第7話 哀しき覚悟

 その日の夕のことである。

 ザッハータとの経緯いきさつをラサンテに告げようと思い、隣の部屋の扉を叩いてみたのだが、返答はなかった。早速、サリアやグランに鎌をかけに行ったのかも知れない。

 レセーンは仕方なく自室に戻り、まだ早いが寝台に横たわった。

 が、ラサンテが、そして母が、今どこでどうしているのだろうと考えると、居ても立ってもいられなかった。

 レセーンは夜のラサンテを知らぬ。敵を屠りに出かけていることもあれば、女と寝ていることもあるようだし、はたまたレセーンと共に寝ることもある。彼が知るのは、表の顔と、彼にしか見せぬ弟としての顔。夜の顔、裏の顔は、知らぬ。

 母のことはもっと知らぬ。知らぬことだらけだ。俺はこんなにも無責任に生きてきたのだと、彼は悔やんだ。

 元から、争いは得意ではない。己の生命と魂の潔白を天秤に掛けられれば、仕方なく前者を選ぶ他ないが、彼にはラサンテという代行者がいる。なるべく闘争には関わりたくない。権力もいらぬ。ただ、静かに暮らしたい。

 そんな風に、甘えすぎた。

 憂慮と葛藤の霧に曇る瞳。いつまでもこの世の闇に目を背け続ける訳にはいくまい。いつかは剣を取り、己の生きる道は己で切り拓かねばならぬ。ラサンテ一人に二人分の業を背負わせ続けることはできぬ。だが──

 すまない、ラサンテ。もう少しだけ、お前を頼らせて欲しい。

 今頃修羅場にいるのかもしれんな、と思いながら、レセーンは固く目を瞑った。


 結局、一向に眠りにつけなかったレセーンは、再び隣室の扉の前に立った。

 戸を叩く――すると、幾許かの後、ラサンテが顔を出した。

「どうした、兄貴。珍しい」

「いや、少し話したいことが」

「奇遇だな、俺もだ。まあ、入れ」

 そう言って兄を部屋に招き入れる。

 殺風景な部屋だった。寝台と小さな机、衣装棚、そして武器。家具らしきものはその程度しかない。

 一脚しかない椅子をレセーンに向け、自身は寝台に身を投げ出すと、先に喋るよう促した。

「……と、いうことだ。酷い目に遭った……報告は俺が行くから、何かあったら教えてくれ」

「そうか。面倒だな」

 ルフェルの行方を探るよう、ザッハータから命じられた。それを告げると、どうしたものかとラサンテは唸った。

「実はな、レセーン。つい先程サリアのところへ行ったんだが、半分当たりで半分外れた」

「……既に何か掴んだのか?」

「ああ。ルフェルの身は確保した。兄貴には本人の口から聞かせる」

「生きているのか!?」

「瀕死だがな。丁度、お前に治療をさせようと思っていた。一緒に来てくれ」

「ああ」

 心做しか声が上擦った。


 右に左に廊下を曲がり、時には隠された抜け道や異空間すら経由し、ラサンテに連れられて母の元へ向かう。魔城の懐深く、入り組んだ通路に、静寂しじまを割る足音を響かせ、とある一室の前に辿り着いた。

 石の壁が、床が、青白い氷で覆われている。凍りついた扉は開かれることを拒むかのようであった。

「入るぞ」

 固唾を飲み、見守った。

 足を踏み入れれば、冷気がちくりと肌を刺す。

 そしてレセーンは、母を見た。


「母上」

 寝台の上にあるその姿は、記憶にある母の姿よりも翳って見えた。いや、それどころか――雪のように美しかった肌には、今や無数の傷と痣とが赤黒く這い回り、髪には血がこびり付いていた。

「御加減は」

「俺が一応の処置はしたが、辛いだろう。看てやってくれ」

 口を開かぬ母に代わってラサンテが言い、彼は突然、ルフェルの髪を掻き上げ、胸元をはだけた。

 レセーンは絶句した。

 髪に隠されていた半面には、ぽっかりと黒い眼窩が、血の涙を流し――胸には穴が空いていたのであった。


 急いで処置をした。

 魔術とて、万能ではない。傷を瞬時に治すものではなく、あくまで回復を早める程度のものに過ぎぬ。ましてこれほどの怪我となれば、尚更。

 ひとまずは出血を止め、組織の再生を促進させ、痛みを鎮める。その程度のことしかできなかったが、それでもルフェルは幾らか楽になったようで、硬い声を絞り出した。

「ありがとう、レセーン……優しいのね、貴方は」

「お構いなく。しかし、この有様は……」

 一体何があったと言うのだろう。もしや、これもザッハータの仕業なのか――。

「私が自分で、したことです。逃げるために」

 片方だけになった水晶の瞳は、今尚冴え冴えしい光を失わず、レセーンを貫いた。

 訥々とルフェルは語る。

「私はザッハータから何度も逃げようとしたのです。この傷も、痣も、全て彼のせい。終いにザッハータは、私の右目を抉り出し、代わりに作った目を埋め込みました。胸にも同じように。

 その目がある以上、私の視覚はザッハータと繋がっていました。逃げるためには、潰さなければならなかったのですよ」

 ああ、何という悲劇だろう。こんなにもおぞましい軛を、母は振り切って逃げてきた。

 隣に跪きながら、レセーンは深々と頭を垂れた。言葉も出なかった。

「長年、耐え忍んで来ましたが、もう無理です。死にたくて堪らないのです。……しかし、死なせてなど貰えませんから、まずは逃げるしかありませんでした」

 何と険しき艱難に満ちた道。死という最後の逃げ場すら奪われ、ひたすら這い蹲った日々。

「サリアの元へゆきました。ザッハータは失踪した私を捜すでしょう。埋め込まれた目は両方潰してしまいましたから、彼には私の居場所が分からないはずです。

 機を見て私をザッハータに突き出しなさいと、サリアに頼んだのです。私はその場で、ザッハータに復讐をして死にます。そうすれば貴方に不利益はなく、却ってザッハータに重んじられるかもしれませんから、と。

 彼女は半信半疑な様子で、私を部屋に匿ってくれました。怪しまれるのも、当然のことです……それに、このことが彼に知れれば、とんでもないことになるでしょうから。

 そんなときにラサンテが来たのです。サリアは喜んで私をラサンテに引き渡しました。厄介事に巻き込まれたくなかったのでしょうね。

 こうなった今、私が貴方に頼むことは同じです、レセーン。明日、私をザッハータへ突き出しなさい」

 それは余りにも悲壮な覚悟だった。


「母上、それは……」

「いいのです。もう、生きていたくありませんから。それでも、せめて一矢報いてから死にたいのです。私の、ささやかな復讐を手伝って欲しいのです」

 何を言おうと、彼女の覚悟が動くことはないと、レセーンは悟った。幸福など何一つ与えられぬような生を送ってきたであろう母の願いを、聞き届けぬ訳にはいかなかった。

「……分かりました。お連れします。明日で宜しいのですか」

「ええ」

 これでよいのだろうか。付き纏う懸念を、レセーンは無理矢理振り払った。最初にして最後の望みくらい、叶えてやるべきである、と。

「あの日、貴方達を捨てたことを、謝らなければなりませんね。貴方達には何の恨みもないのです。それでも、どうしても愛せませんでした。あの男の影がちらついて」

 不覚にも、目頭が熱くなった。辛いのは母自身であろうに、どうして今更そんなことを言うのか。あの日、冷えた表情の裏に隠されていたものの真意を、もっと早く知っていたならば。

 決して母は、冷たい人ではなかった。母たろうと努め挫折した、本当は優しい人だったのだろう。

 己の存在の方が恨めしくなった。

「お気になさらず。今夜くらいは、ゆっくりお眠り下さい」

 ラサンテに目配せをし、部屋を辞した。

 ――強いひとだ。改めてそう思わせられると共に、対する己の不甲斐なさに怒りすら募る。到底見てなどいられなかった。

 帰り道、虚空の中で一人、レセーンは懺悔の涙を散らした。

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