Blood marriage

閏月かむり

Boold marriage

「ぼく、花嫁っていうのになってみたい!」

キラキラとした目で告げられたのは、思いの外可愛らしい“お願いごと”だった。──────────周囲の状況を一切合切無視して、その言葉だけ聞いていれば。

「ねえねえいいでしょ?手伝ってよ、ルク」

無垢な少女そのままの笑顔で、顔にこびりついた返り血を拭いながら喋る。にこにことまるむ表情は純朴以外のなにものでもないのに、血の海と化した殺戮現場が直ぐ側にあって、齟齬を感じてしまう。よくあることだ。

はあ、と溜め息を吐き、いきなり突拍子もないことを言い出した少女に、ルクは尋ねる。

「花嫁って、どういうこと?リーレ」

「花嫁は花嫁よ。綺麗なドレスとヴェールを纏った、みんなにおめでとうって言われる、真っ白なお姫様」

コロコロと笑うリーレに頭が痛くなりながら、ルクは言った。

「あのな、花嫁になるっていうのは結婚するってことなんだ」

「きみはぼくのこと、余程の馬鹿かなにかだと勘違いしてないかい?知ってるよ、そんなこと」

「・・・結婚したいのか?」

「結婚する相手がいない」

あたりまえのことを言うように当然の顔をして答えるリーレに、何を言っているんだとルクは尋ねたい。訳が分からない、どういう思考回路で喋っているんだ。

「つまりはどういうことなんだ、花嫁になりたいって」

こめかみを押さえながら問うルクに、あっけらかんとリーレは答える。

「えー?だから、花嫁になりたいんだよ。綺麗なお洋服着て、美味しいご馳走いっぱい食べて、お祝いしてもらうの」

「・・・結婚式“ごっこ”がしたいってことか?」

漸くリーレの望みを捉えてきたルクに、輝かんばかりの向日葵のような笑顔で、彼女は頷く。

「うん!たぶんそう!」

ぴょん、と跳び跳ねたので、彼女の傍らに落ちていた白いヴェールを被った女の首が、ごろんと転がった。白い大理石の床が、真っ赤な色でまた汚れる。自ら作り出した赤い血を滴らせる“それ”にはもう目をくれず、リーレは本当に嬉しそうに笑う。無邪気に。天使みたいに。


この少女は頭がおかしい。


これから永遠の愛を誓い、幸せを掴む筈だった花嫁とその婿らを残虐に殺し、結婚式場を血の海に変えたその身で、自分も花嫁になってみたいのだという。結婚式ごっこがしたいのだという。

「綺麗だから」「楽しそうだから」という理由で。

ルクにはリーレの考えてることが分からない。酷く歪で滑稽で歪んでいる、彼女の精神が理解できない。ルクはリーレと違って、異常で残酷な行為に手を染めながらも、それが異常で残酷だと自覚しているから。

けれど、リーレの望みを叶えるのがルクの生き方なので。

生き方で、願いなので。

「かしこまりました、お姫様」

いつもどおりにそうやって、おどけたように傳いてみせた。



ルクとリーレは人殺しだ。それも何人も何人も虐殺した大罪人だ。といっても、ルクは人殺しがしたい訳でも、しなければいけない訳でもない。ルクが残虐な行為に手を染める理由、それはただリーレと共にいるというだけの為だった。リーレが人殺しだから、ルクも一緒になって彼女を手伝う。ルクが殺人鬼になった経緯なんて、それだけのことだ。では、リーレが快楽殺人鬼なのかというと、これも少し違う。リーレは、ただ普通に人を殺すのだ。そこに欲望や、何らかの意思などはない。人を殺すために生まされて、人を殺すように育てられてきた。だから、人を殺す。それだけだ。そこにはなんの意味も理由もない。魚が泳ぐように、画家が絵を描くように。殺人という行為はリーレにとって、呼吸にも等しいものだった。

「誉めてくれるかなぁ、レイ様」

そう言って、リーレはご褒美を待ち望む幼子のように笑う。もう彼女を暗殺者として育ててきた、リーレの主はこの世界の何処にもいないのに。

ほんとうにほんとうに楽しそうに笑うから、ルクは時々嫌になってしまう。

「リーレ」

もう、“レイ様”はいないんだよ。

そう言ってやりたくなる。

レイ様は死んでしまったんだよ、と言ってその綺麗な笑顔を歪ませてやりたいのに、言葉はいつも、喉の奥の方で止まってしまう。今日だって。

ルクにはやっぱり、言えなかった。

もうリーレの主人は死んでしまった。だから、こんな行為に意味なんてない。昔はルクもリーレも、仕事で人を殺していた。多くは悪人だった。この国にとっての、“悪”。その他は善良な愚者だった。この国に不必要な“善”。ルクとリーレの主、レイはこの国の重臣で、国を脅かす存在をリーレやルクなどの子飼いの暗殺者に始末させていた。人を殺すために生まれて、人を殺すために生かされる。ルクもリーレも、まともな人生を送ってきていない。でも、ルクとリーレの主は死んだ。死んだから、もうリーレは自由だ。人を殺す必要なんてない。それなのに、リーレは相変わらず人を殺す。歩くみたいに、息するみたいに。そうだ、この殺人にどんな意義も意味も価値もない。リーレの世界を、心を保たせるための茶番劇。殺されてくれてありがとう、でもね、あなたが死んだことにはなんの理由もないんだよ。転がされた花嫁の首に、心の中でそんなふうに言ってみる。

リーレに親はいない。物心もつかないほど幼いときに、道端に捨てられていたのをレイに拾われたらしい。人を殺す才能があったリーレは、そのまま暗殺者としてレイに育てられた。リーレの人生は、最初からレイ一色だった。レイの望みのためだけに生きて、レイに仕事を誉められた瞬間が、いっとう幸せそうだった。レイに頭を撫でられているときの、綿菓子のようにやさしくて、あまやかな微笑が、ルクにはいつも痛いほど美しく見えた。

レイ=アズワルトという名は、リーレにとって、きっとかみさまの名前だった。

リーレの世界はいつだってレイひとりで満たされていた。透明な水いっぱいの水槽みたいに。神様に挑もうとするなんて、バカな人間のすることだ。ルクはそんなバカみたいなことはしない。それにそう、よく言うじゃないか、死んだ人には勝てないって。勝てない理由がふたつも揃ってる。だからルクは、“レイ様”に挑むことなんてしない。言わなくてもいいことを、言ったりなんてしない。いくら言ってしまいたくとも。けれど鈍く痛む胸が、綺麗に微笑むリーレが、時折ルクを途方もなく惨めにさせる。

「なぁに、ルク」

名前を呼んだまま何も言わないルクを、リーレは不思議そうに見つめ返す。

それから人の気持ちも知らないで、きゃらきゃら笑ってルクの手を引っ張った。

「はやく行こう。花嫁のヴェールを探しに行こう!」

きらきら、きらきら。

白金色の光を放つリーレの虹彩が、星の欠片のようにルクに降り注ぐ。

リーレの笑みはいつもルクを苦しめて、ルクを癒す。麻薬のようにタチの悪いそれを、やっぱりルクは、世界でいちばん可愛いと思ってしまう。

男も女も溺れさせてしまう傾国の美女も、色町の頂点に立つ艶やかな遊女も見たことがあるけれど、ルクにはリーレが最も愛らしく見える。

その少女がたとえ、人殺しの人でなしでも。

リーレは歌うように囁いた。

「ルク、ぼくを花嫁にしてみせて」

ルクは一生、レイには勝てない。

たぶん絶対、何があってもそれは変わらない。

でも“レイ様”にはリーレを花嫁にすることは出来ないだろう。ルクには出来る。リーレに結婚式をプレゼントすることが。たとえそれが紛い物のごっこ遊びに過ぎなくとも。

その事実に、ルクはほんの少しだけ救われた気になって、仄かに笑んだ。



“結婚式ごっこ”の会場に選んだのは、街外れの廃れた教会だった。無人の風化した建物のなか、リーレは真っ白なドレスを纏って、袖をひらひらと舞わせていた。

「ねえ、これ、どうしたの?」

楽しそうに、少し弾んだ声で聞いてきたリーレに、一言で返す。

「買った」

暗殺依頼を何個か受けて、その依頼料で買ったのだ。誰もやりたがらない汚れ仕事なので、並の仕事よりよっぽど実入りがいい。別に盗んでもいいのだが、ごっことはいえ結婚式の花嫁に、盗んだドレスを着せるのは気が引けた。まあ、出したお金が真っ黒な時点で元も子もないのだが。それは

ともかく、リーレにあげるならやっぱり新品がいいなと思ったのだ。

華奢なレースが飾り付けられた純白のドレスは、リーレの天使めいた美貌をさらに際立たせていた。リーレの柔らかいミルクがかった金色の髪が、薄透明のヴェール越しに揺れるのを見ながら、ルクは尋ねた。

「それで、あとはどうする?花婿とか参列客とか、拐ってこようか」

脅して役のふりをさせた後に殺せばいい。“生きている”ことが条件でないのならもっと楽だ。死体にタキシードとドレスを着せるだけでいい。

心配せずとも、この街の治安はとっくのとうに終わっている。捕まることはない。今更死体が十人くらい転がっていたって、街の人間は気にも止めない。そいつらが自分の身を守れなかっただけのことだと嗤われる。ここに住むのは、ここ以外何処にも行けなかった人たちだ。身分証も戸籍も居住に必要ない街だから、訳ありばかりが集まってくる。ルクもリーレも生活を保障してくれていたレイが亡くなったので、この街に来た。ここなら楽に息が出来る。いろんな意味で終わってる場所。法も秩序も存在しないような街だから、信仰心を持ち続けている人間なんてそうそういない。おかげで簡単に“舞台”が手に入った。

寂れた教会は、今にも倒壊してしまいそうなほど、あるいは子供が口に含む前の砂糖菓子のように脆く見えた。

「んー?うーん」

なんだかしっくりこないように、リーレは首を傾げる。客はともかく、花婿の発想はなかったのか。新郎がいない結婚式なんてないだろうに。

「それともご馳走がほしい?」

豪華な食事を用意するのはなかなか骨が折れそうだが、リーレが望むなら準備しよう。やってやれないことはない。

けれども彼女は頷かずに、いきなりパッと何かを思いついたように顔を上げる。

「そんなことよりっ。誓いの言葉を言おうよ、ルク。ぼくあれを言ってみたかったの!」

「誓いの言葉って・・・。ソレ、新郎と一緒に言うものだよ。ボクでいいの?」

明るく頼んできたリーレに、呆れたように尋ねる。

「うん、ルクでいいよ」

軽やかに、おやつを決める容量のような声音でリーレは言った。

彼女にそう言われてしまったら、ルクは頷いてしまう。

「・・・分かった。言っておくけど、正確な誓いの言葉なんて知らないからね。適当でいくよ」

「リーレも知らない!いいよ、なんとなくで」

きゃらきゃら、きゃらきゃら。

宝石がぶつかり合うようなその微笑が、とても綺麗で鬱陶しい。途端にバカみたいに思えてきた。教会で、永遠の愛を誓うだって?ボクたちふたりとも聖なるものに泥をぶっかけるような生き方しか知らないし、そもそもリーレはボクを愛してなんかいない。空虚でハリボテの絵空事。白で覆い隠そうとベタベタと貼り付けた紛い物の結婚式。こんなんじゃ、ごっこ遊びにもなってやしない。子どもたちがやるほうが余程純真さが滲み出てくるだろう。そう思って、うんざりしていてもルクは少しも顔に出したりはしない。完璧にやさしげな微笑みを浮かべ、そっとリーレの手をとった。白いレースの肘手袋に覆われた、手を。

そして言葉を放す。

「病めるときも、健やかなるときも」

教会の天窓から光が差していた。柔らかで、ひなたに向けられる種類の日の光。もしも今此処で本当に結婚式が行われていたなら、きっとすばらしかったことだろう。

「悲しみのときも、喜びのときも」

日光が彼女の髪に光輪をつくる。金色に映えたそれは、まるで天使の輪っかのようだった。けれどルクは、リーレには花畑の蝶の群れより、人の死からつくられた真っ赤な血液のほうが似合うことを知っていた。そうとも、この天使みたいな美しい少女には、死神の名がふさわしい。

「貧しいときも、富めるときも」

きらきら、きらきら。

光に照らされ淡くひかるその白金色の瞳が疎ましい。なんの憂いも揺らぎもないことが、一切の感情の発露で満たされていないことが、それを理解できてしまうことがとても哀しい。まるで星みたいに輝き続けるから、もう見たくなくても、ルクはその瞳から視線をそらせない。

「ボクは、キミを愛し続けることを誓います」

でもね、リーレ。この嘘ばかりの紛い物の結婚式ごっこでも、ひとつぐらいは本当のことがあるんだよ。

ボクが今言ったこと、誓ったこと、それだけは全部嘘じゃない。心の底から想って言うこと。

偽りなんてない。どこにもない。


まあ、それは。




「え?」




ぐさり。




──────────────────信じてくれないかもしれないけれど。




ルクは常日頃隠し持っていたナイフでリーレを刺した。その純白のドレスの、真ん中に。倒れかけたリーレを優しく抱きとめる。殺人において化物級の強さを誇る彼女の隙をつけたのは、ほとんど奇跡みたいなことだ。もしかしたら教会の神様がくれた幸運かもしれない。ありがたいことだ。

真っ白なウェディングドレスが、リーレから溢れる赤い血で染まっていく。

先程までの清廉さが、嘘みたいに。

お腹を刺したからすぐには死なない。けれどこの出血量なら、まず助からないだろう。・・・助ける気もないけどね。

「どうして?」

腕の中の彼女が、少し首を傾げて聞いてきた。その顔だけ写し取れば、普通の疑問を問うているようだ。青天の霹靂のことだろうに、ほんの少しの狼狽も、恐怖も、驚愕の色さえ見せない。

リーレはどこまでもリーレだった。

こんな時でさえ。

ただ分からないから聞いたとでもいうようなその表情に、ルクはちょっとだけ嬉しくて、そしてとても腹立たしい。穏やかな声色が、何かの色で染まるのを聞いてみたかった。レイじゃなく、自分がもたらすなにかで。それがどんな感情でも。でもこちらを見向きもしないからこそリーレだとも思う。そういう星だから、ルクは逃げられないのだ。これはすごく難しい感情の問題だ。ルク以外には理解できなくて、ルク自身も答えを知らない。でも、ルクはこの少女が愛しいことだけは知っているから、けして痛みを感じないようにやさしくやさしく、そっと彼女の髪を撫でて言った。

「どうしてかな」

答えは、とても、とても、難しい。

どうしてルクがリーレを殺そうとするのかなんて。

色々なことがぐちゃぐちゃに混ざりすぎていて、感情と理由と意味と抑制が、複雑に絡まりすぎていてルクにはもう解けない。けれどその混沌とした想いを認識出来るのもルクだけなんだろう。

だからルクは、思い出す。完璧ではなくてもリーレが死ぬ前にリーレにちゃんと答えを返すために。探し出すために。

一番最初、彼女をみつけた日の記憶。

きっと彼女は覚えてなんてないんだろうけど。


「10年前の、12月24日の夜のことを覚えている?」


優艶さでもって笑みと一緒に響いてきたその言葉に、ゆっくりと、リーレは瞬きをした。

蝶の羽音みたいな。




***


その夜は月がとても大きかったことを覚えている。冷たい白銀のを纏う満月だった。綺麗で、でも手を伸ばすことを躊躇ってしまうほどの。身を切るような寒い風が窓から吹き込んできていた。その部屋には、およそ家具と呼べるものは存在していなかった。置かれていたのはただ机と、石でできた硬いベッド。石壁と石床で冬の冷気が存分に伝わるルクの部屋には、暖房器具も絨毯もなかったから冬は1枚しかない毛布にくるまって寒さに耐えていた。

ルクはけれどこの扱いに傷ついても苦しんでもおらず、憤ったりもしなかった。なぜならばそれはルクにとって、“あたりまえ”のことであったからだ。

ルクは暗殺一家アードリー家の4番目の子供として生まれた。2人の姉と、1人の兄と、そして1人の弟がいた。他にあの屋敷に住んでいたルクと血の繋がった人間は母と、父と、祖母と、祖父。彼らはとても優秀だった。暗殺一家のアードリー家の者として恥じない程の実力を兼ね揃えていた。まさに殺しの天才達といってよかった。血の繋がったその家の人々全員が、その才能を持っていた。そしてルクは違った。ルクは、殺人において天才ではなかった。兄弟のような才能を、両親のような実力を、祖父母のような適格性を持たなかった。ルクは暗殺に対して平凡な結果しか出せない、普通の子供だった。もちろん幼い頃から訓練を受けてきているのだから、一般人よりは余程容易に殺せるだろう。でもそんなものは、当然のことだ。長い間やっていることが他の人間より優れているのはあたりまえだ。同程度の資質しかないなら、1度もピアノに触れたことのない人間より、10年間ピアノを弾いてきた人間のほうが圧倒的に上手い。それと同じことだ。けれどルクに求められていたのは、そんなものではなかった。長期的に習慣的に行うことで獲得出来る技量などではなかった。その程度・・・・なら、必要もされていない。だって、彼ら彼女らは天才なのだ。ルクが出来ないことを、その理由を微塵も理解出来ない程の英才なのだ。そして、ルクはアードリー家の4男だ。ルクがルク=アードリーであるならば、彼も殺人の才能を持っていなければいけなかった。何故ならばそれが、彼ら彼女らにとっては“あたりまえのこと”であるからだ。だからその“当然のこと”が出来ないルクは、家族と呼ばれなかった。実の子供として扱われなかった。血の繋がった兄弟のように遊ぶことはなかったし、孫のように可愛がられもしなかった。ルクはただその家の落ちこぼれだった。石でできた冷たく狭い1室に押し込まれ、誰かに愛を注がれるどころかその感情さえ知らないまま育った。殺人と犯罪に必要な技能と知識、それからどうしてお前はもっと上手く出来ないのという侮蔑と憐れみの視線だけが与えられ、他には何も貰えなかった。誕生日のケーキもたくさんの玩具オモチャも。ほんの少しのクッキーすら。他の兄弟には当然のように与えられるものすべてが、ルクの手元には訪れなかった。それでもルクは、その扱いを不当だと思っていなかった。それがあたりまえであったから。才能のないルクはその家ではあまりに価値がないことが、ルクの信じる純然たる事実だった。兄弟達に与えられるものはすべて、才能をもってこの家に尽くしたことへのご褒美なのだ。正当な対価なのだ。天才ではないがゆえにこの家に貢献できないどころか恥にさえなりかねないルクに、それらが与えられるはずもない。疑うことなく、ただまっすぐにルクはそう思っていた。確信していた。だから1度も、ルクは誰かを恨んだことはない。

その日は聖夜の前夜祭なのだと、昼食を運んできた使用人が言っていた。ルク以外の家族は、ホームパーティをするのだと。どうでもよかった。そんなものにルクは興味はなかったし、そのパーティーに出席するための資格をルクは持ち合わせていなかった。だからすぐにどうでもいいことのように聞き流した。関係ない。今日がルク以外のすべてにとって、どれほど特別な日になろうとも、ルクにとっては数多のなんでもない日とおんなじだ。ルクには特別な日などはない。惰性のように繰り返しの1日を積み重ねていくのが自分の人生なのだと、ルクはもう知っていた。あるいは、そういうふうに諦観していた。

だから、まさかその日がルクにとって最も特別な日になろうとは思いとしていなかった。12月24日。聖夜の前日と呼ばれるその日が、ルクの人生において聖夜と同等の意味をもつ夜になるなんて。その時まではちっとも、予感さえしていなかったのだ。


ルクの人生を掻き回したたった一夜は、満月がやけに大きくて、冷たくて、そして美しかった。カーテンも窓硝子さえない、鉄の柵が挟まれているだけの窓の、すぐ真ん前にあると錯覚してしまいそうになるほど、その満月は存在感を放っていた。ルクは入ってくる夜風の寒さに震えながら、夜空を窓から眺めていた。聖夜前夜イヴというには清らかさはなく、それでも静かなる恐ろしさがはみだしていた夜だった。怪物が、すぐそばで息を殺してこちらを見つめているような。

その異変に気付いたのは、悲鳴や異常な物音が聞こえたからではなかった。むしろ逆だった。今まで遠くから聞こえていたパーティーの賑やかさがそっと消えたから、ルクは気付いたのだ。ルクを抜いた家族の団欒の音が、不気味なくらいに突然、夜の静寂に覆い隠されていた。屋敷の中の生き物の気配が、ひそやかに、でも確実になくなっていた。気づかれないくらい一瞬で。

ルクが気配の変化に気づけたのは、暗殺の訓練のおかげだろう。

何が起こっているの確認しようと、ルクは部屋を出てパーティーが行われているはずの大広間に向かった。人気のない廊下を気配を殺して進み、大広間に辿り着くと僅かに開いている扉からそっと様子を伺った。

(・・・!)

声を漏らさなかっただけでも褒めてもらいたかった。そこは、きらびやかなパーティー会場ではなく、血濡れの惨劇の場に早変わりしていた。みんなみんな死んでいた。祖父母も、両親も、兄弟も、使用人達も。華やかなドレスやタキシードを深紅の液体で汚して、殺人の天才達が横たわっていた。なにかの悪夢に似ていた。無造作に大広間に並べられた死、死、死、死、死。人間の身体からはこれほどまでに血がでるのかと思うほど部屋を満たす緋い液体。次いで、匂い立つほどの生臭さ。この匂いを、ルクは知っていた。それが何から発されるのかも。何度も嗅いだ匂いだ。

───────けれど、その光景はルクが今までに見てきたどんな光景よりも異様だった。異常で、どうしようもなく恐ろしい景色だった。だって、今そこに倒れているのは、腹を裂かれて首を落とされて手首が千切られている彼ら彼女らは、アードリー家の化け物達なのだ。誰よりも殺人が得意な人間が、多く生産される家。使用人達だって殺しの技は一流のはずなのだ。この家に、人を呼吸のように殺せない人間なんて存在しない。一番の落ちこぼれであるルクを含めてでさえ。

それなのに、そんな家の人達を悲鳴をあげる隙さえ与えずに殺すなんて、冗談じゃないほど気味が悪い。

でもその悍ましい空間を、もっと異質なものへと変化させていたのは。

血の海が広がる大広間でポツンと佇む、見ず知らずの美しい少女だった。

柔らかなクリーミーな金髪と真っ白なドレスの彩色は、窓から差し込むか細い月光に照らされ、とても幻想的で淋しそうな淡麗さを発していた。

束の間、ルクは見惚れていた。

ぱしゃり。

ルクの気配に気づいたのか、ふと足元の血液で水音をたてて、少女が此方の方を振り向いた。ルクと年はそう変わらない、同い年くらいの少女だった。白く滑らかな肌、まあるい白金色の瞳。暗闇の中の猫のような表情をした少女の頬には、べったりと、毒林檎のように赤い血液が付着していた。そしてルクと視線があったその少女は、ふにゃりと、ミルクのように微笑んだ。

(─────────────────あ、)

あの窓から見えた冷たく偉大な満月が何を表していたのか、その星のような眼窩を見た瞬間、ルクはようやく悟った。人の死が埋め尽くされたその光景は目を覆いたくなるほど惨く、恐ろしげで。だけれども心がかつてないほど揺さぶられた。

ルクの人生において最も、焼き付いた景色で、感傷だった。



あの日、あの夜、あの瞬間。

あの赤と、あの白が。

金のひかり輝く、月のような、星のようなあの虹彩が。




ルクには、せかいでいちばん、きれいにみえた。




それから少女は、ルクから視線を反らすとふいっと窓から出ていった。物音ひとつたてず。あきらかにルクに気づいていたのに、殺そうとはしなかった。自分の家族が殺されているというのに惚けているルクに呆れたか、気紛れか。それとも取るに足りない子供だと思われたのか。まあ最も、ルクの父母兄弟らを殺せるような人間をルクが殺せる筈もないから、その判断に間違いはない。

けれどルクはそんなことはどうでもよかった。

あの少女の微笑をみた途端、心臓がドクドクして、頭がクラクラした。心が叩き壊されて、思考が刻まれて、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられたようだった。麻薬のように、毒のように、あまいチョコレートのように。恐ろしさと、恍惚とした感覚が肌に染み付いて消えなかった。あの笑顔が、壊れた映写機のように、何回も何回も何回も頭のなかで映し出される。そのたびに死にたくなって、あの笑みを、瞳を、髪を、肌を。あの少女の全部がもう一度見たくて、それだけで世界すべてが満たされた。それは今に至るまで感じたことのない衝動だった。脳髄が喰い潰されるような激情。いっそ狂いたかった。いや、もう狂っていたのかもしれない。

あぁ、と声がついてでる。ルクはそのとき、みつけたと思った。自分の世界を。そして、ルクにとっての信仰を、あの光景にしようと決めた。そのときから、名前も知らない殺人鬼の少女が、ルクのすべてになった。たとえこの先、一生会うことが叶わなくても構わなかった。あの血塗られた惨劇のなか、百合のように佇んでいた少女の微笑みを、心に、脳に、心臓に刻みつけて死ぬまで生きていく。そうしようと決めた。

残酷で醜悪な虐殺劇の夜が、ルクにとってはただひとつの聖夜だった。

ルクの、生涯唯一の特別な日になった。

12月24日。

その日、ルクはとても綺麗で残虐な、天使みたいな化物に出会った。

忘れられない、宝物のような一夜の記憶。


***


リーレはルクに答える。あの夜とは正反対に、自らの血で濡れながら。それでも、どこか楽しそうに。

「おもいだしたよ、きみだったの、あの子」

「うん」

「きみは、ぼくに復讐したかったの?」

全然気づかなかったなぁなんて言って、リーレは、ルクにそう尋ねてみせる。

「違う」

「ちがうの?」

「・・・どうだろう、わからない。たぶん、違うと思う。ボクは、リーレを恨んだことなんてない」

あの人達の死を悲しんだことも、悔やんだこともないルクが、どうして彼女に復讐できるだろう。違うのだ。ルクがリーレを刺したのは、そんな理由ではなくて。ただ、きれいで。花嫁のヴェールを纏ったリーレがこの世のものとは思えないほど綺麗で。それで、思わず、ナイフで、刺した?

むちゃくちゃだ。復讐が理由の方がまだ納得できる。ルクはたぶん混乱していて。花嫁姿の彼女を見たときから混迷していて。そのまま、本能のように、ナイフをリーレに刺してしまったのだ。だから、どうしてリーレを殺そうとしたのか、その理由がルクにはよく分からない。自分の行動なのに。答えをみつけたくて過去を遡ってみたけれど、余計分からなくなってしまった。ルクが彼女に向けているのが、憎しみなのか、畏れなのか、憧憬なのか、恋慕なのか。

混ざって、ぐちゃぐちゃで、わからない。

名前がつけられない。

ああでも、あの夜の3年後。レイ=アズワルトに拾われて、彼女に再会した日から、こうなることは知っていた気がする。いつか、こうなるだろうと思っていた。嫋やかな彼女の躰に、冷たく鋭い刃を入れて。赤い赤いリーレの血で彼女自身が浸される光景をずっとずっとずっと怖れながら夢想していた。もしかしたらこれは、待ち望んだ結果なのかもしれない。

ルクは切実な声で伝える。

「・・・わからない、わからないよ、リーレ。ごめん、わからないんだ。────────ただ、リーレが、きれいで。とても、きれいで。・・・美しくて。それだけなんだ。本当にそれだけなんだよ」

ばかみたいだと思った。そんなのが理由だなんて、答えだなんて、ふざけてる。それなのに。それなのに、ルクの碧色の瞳からは、涙が零れて零れて止まらなかった。ポロポロ、ポロポロと。いくつもの透明な雫が、リーレの胸元に落ちて溶けて消えていく。リーレにとってその涙は、哀しくて、愚かしくて、それでも何より誠実な答えだった。だからリーレは、そっといつもより重い片手をあげてルクの頬に添えた。優しく撫でながら、教えてあげた。

「・・・あぁ、わかった。どうしてきみがナイフでぼくを刺したのか。いま、わかったよ。────────ねえきみは、ぼくにくちづけたかったんでしょう?」

殺人の動機としては、あまりにも検討違いのその言葉に、しかしルクはすとんと納得が落ちてきたように感じた。それが一番、ふさわしい理由に思えた。ルクの感情に、似合っている答えだった。答えをくれた無邪気な声が、ルクの心を肯定した。名前も知らない殺人鬼の少女を、信仰しようとしてきたルクの心を。

「・・・そう」

さらりとやわらかな金髪に手櫛を入れる。鳥羽のような手触りだった。

「ボクは、リーレにくちづけたくて、殺そうとしたんだ」

今初めて気づいたような、自分に確認するようなルクの口調に、リーレは、ゆっくりと頷く。どこか嬉しそうに、きっといつもどおりに。

「きみは、ぼくをあいしていたんだね」

その、言葉に。

ルクのすべてが説明された。

ルクの行動の意義と、理由と、意味の全部が、たぶんリーレが言った一文だったのだ。

そのことに、たったいま気づいた。

きっとそうなのだろうと思った。

今も目の前にある微笑が、星の欠片のような瞳が、月の光輪のような髪が、無邪気で高く甘い声が、そして無垢で冷酷な性質が。リーレをかたちづくるすべてがルクにとっては絶対的に美しくて、届かないほど眩しかった。いつだって、再会したときから、いやそれよりもっと前から、ルクの精神は危うく揺れていたのだ。グラグラ、グラグラと。絶妙なバランスでもって。だから今日、あまりに美しいリーレをみて、思わず手を出してしまったんだ。どうして花嫁のドレスは真っ白なのだろう。純白でさえなければ、耐えられたかもしれないのに。教会の十字架が向こうに見えて、仄かな日光に包まれて、白いヴェール越しにあの微笑をくらったら、もう無理だった。死にたくなって、殺したくなった。もうこれ以上綺麗にならないでくれと願った。この美しさを永遠に眺めていたいと祈った。この笑顔で終わってほしかった。『レイ様』のための微笑みも涙も行動も、これより先で見たくはなかった。天使の姿をした死神の冷酷さを持つこの化け物を、他の何より欲しいと思った。

だから、ルクはリーレをナイフで刺したのだ。

結局は、そう。ルクがリーレを殺そうとした理由なんて、リーレの言葉ひとつで足りるのだろう。

ルクはリーレに、くちづけたかったのだ。


リーレの全部が、ルクは欲しかった。けれどリーレがルクごときの身勝手な願望に応えてくれる筈もなくて、だからルクは叶えるための最終手段をとった。もうリーレが何処にもいかにいように、此処で終わってくれるように。

あぁ血が、血が。赤い液体が流れていく。純白のドレスを深紅に染めて、彼女の命が零れていく。どんどん躰が冷たくなっていく。

ルクはその事実に、泣いて、笑った。

とても嬉しくて、とても哀しかった。

もう、この腕からリーレが離れないことが幸せで。

もう、笑った彼女も泣いた彼女も見れないことがなによりも悲劇で。

だからルクは、涙を流しながら微笑んだ。

慟哭しながら歓喜した。

そんなルクを見てはにかみながら、リーレは言う。死ぬ寸前とは思えない表情と声音。

「ばかだね、きみは」

やさしくルクを哀れんで、見下している声だった。よしよしと、まるで至らないペットにするみたいに、ルクの頭を撫でる。

しょうがないなあというふうに。

「そんなことをしなくたって、ぼくはずっと、きみの隣にいたのに」

その言葉を聞いて、はっ、とルクは鼻で笑う。・・・笑おうとしたのに、なんだか空気が漏れて、息を吐き出しただけみたいになってしまった。でもリーレは、ルクの頬に両手を添えて、あの夜みたいにふにゃりと笑う。そうすることが正解みたいに。

「あいしてるよ、リーレ」

その笑みを見て、ポロポロと涙を流しながらルクが言う。君はどうなのと、そのまなこで問いかける。

「ぼくも、きみが、大好きだよ、ルク」

息も絶え絶えになりながらも、いつもの声音で、いつもの笑顔で。

けれど、少しだけ淋しそうな微笑みで。

そんなふうに答えたリーレに、ルクは泣き顔のように笑った。

笑顔のように、泣いたのかもしれない。

リーレはそんなルクを、やっぱりばかだなぁというように笑みを浮かべ、眠るように瞼を閉ざした。そしてもう二度と目を醒まさない。

ルクはリーレをぎゅっと抱きしめて、心臓の音が、呼吸音が聞こえなくなるまでそうしていた。このまま百年こうしていてもいいと思った。くっついて、肉が溶け合い骨が重なり、離れなくなってしまえばいい。

けれどもルクは暫くしてゆっくりと顔をあげ、リーレをみつめた。ただ眠っているだけに見える穏やかな死に顔を。

そしてまた、眼から雫を落としてしまう。飽きもせずに。拭ってくれる少女は、もういない。慰めるように頭を撫でてくれた暖かくて柔かなてのひらも。

(ああやっぱり、君は変わらなかった)

リーレは、最期までリーレだった。どんな状況も、どんな狂気も、彼女を変えることはできなかった。ルクには最期まで手が届かなかった。いつものように微笑んで死んでいった。リーレのままで消えてしまった。そのことがルクには死ぬほど悔しくて、とても嬉しくて堪らなかった。何故ならこの感情は信仰で、恋慕だから。ルクはリーレのなにかを自分のために変えたくて、けれどひとつも変わってほしくなくて。心の底から手にいれたいのに、指先すら触れられない存在であってほしかった。遠い空で手を伸ばさずにはいられないほどきらきらと輝く、一等星であってほしかった。ルクにとって、リーレとはそういうものだった。

ずっとずっとずっと前。

10年前のあの夜から、リーレ=フェリアという少女は、ルク=アードリーという少年にとって、かみさまのかたちをしていた。せかいでいちばん残酷で、せかいでいちばん美しい、人殺しの化け物みたいなこの少女を、ルクは心から愛していた。

ルクは羽毛をそっとどかすように白いヴェールをめくった。

もう息をしていないその少女の瞼に、やさしくやさしく、小鳥に詩を囁くような感触でもってくちづけた。そして涙をぬぐって、微笑みながら、もう一度、同じ真実をルクは告げた。

聖なる契りの誓約のように。

結局たったの一度も、愛してるとは言ってくれなかった少女に向けて。



「あいしているよ」


病めるときも、健やかなるときも。

悲しみのときも、喜びのときも。

貧しいときも、富めるときも。

これまでも、これからも。

生きていても、死んでいても。

ずっとずっと、あいしていると誓える。


それは、ルクにとって、呼吸みたいにあたりまえのことだから。

星のように、月のように、なくせないものだから。

命と同等に、はなせないものだから。






そして彼は彼女の唇にくちづけを落として、ようやくほっとしたように微笑わらった。





何処か遠くで、教会の鐘がなった気がした。

たぶん誰かの弔いで、祝福だったのだろう。







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Blood marriage 閏月かむり @uruuduki

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