第6話 父の毒牙

 廊下を照らす炎が揺れ、影が伸び上がっては縮む。虚空に浮かぶ青白い鬼火、照明として灯される炎は、レセーンの進む方向でひとりでに燃え上がり、彼が通り過ぎればふっと消える。人影は他にない。ここまで来られる者が限られているからだろう。

 レセーンは今、玉座の間の更に奥――父ザッハータの住まいへ向かっているところであった。唐突に、呼び出されたのである。

 闇に閉ざされた通路は毎度、形を変えるのだという。炎は王が許した者だけを導き、招かれざる者は出口のない闇の中を彷徨うこととなり、やがて骨となって朽ち果てる。案内をする火の玉は、永久に、この迷宮に閉じ込められることとなった者達の霊魂にも思えた。反響する足音に、徘徊する死者のものが混じっているような気にさえなる。臆するレセーンではないが、決して居心地がよくないのは確かであった。

 篝火が見えてくる。蛇の絡み合う、巨大な扉の文様が、朧気に見える。

 槍を交差させた石造りの哨兵が誰何した。

「レセーンだ。父上の御召しに応じて参った」

 父の、猜疑心の強さを思った。自ら術を掛けた石像なら裏切らぬだろう。誰も信じられぬ。それが普通。

 扉が重々しい音を立てて開く。豪奢な彫刻の施された黒い壁を横目に、ザッハータの許へ向かう。召使い代わりの不死者達が、魂の宿らぬ身体を黙々と動かしていた。

「参りました、父上。宜しいですか」

「入るがいい」

「……失礼致します」

 やはりザッハータに合うときは、自然と背筋が伸びる。

 仮にもこの魔城の頂点に君臨する支配者。玉座に見合うだけの力量と貫禄は備えている。正式な謁見ではなく、あくまで個人的な対面に過ぎぬ故に、そこまで格式張って畏まる必要はないが、それでも息は詰まる。

 ザッハータは寝台の横、天鵞絨張りの肘掛け椅子に腰掛けていた。

 気道が潰れるような重圧。それは恐らく、二つではなく七つの目からの視線に晒されているからであろう。

 この異形は、竜の頭の、本来目があるべきところにそれぞれ二つずつ、額に一つ、そして左右の翼の大きな裂け目の中に浮かび、常にぎょろぎょろと動き回る眼球を持っていた。虹彩は毒々しい朱、それを取り巻く部分は得体の知れぬ闇。まるで瞬きをするかのように裂け目が閉じれば目玉は消え、再び開けばぱっと現れる。頭には捻じ曲がった太い角が生え、翼の末端は瘴気と化して散っている。

 経た年数のせいだろうか。何とも言えぬ禍々しさ、おどろおどろしさがある。こごるどす黒い血、暗闇の底に淀む澱のような――ラサンテもいつか、このような雰囲気を醸し出すようになるのであろうか。

「久しいな。何をしていた?」

 耳を這い回る、重く低い声は、常に詰問と威圧の響きを含み、抗い難い。

「部屋で、研究を……」

「よく飽きぬものだ。座れ」

 軽く会釈し、向かいの椅子に座る。自室で使っているものと違って座面が柔らかく、深く沈むので変な心地がした。レセーンは決して大柄ではないが、造りが小さめなのか、少々窮屈である。愛妾達のための椅子だろうか。その辺りについては、深く考えないことにした。

「今日は、何の御用ですか」

「何、研究の成果とやらを見せて貰おうと思っただけよ。治癒魔術の開発と言ったな?」

 応える間もなく、レセーンは縛り上げられた。


「――ッ!」

 ザッハータの愉悦の笑みが瞬く。宙に赤いものが散る。

「その程度の傷なら容易く直せるのであろう、我が息子よ?」

 黒く太い、強靭かつ凶悪な蔓が椅子から生え、レセーンを縛めていた。その蔓はさながら刃のような棘を有し、彼に絡みついて皮膚をずたずたに裂き、全身から血を流させた。

 思いも寄らぬ奇襲であった。身体がぎりぎりと絞め上げられ、骨が軋む。毒が回り、四肢が痺れ、終いには腐り始めるであろう。

 一体何が目的だ、畜生。レセーンは心の内で罵った。

 この程度の拘束ならば、その気になれば椅子ごと吹き飛ばすこともできるだろう。だが、得策ではない。今はなるべくザッハータの意に沿い、穏便に事を済ませるべきであろう。

「……では、失礼致します」

 狼狽も一瞬。物穏やかに断り、身を縛る蔓を霧散させる。黒い煙が上がり、傷口が泡立った。

 酸だろうか。焼けるような痛みに、思わず奥歯を噛み締めた。

 絶え間なく痛みの信号を送ってくる感覚を切り離し、心を鎮め、深く息を吸う。身体の中に広がってゆく空気と共に、力を送り込む。全身の血管を広げるようにして――。

「……ほう?」

 ザッハータは唇の片端を吊り上げながら、己が与えた傷が燐光を放ち、徐々に塞がってゆくのを見ていた。

 美しい光であった。透き通る、清冽な青――煌々と輝きはせず、淡く、霧のように揺蕩う光。氷のような色をしながらも、決して冷たくはない青。

 その色は、兄弟が身を癒やす泉、滝壺にかかる水霧に似た。

 切り裂かれ、黒ずみ膿んだ皮膚が再生してゆく。通常の何十倍もの速さで新たな細胞が増殖していく小さな音を、レセーンは聞いた。

 清水が肌を洗うような感覚と共に、身体が生まれ変わる。やがて光は薄れて溶け去り、レセーンは無傷で座っていた。

「なかなか見事だ。それならば心配ないな」

「何がですか」

「襲われても、だ」

「……」

 じっとりと睨めつけてくる目玉に怖気がした。

「気を付けろ。ラサンテにな」

「ご心配には及びませぬ。ラサンテと私は決して……」

「信用するな」

 吐き捨てるザッハータからは、息子への嫌悪がだだ漏れであった。何かと父はラサンテを目の敵にした――それは、恐れの裏返しでもあろうが。

 ラサンテに力と野心のあることを、ザッハータは知っている。そして、息子の手によって抹殺されることを恐れている。

 ザッハータとしては、何としてでもレセーンを王位につけたいのだ。傀儡にはうってつけである、そう考えているのだろう。或いは兄弟で相討ちにさせようとでも目論んでいるに違いない。

 しかしレセーンは王位など欲しくもなければ、弟と争いたくもなかった。近々継承権を放棄しようと思っているのだが、もし露呈すればただでは済まなかろう。厄介な父親である。

「それともう一つ。お前の母親が行方を眩ました。死体か首謀者か、捜して見つかり次第報告に来い」

「は。既に動いておりますれば、暫しお待ちを」

「ふん。相変わらず鼻が利く、ラサンテの奴め」

 言外に無能と誹られている気分になり、レセーンは頭を下げた。

「尽力致しま……」

「いい女だった。結局最後まで我が愛を突っ撥ねた」

 気を落とすどころか哄笑する王に返す言葉を失い、己の母を思った。

 正妃ルフェル。妾が次々と入れ替わるのに対し、ザッハータは彼女にのみ変わらぬ愛、というより執着を見せていた。

 ふと目を落とした椅子の肘掛けに、長い銀髪が一本絡みついているのを見、レセーンはその理由を悟ったのであった。

 ――この夫婦の間に、如何様な闘争があったのかは知らぬ。が、少なくとも、母が夫を好いていなかったのは確かである。

 それどころか、彼女は片時も、媚びる笑みすら浮かべなかったであろう。抗い続けたのか――だとすれば、彼女が耐え忍んで来たのは、何と恐ろしい日々であろう。残虐な魔王は、己に手向かう者を許すはずもなかろうから。

 眼前の酷薄な口許がそれを証明していた。

 母は、可哀想なひとだった。そして、強い女だった。

 生まれて数百年。レセーンは漸く、父の、ルフェルへの異常な執着の所以を理解した。捻じ曲がった欲望を満たすため、加虐の対象として、彼女を傍に置き続けたのだ。躾と称し、態度を改めぬ彼女を散々に犯し、痛めつけ――。

 それが真っ当な愛などでないことは、火を見るよりも明らかであろう。

 冷汗が背を伝う。と同時に、母に対する畏敬の念と、哀憐の情が湧いた。今まで母と関わってこなかったことに後悔すら感じた。これでは、荒野に捨てられたことも恨めぬ。ザッハータの陵辱の証、産みたくもなかった子供を見るのは耐えられなかったのであろう。

「成果が上がり次第、また御報告に参ります」

「そうしろ。行ってよい」

 陰鬱な心持ちで、レセーンはザッハータの元を辞した。父の非道な笑みが、頭から離れなかった。

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