第5話 母の記憶
「……本当か?」
幾分か声を潜め、レセーンが問い返す。尤も、部屋には結界が張ってあり、勝手に入ることはラサンテを除き不可能であり、盗聴もまた然り、声を落とす必要はないのだが。
「ああ。多少探ったが、行方知れずだ」
ルフェル――魔王ザッハータの正妻にして、彼ら兄弟の母親。
ほとんど共に過ごさなかった母のことを、しかしレセーンははっきりと思い出すことができた。
そう、それは忘れもしない純白の記憶。弟ラサンテが、生まれて間もない頃のこと――。
◇
母は美しい
氷の王妃と渾名される母は、その名の通り、氷の美女であった。
背が高く、その肢体は細く嫋やかな曲線を描き、半ば透き通った青白い肌は常に冷たい。流れ落ちる銀髪が顔の半分を覆い隠し、残る半面、露わになっているのは、整ってはいるもののまるで表情の浮かばぬ、無機質な彫刻のよう。伏せられた睫毛の下、氷色の瞳は憂いの翳りに烟るようでありながら、冷え冷えと冴えていた。
「母上、どこへ行くのですか」
「城の外です。一緒に来なさい」
生まれたばかりの赤子――ラサンテを幼きレセーンに抱かせ、ルフェルは城を抜け出すと、乾きひび割れた不毛の大地を歩き始めたのであった。
風が砂塵を舞い上げて吹き荒ぶ。荒涼たる風景にひたひたと迫りくる寂寥、不安と孤独が全てを枯らしてしまったかのようである。
血を流すかのような空に、太陽は照り、ぽつりと佇む彼らを焼いた。レセーンには、ただでさえ弱々しい母が、この暑さの下では溶けてしまうのではないかと思いつつ、全く目を覚まさぬ弟を抱き、足を引きずった。
荒野にも果てはあった。ねっとりと絡みつくような、邪悪な生気に満ちた密林。鬱蒼と茂る木々の薄闇に、毒々しい花々が怪しく咲き誇り、噎せ返るような香気を漂わせながら艶然と笑む。ぼうと光る苔や茸、気味悪くも美しい森を抜ければ、火山が煙を吐き、どす黒い炎を吹き上げる。溶岩は地を焦がしながら流れ下って尚煮え立ち、灼熱の泥沼となる。暗紫色の大海は荒れ狂い、嵐が暴れ回り、海面は鎮まることなくうねり、飛沫を上げ続ける。黒風白雨、水平線など望めることはなく、垂れ込める黒雲を稲妻が裂く。
赤き炎天、黒き太陽の怒る昼と、天を覆う暗黒、そこに紅の月が笑う夜。幾度それを見たのか、一体どれだけ歩き続けたのか、さっぱり分からぬ。
長い長い旅路の末にレセーンが連れてこられたのは、一面の銀世界だった。
紫に変わった空の下、清らかな純白は却って不気味に、どこまでも続いていた。唸る風が、氷の礫を吹き付けた。
雪は、母によく似合っていた。ここが母の本当の住処であり、これから過ごす場所なのだろうか。そう思ったものである。
――しかし、全くそうではなかったのだ。
「着きました」
長いこと口を開かなかった母が言い、レセーンを振り返った。やはりその顔には何の表情もなかった。
「これから、どうするのですか」
無邪気に問うたレセーンに、ルフェルは。
「死になさい。ここが、貴方達の墓場」
そう言い放った。
呆気に取られたレセーンの青い瞳は、母を見つめ、そして悲しく凍りついた。
「どうしてですか、母上」
「……知りたければ、生きて帰って来なさい」
吹雪の中、母の姿は掻き消えた。
レセーンは、目を覚まさぬ弟と二人、雪原に取り残された。
彼らは捨てられたのであった。
小さな身体はぐらりと傾ぐ。それでもレセーンは弟を放さず、雪の中に倒れ込んだ。
飲まず食わずでずっと歩き続けてきたおかげで、既に限界は近かった。
収まることのない吹雪、凍てつく寒さが、彼らから命の温もりを奪いつつあった。
彼らが捨てられた場所。そこは、モルス・アルバ――「白い墓場」。
放り出されたら最後、生き延びること能わずと評される、雪と骨の堆積。死にゆく者を喰らう、生きた雪原だったのである。
この哀れな子供たちを、モルス・アルバは不憫に思ったのか。
彼らは奇跡的に生き延びた。彼らはモルス・アルバの中央に
そしてある日、城に帰った。
モルス・アルバから生還した者がいる。しかも子供が。
噂は瞬く間に広がり、斯くて彼らは捨て子から王位継承者に戻り、神童として名を馳せた。
ルフェルはさぞ驚いたことだろう。生還者など一人もいない、死の雪原に置き去りにした子供二人が、戻って来てしまったのだから。
皮肉にも兄弟が彼女の許を訪れたときの眼差しを、レセーンは忘れない。
そこに情愛はなく、あるのはただ、凍てついた心のみ。屈折した、悲しみとも怒りとも、苦しみともつかぬ何かが、平淡な声音の奥に封じられていたのを、少年となったレセーンは感じた。
以来、母親とは顔を合わせていなかった。
◇
「……それは、一体いつから」
「三日前だ。もう死んだかもしれんな」
淡々と剣を研ぎ続けるラサンテ。
可哀想な女だ、と彼は言うが、果たして本当にそう思っているかどうか。自分を捨てた母親であり、彼が憎んでやまない父親の女である。
「心当たりは?」
「サリア辺りだと思うがな。傷心するザッハータに言い寄って寵愛を得るか、正妻に成り上がって継承順位を引っくり返すか……何れにせよ、俺と兄貴に利はない」
ラサンテの横顔には、あからさまに侮蔑の色が浮かぶ。サリアというのは、そこそこ勢いのあるザッハータの妾であった。
権力に媚びて身体を売り、生き抜こうとするザッハータの愛妾達を、彼は殊更に嫌っていた。弱さと醜さに憎悪さえ覚える彼にとって、彼女らの生き方はこの上なく浅ましく、許し難いものだったのである。ラサンテとて抱く女は腐るほどいる――しかし、そんな媚が垣間見えた瞬間に縁を切るか、殺すかしていた。それでいて女遊びを止めないのだから難儀なことである。口を出そうとは思わぬが、相手の女達が思いやられるレセーンであった。
「ということは、サリアの子……グランとオルガだったか、それがサリアを唆したと」
「さあな、それは知らんが。舐められたものだな、例えそれで順位が入れ替わったところで、俺がまた覆すだけだというのに」
魔界の王位は、一応は世襲制である。しかし玉座を巡って身内で争うので、結局は一番強い者が残る、という寸法であった。そして王家の血筋というのは、古来より強者のみが加わることを許された、赫血という氏族であり、他の者とは一線を画した能力を受け継ぐために、後継者争いは王家の中で完結する。そうして連綿と、血で血を洗う争いは続いている――。
王位継承順位第一位のレセーン、二位のラサンテ。彼らの周りには常に敵が絶えぬ。
「まあ、どこでどう飛び火するか分からん。用心しておけ」
「心しておく。……昨夜お前が動いていたのも、その関係か?」
「それはまた別だ」
「そうか……敵が多いな」
「当たり前だろう。何せ第一王子様だぞ、お前は」
ラサンテは砥石を置き、刃に油を塗ると、柔らかな布を滑らせた。丹念に研がれた刀身は、濡れたように美しい。
ラサンテがいなければ、レセーンは疾うに、凶刃に倒れていたに違いない。そう思うと頭が上がらぬ。
「ラサンテ」
レセーンは思わず、弟の膝に手を置いた。不敵に揺らめく紅の炎を覗き込む瞳は青く、深慮と憂いに満ちる。
「何だ?」
「……頼むから、無茶だけはしないでくれ」
急に心配そうな顔をし、兄らしいことを言ってくるレセーンに、ラサンテは笑った。
「どうした、今更。無茶などせんさ……奴ら相手に無茶ができるほど俺は弱くないのでな」
「そうかもしれないが……油断はするな」
「調子に乗るな、ということだろう。安心しろ、俺とて自信と過信の境目は弁えているつもりだ。とは言え、忠言はありがたく受け取っておこう、策士殿」
そう言いながらも相変わらず不遜な笑みは消えぬので、余計に不安が募るレセーンであったが、ほとんど必ずそれが杞憂に終わるということもまた知っていた。
確かにラサンテは、倨傲にすら感じられる言動から、武勇を鼻にかけた若造と軽んじられる――だが、それも策のうちである。己の敵を炙り出す為の。
外面はあくまで外面、内実は冷静そのもの。だからこそ今まで、数多の敵を欺き、裏の裏を掻いて罠に嵌め、確実に葬り去ってきたのである。彼を侮って手を出した敵を、必ず。
「策士はお前だろう」
この弟がもし敵であったら。そう思うと、背筋が寒くなるレセーンであった。
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