泣かないで坊や 🙅

上月くるを

泣かないで坊や 🙅




 ごめん、あたし、ちょっと外へ出ているね。

 いいけど、どうしたの、顔色がわるいけど。


 ううん、なんでもない、大丈夫だよ……ただ、ちょっと、あの泣き声がね。

 泣き声って、あのベビーカーの? そんなに苦手だったっけ、赤ん坊の声。


 うるさいっていうんじゃないの……そうじゃないんだけど、居たたまれなくて。

 居たたまれないって、なにが? 若いおかあさん、一所懸命にあやしているよ。


 よく分かっているんだけど、なんていうか、胸がざわめいて聞いていられないの。

 ふうん……ま、いいや、チャチャッと買い物済ませて来るから先に外へ出ていて。




      🛒




 赤ん坊の泣き声に超過敏になったことを自覚したのは、つい数日前のことだった。

 スーパーでも電車やバスでも公園でも道でも、泣き声がすると耳を押えたくなる。


 もちろん、お腹が空いたとか、オムツが濡れたとか、直接的な原因があるにせよ、異常が常態化したこの末世に生まれて来たことを、嘆き悲しむ声にしか聞こえない。

 

 自分の子を育てているときは毎日が必死でそんなことを考える余裕はなかったし、酸いも甘いも辛いも知り尽くした年齢ならではのセンチメンタリズムかも知れない。


 けれど、やはりとミチヨは思う。

 なんというブザマな世界だろう。


 過去の負の積算のツケが露わになった時代に、いきなりポンと文字どおり丸裸で放り出された赤ん坊は、その小さな全身で本能的な怯えを感じ取っているに違いない。




      ⚖️




 1920年代、南北戦争のアメリカを舞台にしたジャズの名曲『Summertime』はおまえがひとりで飛び立つまではパパとママが守るから安心してね、と謳っている。


 カルチャーセンターのジャズ・ヴォーカル教室で習いながら、ミチヨは心を傷めずにいられなかった……だから、don't you cry……とはなんと残酷な。💧




      🎠




 セルフレジを済ませたスミレが大型のマイバッグを持って自動ドアから出て来た。

 いつもに増した困り眉は、心療内科系の症状の悪化を心配してくれているらしい。


 黙って車のキーを開け、後部座席にきちんとバッグをおさめたスミレは、アイコンタクトでミチヨを助手席に座らせると、自分は運転席に入り、ふうっと息を吐いた。



 ――ねえ、ミチヨ、「生きてるだけで大優賞」って知ってる? ヾ(@⌒ー⌒@)ノ



 なにそれ? 首を横に振ると、若い世代で呟かれている言葉だと説明してくれた。

 そうなんだ、大人が見て見ぬフリで来た結果を負わされ、なんと健気な……。💦




      🧵




 そっか~、スミレはすべてを分かってくれているんだね、なんにも言わなくても。

 ミチヨはあらためて高校の弓道部の出会いに感謝して、整った横顔をそっと見る。

 

 この人はどんなときにも、やわらかな笑顔を絶やさないが、決して芯はブレない。

 たとえ味方がひとりもいなくても、向かい風に、昂然と額を剥き出しにして来た。


 そんな人の親友として、赤子の声に耳を塞いでいる場合じゃない、力はなくても、戦後社会の片隅で塗炭の苦しみに呻いて来た人たちの苦悩を共有することはできる。


 まずは、ふた昔以前に、ごく身近で起きた生々しい体験の記憶に関する勉強会から始めてみよう、そして、スミレと共にSNSで賛同を募り、傷んだ魂を少しでも……。



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