータもすぐに正面を向き直った。

「よかろう。この女は何をしていた?」

「サリアに唆されて魔王弑逆を画策していたようだ」

さらりと述べた弟をレセーンが振り仰ぐ間もなく、ザッハータの刺々しい声が飛ぶ。

「貴様に聞いてなどおらぬ」

「見つけたのは俺であって、レセーンは何も知らぬ。俺が動き回っている間、こいつは部屋で呑気に寝ていたのだからな」

「……左様。誠に不甲斐なきことながら、私は何も」

「そんなことはどうでもよい。それで、サリアが何だ」

声を荒らげる父に、ラサンテは鋼の仮面で以て対峙した。その奥で如何様な顔をしていたのは、知れぬ。

「この女の恨みを利用したのだ。目の届かぬ場所に連れ出し、復讐の機会をやると言って軟禁していた。無論、そんな杜撰な計画で成功しようはずもない。そうしてサリアは正妃の座を乗っ取ろうとし、この女は口車に乗ったという訳だ」

──待て、話が違う。そう言い出すことが、しかしレセーンにできなかった。

サリアが唆したのではない。サリアは頼まれた側である。

「そうだろう、ルフェル」

彼女は何も言わなかった。即ち、それを肯定と受け取ろうと何の問題もなかった。


ザッハータは思案した。

彼はラサンテの言うことを、九割九分信じておらぬ。この話も都合のよいでっち上げであろう。大方、幅を利かす妾とその子らが鬱陶しくなって排斥しようとしているに違いない。

だが、それを防ぐ理由もないのだった。

一家を退けることは一向に構わぬ。サリアは大分年を食った。悪い女ではないが、そろそろ興も醒める頃である。加えて子のグランやオルガは無能に近い。例え生かしておいたところで、早々にラサンテに潰されることであろう。死んでくれるならまだよいが、ラサンテに懐柔でもされたら面倒なことになる。無用なものは早めに切り捨てておくに限る。

この心憎い息子はそこまで見透かして言ってきているのであろう。であるから嘘がこんなにもいい加減なのだ。しかし今だけは乗ってやろう――そんな打算が働いた。

「それは競争相手が減ってさぞ嬉しかろう、ラサンテ」

「何の。あんな者共、俺の相手でなどあるものか」

皮肉に皮肉を投げ返し、七つの目からのぬらつく視線を、ラサンテは不遜な輝きを込めた紅で弾き返す。顔を合わせれば火花を散らすこの親子、その険悪さは今日も健在である。

「もうよい、下がれ。この女を置いてな」

そう命ぜられてラサンテが剣を収めれば、ルフェルはゆらりと立ち上がる。と、そこへ、床に目を落としたままのレセーンが口を挟んだ。

「……恐れながら、我々も見届けたく」

「ならばそこに立っているがいい」

鞭を与えられることもあれど、レセーンは寵児であった。

片棒を担いだ以上、母の最期に立ち会うのは義務。それを無事に果たすことができる。

ラサンテと共に壁際に立ち、見守った。


いよいよ、何百年に渡るの、決着のときである。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

氷花炎月、泡沫夢幻 戦ノ白夜 @Ikusano-Byakuya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る