第8話 氷と炎

 レセーンが去った後、部屋にはルフェルとラサンテだけが残された。

「どうだ、多少は楽になったか」

「ええ、かなり。……魔術の才があるのですね、あの子には」

「ああ。常日頃から治癒の研究しかしとらん」

 ラサンテは兄と違い、同情や憐れみをはっきりと示しはせぬ。しかし、微塵も心を動かさなかったというのではない。彼は彼なりに、母親を慰める術を持っていた。


 塔の最上階。遠く見渡せる地上は今、宵闇の底に沈みかけ、天には鋭く瞬く凶星、一際鮮やかに笑う紅の月――そして彼もまた、夜の眷属。

「俺と寝ろ、ルフェル。どうせ死ぬんだからいいだろう」

 唐突にそんなことを言い出す息子に、さして驚く風もなく、ルフェルは乾いた声音で言う。

「散々穢された身体ですよ」

「構うものか。奴一人のものにしておくには、余りに惜しい。これも奴への反逆だと思え」

「……好きになさい」

 投げやりな承諾を得、ラサンテは寝台に上がった。


 白い衣を剥ぎ取り、露わになった裸体、そこに刻まれた虐待の痕をなぞる。

 見るも無惨な有様であった。この傷と痣さえなければ、非の打ち所のない美しさであったろう。類い稀なる美の結晶、氷の彫像。それをこんな風に破壊し尽くした、父とは名ばかりである化物の気が知れぬ。

「そう硬くなるな。俺は奴とは違う、手荒なことはせんさ」

するりと服を脱ぎ捨てつつ、心做しか身を強張らせる母の耳元にそう囁く。ザッハータの仕打ちを考えれば、無理もなかった。

彼女はうら若き頃よりザッハータの虜であった。故に、ザッハータ以外の男を知らぬ。陵辱としか呼べぬような抱かれ方の他、知らぬであろう──。

 鞭しか与えられてこなかったであろういたわしき身体に、愛撫を。恐怖と痛み、そして恥辱に満ちていたであろう夜に、甘く優しき安寧を。

 死人よりも冷たい肌を己の肌に重ね、温めた。そうするうちに解れていった、細すぎる肢体を掻き抱いた。この嫋やかな腰の中に、嘗て己が宿っていたのだと考えると些か信じられぬ。よくぞここまで、抗い続けたものである。こんな華奢な女が――

 今までに抱いてきたどんな女よりも、母親は、強く、気高く、美しかった。ただ為されるがままの妙な無気力さと、反応の薄さなど気になりもしなかった。

「……不運なことだ。奴以外の男に見初められていれば、もっとましな夜を過ごせただろうに」

 魔性の女である。男を狂わせる艶めかしさが、淡白な面の奥にちらつくのだ。他にも、手を伸ばした男はたくさんいたろう。そのときの強者がザッハータであったから、彼に渡ってしまったというだけであり。

 幾重にも纏った氷の鎧。そのこじ開け方を、ザッハータは違えた。ひたすらに打ち砕かんとした。そうして彼女は、傷を負いながらも更に壁を築き、心を閉ざしたのである。

 しかし今や、その拒絶は薄氷。憎き夫との間に産み落とした己の息子に抱かれるという背徳感、滾る復讐心が手伝った故か。或いは、それもラサンテの技倆なのか。

 ほんの僅かながら朱が差した首筋に舌を這わせつつ、髪を梳いては指に絡め、弄ぶ。心臓の上、傷を舐めつつ、柔らかな膨らみをまさぐる。

 熱を帯びた吐息。今宵、炎が氷を溶かす。


 しがみついてくる身体を、力強く、それでいて柔らかに、抱き止める。震え、嗚咽を漏らす唇に、烈しくも繊細な口づけを落とす。

「俺を産んでくれたことには、感謝する。辛かったろう……仇は俺が討つ。安心して眠るがいい。この世で過ごす、最後の夜だ」

 誰も知らぬ、凄艶な紅の瞳を、ラサンテは惜しげもなく母に向けた。

 それが、孤独に闘い抜いた母への称賛と労りであった。


   ◇


「……永遠の眠りも、このように安らかなものだといいのですが」

「別に、無理に死ぬことはない。俺のもとにいたって構わんのだぞ」

「いえ。明日、死にます」

「そうか。安らかであることを願おう」

 紅の月が、燃える朝焼けに溶ける。


「行こう。復讐だ」

 ルフェルの腕を取り、ラサンテは笑った。

 遂に砕け散ろうとしている氷への、餞の笑みであった。

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