冬 忠犬

 あの気取ったような紅の月を見なくなってから、どれほどの時がたったのだろうか。

 一日の大部分を暗闇が支配するようになってから、長い時が経過している。もはや凍った大地にざわめくものはいなくなり、透き通った静寂がどこまでも行きわたる。分別なく喚き散らしていた虫けらどもの多くが野垂れ死に、わずかに生き残ったものが朽ちた土の中で息を潜めていた。青白い氷の礫が音もなく落ちてくる。その冷えた雫は生けるものの内部へと伝播し、躍動しようと企む愚かな魂を破壊する。無秩序に葉を茂らせ、あれほど隆盛を誇っていた樹木の類も、すでにその身汁を枯らし、寒空に骨格だけのみすぼらしい体を晒している。この虚ろな空にそっと耳を澄ませば、抑圧されているものたちの嗚咽が聞こえてくる。その苦しげな響きは、とかく乱れがちな私の鼓動を平坦で滑らかにするのだ。 

 大地は汚わいにまみれ、薄汚い妖土と成り果ててしまった。淫靡に燃える陽光から放たれる黄色の鏃が地面を突き刺すと、いたる所から瘴気が噴き出した。充満した毒の中で弱ったものから死んでゆき、頑健なものも病におかされ苦しみながら徐々に息絶えた。すると死肉にたかる下等なものたちが、忙しく地を這いずりながら嬉々として腐った肉に惑溺した。そいつらは浅ましく腹立たしい存在であるが、大勢であるだけに迂闊に手は出せないのだ。

 その凶悪な牙で矜持を誇っていたかつての猛者どもは、ふらふらと力なく徘徊しているだけだった。打ちのめされたその姿は、哀れを通りこして不憫さえおぼえる。たしかに狩りをするには獲物が減ってしまった。草をはむものたちのほとんどが痩せ細り、生きながら腐っていく病に罹っていた。脳を毒素に侵され発狂したものの中には、逆に肉食獣に襲いかかってその肉を貪ったり、どうしたことか自らの身体を絶命するまで喰い千切るものもいた。そんな異様な姿を見るたびに、私は敗北ともいえる気持ちに苛まわれた。狂った秩序に支配された宿命に抗議するが、だれに訴えればいいのかわからす、ただ現状を生きるだけだ。だから、ほとんどが静まりかえるこの寂寥の時が、たまらなく心地よい。

 穢れきったこの大地に、私は独りで生きているわけではない。かといって醜く変容した虫けらや、痘痕面の獣と一緒にざわついているわけではなった。共に歩む者がいるのだ。私とは姿形が異なるが、お互いが違う種であることは困難の理由にならない。話し合うことができなくても、それは私たちを隔てる障害にはならない。暗闇で目を合わせるだけで、形なきその言葉を理解することができた。じっとりと濡れた吐息が髭を刺激し、その生臭さに私の牙は目覚める。野獣としての宿命を強く自覚することができ、そのことが私の存在に意味を与えてくれるのだ。

 主人がいない間、私は待ち続ける。なにもかもが凍りついた小気味よい平原で、再会にむけた時をもてあそぶ。あの骨の館で、主人が寵愛してやまない道具に身体をこすり付け、容赦のない活躍を想像して眠りにつくのだ。それらは肉を切り裂き、骨を叩き割ることに特化した凶器だ。主人の尽きることのない創造力で、日々鍛錬され精鋭となった。実際、館の中は血の香りが充満してむせ返るほどだ。四方の壁には数多くの骨が飾られている。小さく華奢なものがほとんどだ。主人は、大人を狩ることは滅多にしなかった。幼いものたちを狙うのは、無垢な彼らがこの穢れた大地に否応なく染まり、卑屈に生きていくのが許せないからだ。

 おお、主人が帰ってきた。凍てついた地を、ゆっくりと踏みしめる音が聞こえる。白い大地の向こうに確固とした黒点が現れ、徐々に臨場感を増しながら迫ってくる。近づく禍々しい気配に、氷の地がより固く引き締まるのがわかる。静寂の純度が増し、空気までもが緊張を強いられていた。この魔王のような存在感がたまらなく頼もしく、仕える私は限りない安堵感に包まれるのだ。

 主人は獲物を引き連れていた。太くて丈夫な鎖に繋がれているのは、主人と同じように二本足で歩く種族だ。どれもが幼いものばかりで、どれもが痛みに顔を歪めながら、恐怖におびえた目線を地に落としていた。赤茶けた鎖は、幼子たちの首の皮を突き通した金具に連結している。鎖が少し揺れただけで、薄くあどけない生皮が引き千切られるばかりに拡張する。首からにじみ出た血が白き大地を点々と濡らした。それらは、見ようによっては涙の滴のようでもあった。このものたちは、いますぐ緊縛から解放され仲間のもとへ帰ることを心から願っているだろう。だが桎梏はけして外れないし、主人が自由を与えるはずもない。獲物は獲物として、己の系譜と宿命を呪うしかないのだ。

 真っ赤な眼と八方に裂けた口元が笑みを浮かべている。私は主人の前で身を伏せ、低く唸って再会の喜びをあらわした。久しぶりに嗅ぐ香りに興奮し、まとわりつく瘴気の残り香もなぜか心地よかった。ただし獲物たちの小便臭さが邪魔をして、せっかくの心はずむ瞬間に精神を集中しきれないが、まあいいだろう。おまえたちはきつく縛られたまま、あの館へと落ちてゆく。そこで底なしの痛みに絶叫し、絶え間ない出血に絶望することとなる。命尽きても忘れることのできぬ灼熱の煉獄に、純真な魂も魔に染まることだろう。肉が腐り哀れな骨だけとなっても、永遠に解き放たれることはないのだ。

 おお、聞こえる、聞こえてくる。あの幼子たちの叫びが、この胸を貫き通す。辛苦に満ちた金切り声が凍った大地を震動させ、遠い昔に跋扈した赤黒い魂を呼び起こしている。狩人と獲物が対等に向かい合っていたあの時代を思い起こして、饗宴が催されているのだ。流される血に郷愁をおぼえ、抉られる肉に冷えた地上と熱い地の底が共鳴している。いままさに、この世を猖獗の極みへと変えてしまったものたちへの怒りが炸裂している。主人が為すことへの雷同と賞賛は尽きることがない。これは、けして無分別で野蛮な行為などではない。永年の秩序を乱したものたちへの当然の報いであり、そして浄化でもあるのだ。

 主人の館から断片が撒き散らされている。よく磨かれた道具で少しずつ蹂躙された、あの幼子たちだ。いびつに腫れあがった瘤だらけの手で不器用に皮を剥がされ、先端がいやらしく曲がった細針で肉をこそげ落とされている。主人の行為がますます熱してくると、獲物たちはずるく振舞い、降参するかのような沈黙を演じる。だが主人が欺かれることはない。逆に断末魔の悲鳴が弱々しくなると、ひどくしょっぱい水をぶっかける。その度にしぼり出される野太い咆哮に、けな気な年恰好に相応しくない胆力を見出すことができる。

 それにしても、こんなに細かく粉砕された幼子たちを親たちに見せてやれないのは、非常に残念なことだ。変わり果てた自らの忘れ形見に逢わせてやりたい。あの金切り声を聞かせてやりたい。そうやってはじめて自分たちの犯した罪過を思い知ることができるのだ。主人が幼子たちを苦しみのうちに引き裂くのは、破滅を呼ぶ戦いでこの地を汚したものたちを罰するためでもある。鎮魂は、穢れなき血と肉でこそ為されなければならない。

 白き清澄な大地に赤や黒の模様が生々しく点在している。それらはまだ生温かさが残る、やわらかな破片だ。私はそこに全身を擦りつける。このかすかに火照った感触に撫でられたまま、身体の芯まで冷えてゆく時は恍惚ともいえる。我知らず遠吠えしたかとおもうと、仔犬のように喉をぐうぐうと鳴らしてしまう。

 大方の処理を終えた主人は、館の中から私を見つめている。裂けた口からデキモノだらけの爛れた舌が垂れさがり、割れた唇をしきりに舐め回していた。熱く生臭い視線が、自らの心の充実を私に投影している。その真っ赤な眼光に見守られると、思わず甘ったるい気持ちになってしまう。なんだか照れくさくて、私はその恥じらいを昇華させようと、傍らの肉を咥えて投げつけてやる。主人は微笑して小さく頷くと、残っているものを片付けるために、再び館の中へ入っていくのだ。

 夜の空に煌めく星たちに感謝しなければならない。私は星たちが輝く夜に主人と出会ったのだった。薄汚れた体毛を舐めながら、己の惨めさを痛感していた頃だ。その当時、主人は秩序を乱したものたちに鉄槌をくだしていた。たった一人で立ち向かい、無謀ともいえる戦いにその身を捧げていた。相当な反撃を受けて、死に瀕する傷を負ったことも何度かあった。だが、その真紅の意志が挫けることはなかった。相手は同じ二本足の種族だった。主人は、彼らの悪行の果てに産み落とされたとびきりの異形なのだ。

 主人の戦いは意味深いものだ。あの酸鼻を極める行為は、この大地を貶めた罪をやつらに理解させるための手段だ。戯れなどではなく、それどころか常に強靭な精神力が要求される。その厳しい生き様を目のあたりにして、私は心をうたれた。妥協も容赦もない行為はとても美しかった。無慈悲であるが故の純粋な霊魂を感じた。

 事実、あの種族はめっきりと数を減らし、いまでは刃向うことすら諦めて、主人の出現にただ怯えるだけとなった。最後の集団もやがて死に絶えるであろう。あとは主人と私で、この大地をあるべき姿に再構築する。我らに朋輩など必要ない。主人は私にとって唯一であり、主人にとって私は最初で最後の家族なのだ。

 館の黒壁から搾りたての霊気があふれ出てきた。死んだ幼子たちが、号泣しながら自分たちが収まるべき場所を探していた。しかし、そのものたちが落ちてゆくはずの大地は冷たくて硬い。むき出しにされた無垢な魂には、さぞ辛いことだろう。

 しばらくして主人は館を出ていった。再び狩りへと出かけたのだ。帰ってくる時には新たな獲物を引き連れてくるだろう。罪深き種族が破滅へと導かれるのは、なんと愉快なことか。私はただ待っているだけでいい。

 主人との再会を待ち望んで幾晩の夜を迎えただろうか。今宵の月はなぜか退屈だった。紅色とはいわないまでも、いつもなら苛立たしいくらいに輝いて、やせ細った顔をうらめしく傾げて泣いているのに、今はなにも表情がなかった。薄っぺらな流れ雲に身を隠して、なるべく目線を合わせないようにしている。

 そんなよそよそしい月の代わりに、星たちが眩いくらいに輝いていた。それらは細く交差する光を灯しているだけなのに、まるで内部から爆発したかのような力量で迫ってくる。たちどころに一つまた一つと増えていき、天空は見渡すかぎり清廉かつ重厚な輝きに満ち満ちていた。

 すると、どうしたことだろう。突然、星たちの輝きが私の心に深く突き刺さった。手脚がわなわなと震えて立てなくなり、口は半ばしか開かず自慢の牙を見せつけることもできなかった。経験したことのない不安がどっと湧きあがってきて、どうにも落ち着くことができない。私は冷えた大地に鼻をこすり付けて、予期せぬ胸騒ぎが過ぎ去るのを待つしかなかった。

 だが、遥か天空の煌めきは、さらに私の心の内側を熱く焦がそうとする。なんとも形容できぬ想いが、胸の奥をどうしようもなく揺さぶるのだ。たとえようもなく切ない気持ちに締めつけられて、とても息苦しい。心の奥底に投げ捨てた幼き放浪の記憶が、確かな感触をともなった光景として目蓋を焦がし始めた。

 飢えて野垂れ死ぬ寸前に恵んでもらった食い物の香りが、鼻先を執拗にくすぐる。年老いた手から渡された情けで命を繋いだ日々だ。深い皺が刻まれたその手はいつも油臭かったが、なにかと気遣ってくれる優しい感触に心和んだものだ。イタズラ好きのあの子たちも、自分たちの食い物を分けてくれた。大人に叱咤されると、隠れてそっと食べさせてくれたのだった。二本足の種族の中には、深い情緒に包まれた集団もいた。汚らしい野良犬にも情けをかけてくれて、だからこそ私は生き残ることできた。

 古き記憶と情念が激流のごとく押し寄せてきて、むき出しになった精神を押しつぶそうとする。なんということだ。私は大地に全身を押しつけ心の動揺を冷まそうとしたが、うまくいかなかった。心焦がす懐かしさが次から次へと湧きあがり、その甘切なさに悶絶する。おもえば、あの集団に仕えていた日々は平穏で優しい気持ちになれた。あの頃、私はよき揺りかごの中にいたのだ。

 ああ、こんな気持ちに惑溺することは許されない。過去への甘えは孤高な戦いを続けている主人への裏切りであり、卑劣な背信行為だ。星たちが目に痛いくらい煌めいた夜、主人があのものたちを引き裂いてから、私は野獣になる決心をした。安穏な生き方をすることは望まない。果てしなく傾斜した大地を独りでさ迷うよりは、悪鬼の配下となって牙を血で染める道を選んだのだ。

 ああ、星たちの輝きがなおも眩しい。私にはわかっているのだ。この大地に生まれてはいけない者が存在している。それは悪魔に魅入られた邪悪な生き物だ。大地は自らの病に気付き修正しようとしている。躍動する真っ当な生命を欲し、再生しようと決心した。天空の煌めきが、その決意に火をつけようとしている。

 私は命じられている。抗いきれないほど強く命じられている。異物を排除しなければならないとの焦りが強くなり、いてもたってもいられないほどだ。我が心に、とてつもなく大きな情動を感じる。もはや主人の行いを礼讃する気にはなれなかった。いや、それどころではない。吐き気を催すような嫌悪感と罪悪感に満たされていた。私は過ぎ去りし日の姿に戻ろうとしているのだ。

 どれほどの時が経ったのか。いつしか星たちは見えなくなり、純粋な暗黒が冷たい空によく映えていた。呪わしい気配に場の空気が張りつめていた。主人がやってくる。凍った地を踏みしめる足音が徐々に近づいてきた。いつものように幼いものたちを鎖に繋ぎ、八方に裂けた口から濁った大量の息を吐きだしていた。

 唐突に天空が輝きだした。私は、湧きあがる衝動をもはや抑えることができない。幼きものたちを、あの漆黒の館に入れてはならないのだ。わかっている。今宵の殺戮を受け入れるのは、鎖につながれた可哀そうな羊たちではない。そう、覚悟を決めなければならない。

 私は雄叫びをあげた。その響きは冷たく透明な空気の層をどこまでも貫き通し、ぐるりと周回して再び我が耳に達した。あまりの猛々しさに自らが震えあがるほどだった。館に入ろうとしていた主人が歩みを止めて私を見つめている。傍らで怯える瞳の群れが痛々しかった。私は走り、そして喉に喰らいついた。

 これほどまでに彼の血を熱く感じるとは思わなかった。致命的な攻撃を受けているのに、彼はまったく動じなかった。落ち着いていたという表現は正しくない。なんら抵抗することなく、されるにまかせているだけだ。まるでこの時がくるのを知っていたかのように、自分の最期を静かに受け入れている。

 間近で見る怪物の顔はひどく醜かった。鬱血した瞳を濡らしているのが涙だと悟ったとき、彼は大量の血を吐き出した。それは止めなく溢れ出ていた。彼が今まで殺戮してきたものたちの血よりも多いと思わせるほどだった。

 ざらざらした手が私の頭を撫でた。地獄犬の咆哮のように猛っていた鼓動が静かになっていく。生臭い息が、辺りの空気になじんで冷たくなっていた。血だらけの裂けた唇が、かすかに音をだしていた。彼の声を聞くのは初めてだった。それが私の名だと直感した刹那、怪物は逝った。

 最愛の者を殺してしまい、私は絶望するしかなかった。かの命に見合うなんらかの代わりを見つけなければならないが、星たちは闇空にへばり付いたまま、ただ無闇に輝いているだけで答えようとはしない。充足感も安らぎも得られないまま、私はかつて家族だった者の味を噛みしめ続けるしかなかった。

 黎明の予感が近づいてくるにつれて、星たちは一つまた一つと消えてゆく。私は独りになった。もはや孤独に生きてゆく意義を見出せない。大地に正しい花が咲く準備があるのなら、異物の一つである私も殉じなければならないだろう。

 私は牙を前脚に突き刺して、力いっぱい噛み千切った。なんと凄まじい苦痛なのだろう。ささくれた傷口に微風がかすっただけでも、背骨の髄に激痛の稲光が走る。後足を凌辱するのには、かなりの勢いを必要とした。二本目を食い千切り、関節の柔らかな脂を味わったとき、もう正気ではない私がいた。愛する者をなくした深い喪失感のみが己の行為を支えていた。狂気と断末魔の果てに四肢はなくなり、私は痛みと出血に悶絶する薄汚い芋虫と成り果てた。そして最後の星が灰色の空に消え入る刹那、その短く交差した光は問いかけた。それで終わりなのかと。

 私は大きくかぶりを振ると、すぐに我が腹を引き裂いた。肺腑を引きずりだす衝撃と痛みは次元を超えているが、もはや躊躇する気力もなかった。絶命するには、まだしばしの猶予がある。私は冷たい大地に散らばった柔らかなそれらを咥えて、天空に差しだした。

 彼に代わる者たちにこの血と肉を捧げよう。忠実なる僕の証として。


                                  おわり

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終末の四季 北見崇史 @dvdloto

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