秋 森の機関車

「おい権造女、ちょっとは遠慮しろよ。食い物はこれっぽっちしかないんだから」

 ゴンゾウオンナという名前が、通称なのか本名なのかは誰も知らない。その奇妙な名が体をあらわすように、彼女の胸や尻は豊満ではち切れるばかりの勢いだが、顔や手足は筋肉質であり、肉体を酷使する男の厳めしさがあった。奪ったイモをガツガツ食う顔は、野性の獣のようだった。 

「うるせえ、おまえみたいな豚に言われたくねえや。食い物がないご時勢に、どうやってそこまでなってるんだよ」

 脱走した囚人の中で唯一の女に豚と指摘されたのは、太っちょのコウゾウだ。終身刑務所では死なない程度の食事しか与えられていないのに、彼だけが肥満体だった。

「こいつはただの豚じゃない、水豚なんだよ。水だけでぶくぶく太っていくんだ」

 フンジにそういわれたコウゾウは、「はは」と自嘲気味に笑うだけで、とくに言い返す様子はなかった。

「ところで、これからどこ行くんだ。そろそろムショの奴らが追いつくぜ。捕まれば生きたまま切り刻まれる拷問刑だ」

「それだけは、絶対にいやだね」

 常に心配しているのはツヨシだ。脱走した五人の中では一番気が弱く、身体も華奢だった。

 フンジは小馬鹿にするように微笑した。権造女はまだイモを食べ続け、コウゾウは目を離せないでいた。

「明日には森に入る。刑務所の猟兵はあそこまで追ってこないし、森の向こう側は政府の支配が及ばないという話だ」と話すのは、瞳の色が濃い青色をしている青目だ。

 青目は五人のリーダー的な存在だ。刑務所からの脱走を計画し、綿密な段取りをきめて実行した。彼が率いらなければ、すでに全員が捕えられていたことだろう。

「おいおい、森をぬけるったって、あそこはムショの特別部隊だって入らないんだぜ。足を踏み入れたら最後、生きて出られないって噂だ」

「フンジの言うとおりだよ。あそこは毒がひどくて人間は生きられないんだ」

 五人がいる場所から森までは、山を一つ越えなければならない。そこに森があるとは知られているが、森の中がどうなっているのか誰も詳しくはない。噂と想像が入り混じった憶測だけが、そこの実態を語っていた。

 森について確実にわかっていることは、そこは信じられないほど広大で、色とりどりの樹木にあふれているということだ。そして、知りうるかぎり唯一の森だ。そこ以外に樹木がないわけではないが、雨量が極端に減っているのと、汚染により土壌の劣化がすすんだために、大きな植物は疎らにしかない。森はもっとも汚染がひどい状態だが、土壌は湿潤で栄養分に富んでいる。溜まった毒が肥料になっているとの話もあるが、真偽のほどは定かではない。

「ツヨシ、聞いたことをこいつらに説明してやれよ」

 青目が促すと、ツヨシは話し始めた。

「森の中には鉄道が敷かれているんだ。小さな駅があって、そこにディーゼルの機関車がある。それで二晩走れば森をぬけられるんだ」

「どこからそんな話もってきたんだ」

「所長の部屋を掃除しているときに、所長と議員が話しているのを盗み聞きしたんだ」

「おまえは空気みたいなやつだから、気にもされなかったか」フンジがせせら笑う。

「それはウソじゃないの。だって森に入ったら生きて出られないし、タタリがあるって話だよ」権造女は、厳めしい顔をわざとらしく左右に振った。

「やだねえ、迷信深い女は。その鉄道はなあ、たぶん昔の軍隊が使ってた極秘の輸送経路かなんかだよ」

 コウゾウの意見に説得力はないが結末は決まっている。あとはリーダーが一押しするだけだ。

「ここに残って猟兵どもと一戦交えてカッコよく死ぬか、おとなしく捕まって見せしめに殺されるか」

 青目は四人を見回して次の反応を待っていた。彼らの向こうには粗末な小屋と、老夫婦の小さな二つの死体があった。年老いた夫婦は、わざかばかりのイモを奪われたくないために殴り殺されたのだった。

「それとも森をぬけて自由を手に入れるかってきかれりゃ、そりゃあ、よろこんで魔境へいくさ」

 フンジの言葉に皆が頷いた。青目が満足したような笑みを浮かべ、明日からの行程を話した。


 明朝早く、囚人たちは森を目指して出発した。だが森に到達するまでに、その前に立ちはだかる山を越えるのは相当な難義だった。岩と礫だらけの山道は容易に足をとられ、傾斜がきつくなるほどに遅々として進まなかった。もたもたしているうちに、追いついてきた猟兵が、麓から口径の大きな長距離銃で狙撃してきた。兵士は頂上付近までは追ってこなかったが、コウゾウは右手の親指を吹きとばされてしまった。

「いてえ、痛えよ。なんとかしてくれ、死にそうだ」

「指の一本くらいで死ぬかよ、大げさなやつだぜ」

「とりあえず今はこれしかできないよ。消毒薬があればいいのだけど」

 ツヨシが、シミだらけの汚いボロ布でコウゾウを手当てしていた。

「いい機会だから、からだの中の汁を出しちまえよ。少しは痩せるんじゃないかしら」権造女が憎まれ口をたたき、「るせえ、オヤジ女」とコウゾウが言い返した。

「おいお前たち、見ろよ」

 頂上にある大岩の上から、青目が皆を呼んだ。四人はリーダーのもとへ行き、全員で眼下の景色を見た。

「これが森か」

「どこもまで続いてるんだ」

「すごい色」

 遠大な森が広がっていた。それは赤や黄、青、紫、黄緑等、ありとあらゆる色だらけの不気味な光景だった。森の木々は、どこも隙間なく毒々しい色彩を放つ葉で覆われていた。山の頂上から俯瞰すると、森はデコボコとうねり、それはまるで地表にできた巨大な瘡蓋のようだった。本来ある森林のまっとうな姿を知らなくても、この色彩を目のあたりにすると、そこがいちじるしく狂っていると直感できた。どうにも気味が悪くて、五人の心の中は不安で曇った。

「まあとにかく、あの森さえぬければ自由だ」

 青目がそう呟いたあと、五人はゆっくりと下っていった。


 森の中はひんやりとしていた。乾いた秋の風が木々を揺らし、枝葉がぶつかって、かさかさと小気味よい音がしていた。しかし樹木は異常な極彩色のため、どこまで紅葉しているのか定かではない。地面には落ち葉や下草があるが、自然の創造物でないものが余程目立った。

 それは人間が排出し続けた廃棄物だった。重機や武器、兵器の残骸、その他の金属片や瓦礫、石油由来の化学製品、未処理の化学物質、日用雑貨や薬品類、有害廃棄物、放射性廃棄物などが土と混じり合い、ぬかるんだ土壌を形成していた。過ぎ去りし世代の有難くない置き土産だった。さらに地中から有毒なガスが立ちのぼり悪臭が漂っている。吸血小バエや毒ミミズなどの害虫が多かった。これには劣悪な施設で生き抜いてきた頑強な者たちでも、さすがに辟易していた。

「ひでえなあ、こりゃ。ムショの便所のほうがマシだぜ」

「ほんとゴミだらけじゃない。キモい虫もいっぱいだし、これじゃ変な噂もたつわね」

 厳めしい顔をさらに厳めしくした権造女は、足首を這い上がってくるミミズを引き千切っていた。

「ところで鉄道はどこにあるんだよ。早く機関車にのって医者のいるところに行きてえよ」

 先頭を歩いていた青目が立ち止まった。そして、コウゾウの不満にこたえるように前方を指さした。

「あそこだ」

 それほど苦労することなく駅が見つかった。むき出しのコンクリートで造られたプラットフォームが、線路の片側にあった。じつに簡素な駅だが、周辺はきれいに整えられていて、ゴミの類は目立たなかった。他に施設らしき建物は、わきにバラック小屋が一つあるだけだった。ホームから少し離れた線路の行き止まりに、真っ赤ディーゼル機関車と客車があった。

「うっほ、ほんとにあったよ」

 機関車は、五人が想像していたよりも大きくて頑丈そうだった。ただ客車はひどいありさまで、ほとんどの窓にはガラスがなく車体は錆びて穴だらけだった。

「まあ、客はしばらく乗ってないんだろうよ」

 値踏みするように、フンジは車体に拳をあてたり蹴ったりした。

「ところで、このオンボロは誰が運転するんだ」

 皆が発案者を見た。ツヨシは手を横に振って否のしぐさをし、青目の方へ目線を流した。

「それをいまから考えるんだ」当たり前のように青目が言った。

「まいったね、こりゃ」

 コウゾウはツヨシを睨みながら首を振った。フンジと権造女は、興味深そうに客車を触ったり蹴ったりしている。

 その時、あきらかに何かが動く気配がした。五人が一斉に緊張する。すると機関車から二つの影がとび出して、小屋のほうへ逃げていった。

「なんだっ」

「捕まえろ」

 フンジと権造女が、あとを追って小屋の中へ入った。しばし、がちゃがちゃと騒々しかった。ほどなくして四人の人間がでてきた。

「なんだ、まだガキじゃねえか」

 大男と大女に首根っこを掴まれているのは、年のころ十五、六の少年と彼より二つ三つ年下の少女だ。二人ともひどく痩せていて、うす汚れた作業着を着ていた。

「おまえたちは何者だ。親はいるのか」

 青目の問いに二人は無言で答えた。フンジが少年をぶん殴るが、より反抗的な態度になるだけで口を開かなかった。権造女が少女に拳を見せつけ、「おまえも容赦しないよ」と脅かした。

「やめて、やめて。お願いだから痛いことはしないで」

 少女は話した。二人は兄妹で、両親とともにこの森のこの駅で暮らしていた。母は最後の駅長で父は機関士だった。理由はいわないが両親はいなくなり、いまは二人だけでなんとか生きているということだった。

「それで親はどこに消えて、このゴミ溜めの中で、おまえたちは何食って生きてるんだ」

 青目の質問に二人は黙ったままだった。フンジが殴るまねをしても少年は頑なで、少女は泣き叫ぶだけだった。

「だめだこりゃ。まあどうでもいいがな」

 青目はどうでもいいとは考えていなかった。線路の表面が錆びていないのを見逃さなかったのだ。

「おまえら、コイツを動かせるのか」

 少年はうつむいたままだが、少女の方が意味ありげに顔をあげた。

「なんだ、運転できるのかい」権造女が威嚇気味に迫った。

「兄ちゃんは運転でき・・・」

「ばか、だまれ。余計なこと言うな」兄の叱咤に、妹はとっさに口をつぐんだ。

「どうやらできるようだな」

 ひどく頑健な牡蠣のように、少年は固まったままだった。

「なあ、協力してくれねえと妹の目玉をえぐるぜ」

 フンジが尻のポケットからナイフを取りだし、鋭利な先端を少女の瞳のすぐ前にちらつかせた。

「やめろ、わかったからやめてくれ」少年は、妹をかばうように頭を抱いた。

「どうやら動かせるようだな。なあに、この森の反対側まで乗っけてくれるだけでいいんだよ」フンジは余裕のある態度だった。

「動かすことはできるが、もう機関車と客車を合わせて二両しかない。これじゃあいつらを振りきれない。あんたら何もわかっちゃいないんだ」

「わかってるのは俺たちが自由になることだ。心配するな。もう猟兵は追ってこないんだ」

「さあ、すぐに出発だ」青目が少年の背中を蹴った。

 少年は小さくかぶりをふり、怯えきった妹の手をとった。そして胸ポケットから折りたたんだ帽子を取りだして頭にかぶった。

「汽車に乗るなんて、なんだか楽しみだねえ」権造女の厳めしい顔が若干ほころんでいた。


 少年が運転する長方形の機関車が、客車を一両引き連れて森の中へと走り出した。ディーゼル発動機の黒い排気が、地表に漂う腐臭を多少なりとも誤魔化していた。フンジとコウゾウ、ツヨシ、権造女は客車ではしゃいでいた。青目は運転室で兄妹を見張っている。

 機関車の運転室内で、少年はせわしなく動いていた。レバーを押し引きし計器類に目を配っているが、あきらかに落ち着かない様子だった。

「トルコンの調子が悪いんだ。パワーがあがらないから坂道では速度がでない」

「のんびり行けよ。俺たちはそんなに急いでいるわけじゃない」

 少女の頭を撫でながら、青目は余裕の態度だった。だが、少年の表情は焦りさえみせていた。

「だめだ、この速度じゃあいつらに追いつかれてしまう」

「猟兵どもはこの森に入ってこない。何度も言わせるなよ」

「猟兵なんかじゃない」

 遠くで汽笛が鳴っていた。煽り立てるように何度も何度も鳴り響き、しかも大きくなっている。徐々に近づいてくるようだ。

「なんだこの音。別の線路でもあるのか」

「ちくしょう、もうきたか」

 少年は、レバーを握った手に力をこめた。少女が兄のズボンをつかみ、兄ちゃん兄ちゃんと叫んでいた。

 窓から顔を出した青目は、目を凝らして音の主を探したが、極彩色の濃密な木々に遮られて見つけることができない。

「おい、機関士の兄ちゃん、バカみたいに鳴らすなよ。せっかくの旅気分が台無しだぜ」

 鳴り続く汽笛の音が気になって、フンジとツヨシ、コウゾウが運転室にやってきた。そこで汽笛を鳴らしてないことを知って、すぐに警戒する顔つきになった。

「追っ手でもきたのかよ」

「なんだかわからんが、別のがいるようだ」辺りを警戒しながら青目がいった。

「もうすぐ来る、すぐ来るぞ」

 線路は緩やかな登りが続いている。機関士が必死に操作するが、速度は上がらなかった。

 森が騒がしかった。木々が揺れてたくさんの葉が散らばっていた。同じ速さで何かがすぐ横を並走しているのだが、濃密な樹木に邪魔されてはっきりとした姿が見えない。

「きたあっ」少年が金切り声をあげた。

 突如として密生していた木々がまばらになり、ひらけた場所になった。彼らの線路の左側にもう一本線路があって、一両の汽車が走っていた。客車に発動機がついたありふれたタイプだ。

 だが、その様相は異様だった。砲撃でもされたかのように車体のいたるところがササクレたっていて、しかも真っ黒なのだ。

「なんだありゃあ」

 黒い汽車は、出会いに歓喜しているかのように汽笛を何度も鳴らした。その暗く錆びついた音色はどうしようもなく陰気で、運転席にいる者たちは、ある種の胸騒ぎをおぼえずにはいられなかった。

「あの線路は副線で、もう廃線になっている。こっちの本線が敷かれる前に使われていたんだ」

「廃線に、どうして汽車が走ってるんだ。それに様子が変だぞ」

「あれは外道車だ。外道たちが乗っていて、捕まったら殺されてしまう」少年の言葉は切迫感に満ちていた。

「兵隊くずれの盗賊なのか」

「おれがぶっ殺してやる」

 フンジがそういったとき、黒汽車が吸いつけられるように近づいてきた。

「本線と副線は交差し続けるんだ。この森をぬけるまで」

 黒汽車と機関車は、息がかかるほど接近していた。

 その全貌を目の当たりにして、男たちは声も出なかった。

 想像を超えた驚きは、時としてそれを正しく認識する邪魔をする。いま自分たちが遭遇している物体が何なのか、思いつくことができなかった。囚人たちは困難に直面していた。

 黒汽車の車体から人間の手が生えていた。いや手だけではない。足もあった。さらに肉が削げ落ちているアバラ部分、なんらかの内臓、まだ肉がついている人の頭部の骸骨があった。バラバラになった人体の各部分が車体にくっ付いて、それらが風圧と振動で蠢いているように見えた。どれもが著しく損傷し、きれいなものは皆無だった。

 肉の腐った臭いが、どっと吹きつけてきた。機関士は帽子で口元をおさえ、フンジとコウゾウはむせ返った。ツヨシは少しばかり吐いてしまった。

「なんなんだ、こりゃあ」

「あぶねえっ」フンジが叫んだ。

 両方の線路が一つになろうとしていた。黒汽車と機関車が限りなく接近し、誰もが衝突を覚悟した。しかし、お互いの車体がぶつかる寸前、滑り合うようにぎりぎりでかわした。そして二本の線路が交差したさいに、黒汽車が本線に移行し機関車の後ろについた。

 次の瞬間、もの凄い衝撃が起こった。背後に位置した黒汽車が衝突したのだ。脱線は免れたが、客車の後ろ部分は相当な損傷だった。

「後ろにいって見てこい」

 フンジがツヨシに怒鳴ったが、腰がぬけた意気地なしを待つことなく自分が走っていった。コウゾウや青目もすぐに続き、ツヨシも顔面蒼白になりながら追いかけていった。

 四人の男たちが行くと、客車の後ろの部分がなくなっていた。衝突で壊されたというよりも、巨大な歯に食いちぎられたと表現したほうが実情にあっていた。

ぽっかり開いた空間から車内に風が強く巻き込んでいて、鋼鉄の車輪と線路が叩きあう音が直接的に響いていた。向こうには、あの黒汽車がぴったりと速度を合わせて追いかけてきている。運転席がある前部は醜く潰れていた。真ん中に大穴があいていて、赤黒い底なしの灯りが洩れていた。まるで得体のしれない怪物が、真っ赤な口をあけて追いかけてきているようだった。

 客車に残っていた権造女の姿がないことに、男たちは気づいた。コウゾウが黒汽車の真ん中を指さしながら、何事かを喚いていた。

 彼女がいたのだ。権造女は、大穴の少し奥に倒れこんでいた。怪我をしているようだが、手足を動かしているのでまだ生きていた。衝突の衝撃により、向こうへ飛ばされてしまったようだ。

「なんだよ、あいつらは」

 その大穴に次々と人が現れた。見えるのは五、六人だが、大勢が車両の中にいる気配がしていた。頭部に頭巾のような白布をかぶり、腰にフンドシを巻いているだけの、ほぼ全裸に近い姿だ。皆痩せているが、スジばった筋肉が目立っている。身体の皮膚は青黒い痣や傷であふれていた。過酷な労働を強いられている印象だった。女とおぼしき乳房が少し膨らんだ者もいた。どの頭巾もフンドシも薄汚く、全身から陰鬱な邪気を発散させていた。

 倒れこんでいる権造女を、フンドシ頭巾たちがよってたかって押さえつけた。そして彼女の身体のいたるところをえぐり取りはじめた。

 鉤爪状に曲がったペンチで皮膚を剥ぎ取り、露出した骨を叩き割っていた。どれほどの痛みなのか、権造女は激しく叫びまくった。暴れようとするが、フンドシ頭巾らの桎梏は強固であり、あの怪力女が身動き一つできなかった。鋭い鋸状の逆さ刃がついたパイプレンチでもって、筋肉がよく発達した太ももを捻じり回した。短いが濃密な苦悶のあと、左足が瞬時に外された。身体中の肉を抉り取られ関節から脚をもがれても、権造女は生きていた。ひどく錆びついた鋸で頭部を斜めに切断されるまで、その頑強な身体は生き続けたのだ。

 得体のしれない集団に引き裂かれてしまい、権造女はいなくなった。だが、彼女はすぐに姿を現した。黒汽車の前面から、あの男じみた手や足が生えてきて、内臓と思しき柔らかな部位も、血泡を噴きながら迫り出してきた。運転席があった付近からは斜めに切られた顔面までもが出てきて、線路に垂れ下がる自分の腸を見つめていた。半分になっても、それは権造女とわかる逞しい男顔だった。

 フンジは半狂乱になっていた。汚い言葉で喚きながら、客車に散らばっていた破片などを、黒汽車に向かって投げつけた。コウゾウも意味不明なことを叫んで椅子を投げようとした。しかし床にボルトで固定されているためにビクともしない。背中を向けて無我夢中で気張っていると、速度をあげた黒汽車が再びぶつかってきた。その衝撃でもって肥満体はころころと転がって、客車から放り出されてしまった。

 幸運だったのは、落ちた先が衝突してきた黒汽車だったことだ。線路に落ちていたら、間違いなく轢き殺されていた。しかし、その僥倖は一瞬だった。

 フンドシ頭巾らは、ただちにコウゾウを捕まえると両足をもって逆さに持ち上げ、前部の開口部からその巨体を吊るした。

 結果的に幸運は跡形もなく打ち消された。線路に敷かれた枕木と砕石が、コウゾウの身体を粉々にしたのだ。おろし金で削られる芋のように、ぶよぶよと太った身体が徐々に短くなった。肉と骨と脂肪の破片がとび散り、車輪と線路を汚した。最後には二本の脚が残ったが、それらはあっさりと投げ捨てられた。コウゾウは黒汽車の一部にもなれなかった。

「ここにいてはだめだ。機関車にもどるぞ」

 青目は機関車へと退避した。フンジは驚愕と戦慄と憤怒が入り混じった目で黒汽車を見つめていたが、すぐにツヨシをつれて青目の後につづいた。

 機関車の運転室に入ると、青目は事情を説明させようとして、少年の襟首を掴んで激しく揺さぶった。その傍らでは、少女が泣きじゃくっている。

「あれについて、すべて話せ」

「あの副線には外道が棲みついてるんだ。捕まったら最後、生きたままバラバラにされる。だから鉄道屋は新しく本線をつくって、あの線路を廃線にしたんだ」

 そして副線を壊したことも、それがいつの間にか元に戻って、しかもどこからでも本線と交差することも機関士は補足した。

「森の鉄道を使えるのは、なにもかにも凍りつく真冬の数日だけだ」

 少年は苦悩をあらわすように、何度も汽笛を鳴らした。

「みんなやられた。半年前にも兵隊がたくさんやってきて、森の向こうに食い物を探しにいくから運転しろって。父さんも母さんもイヤだというのに、無理矢理連れていかれた。誰も戻ってこない。スピードのでる機関車も、父さんも母さんも」 

 男たちはしばし無言だった。うつむいていたフンジが口を開いた。

「あの頭巾とフンドシはムショで見たことがある。ありゃ極刑囚人どもだ」

「極刑囚人って、それはウワサだよ」ツヨシが言った。

「いや、実際にいるんだ。政治犯がほとんどで、全員死刑が確定している」青目は知っているようだった。

「それもハンパな殺し方じゃないって話だ。見せしめのためだが、なんでも処刑人の頭がイカれちまうぐらい無茶苦茶なやり方らしいぜ」そう補足するフンジの表情に、血の気はなかった。

 強く拒否していたにもかかわらず、男たちの意識は想像してしまった。酸鼻を極める激烈な拷問の末、徐々に解体されていくフンドシ姿の囚人たちを。

「そいつらがどうして森にいて、なんだって襲ってくるんだよ。それに、あの黒い汽車は尋常じゃないよ。とてもこの世のモノとは思えない」

 ツヨシは泣きだしていた。兄の傍らでうずくまる少女と同じ目をしていた。

「やつらは後ろから削りとっていくんだ。客車が一つだけじゃすぐにやられる。機関車も、おれたちもバラバラにされるよ」

「うるせえ。泣き言いってねえで、おまえは追いつかれないように、このオンボロをしっかり動かしてろ」

 フンジが怒鳴った途端に、また背後からの衝撃があった。

 客車は三分の一ほどになってしまった。その痛ましい姿は、わざわざ後ろに行かなくとも機関車の運転席から見てとれた。

「ちくしょう、まるで食われているようだ」

「このままじゃ二晩はもたないよ」

「おれは絶対に権造女みたくなりたくねえ」フンジが吐き出すように言った。

 機関士は滅茶苦茶に汽笛を鳴らし、必死になって機器を調整している。メーターの針がいっぱいまで振れていた。ディーゼル発動機がしぼり出す加速が、機関車に存在感を与えた。

「おい、そんなにとばして、ぶっ壊れちまうんじゃないか」

「どのみち追いつかれたら殺されるよ。それにもうすぐ線路が交差するんだ」

 少年がそう言った途端に本線と副線が交わった。後ろを走っていた黒汽車は向きを変えて、樹海の中へ遠ざかっていった。

 機関車は紅葉の回廊を疾走していた。高く成長した樹木が線路を覆うように葉を繁茂させ、毒々しい極彩色が秋の夕暮によく映えていた。


 夜になっても黒汽車の追走は止まなかった。ときおり思い出したように線路が交差すると、間髪入れずに背後から襲ってきた。そのたびに痛めつけられ、客車部分はもうほとんどなかった。その残されたわずかな部分に、黒汽車を覆っていた肉片が引っかかっていた。フンジは切り離すと喚き散らしたが、青目が許さなかった。

 暗闇に汽笛が鳴り響いている。それは機械仕掛けというよりも、拷問された人間が断末魔の中でしぼり出す生身の金切り声に近いものだった。何度も執拗に鳴り響いた。

「この音どうにかしてくれよ」

 運転室の窓から身を乗り出して、フンジは真っ黒な空虚に向かって喚き続けた。精神の限界なのだ。青目に命令されたツヨシが引きずり戻そうとした。だが頑丈な身体は、その手をすり抜けて窓の外に消えてしまった。青目が怒鳴って電灯を向けた。

 すぐ間近にいた。本線と副線がくっ付くくらいに近づいていた。黒汽車は、機関車の真横を並走していたのだ。

 フンジが黒汽車の垂直な表面に貼りついていた。ジタバタと手足を動かしているが、胴の部分がしっかりと固定されているので落ちることはなかった。

 黒汽車が光りだした。神々しくではない。黒い巨体に赤いスジが網の目状に浮き出している。スジはぞっとするほど赤く、醜く腫れあがったデコボコの車体に脈打っていた。まるで悪性の肉腫に蔓延る太い血管のようだった。

 フンジは車体に貼りついたまま痙攣していた。白目をむいて泡をふいている。青目が窓から手をのばして助けようとするが、上下に揺れて捕まえることができない。

 垂直の壁にフンジを縛りつけているのは腕だった。何本もの腕が男の胴体を掴んでいた。しかも、その中にはあきらかに権造女とおもわれる腕もあった。

「くそっ、なんだこりゃ」伸ばした手を引っ込めて、青目が叫んだ。

 黒汽車の触手はフンジを弄んでいた。何度も転がるたびに筋肉質の身体は小さくなって、しまいには骨だけになった。血や肉のカスだらけの汚い骸骨だ。血みどろの骨格がうらめしそうに揺れ動き、呑みこまれるように車体へ沈んでいった。黒汽車は満足したように甲高い汽笛を長く鳴らすと、闇の中へ遠ざかっていった。

 だが消え去ったわけではなかった。夜が明けると、例の汽笛を鳴らしながら再びやってきた。息が届くほどに接近しては、その醜い姿を見せつけ、そして線路が交差すると後ろについて衝突した。客車は跡形もなくなり、機関車も後部が破壊されてしまった。出力が不安定になり速度が落ちていた。それでも機関士は努力を怠らず、なんとか車体を維持し続けた。

 夕暮になったころ、青目が先の尖った鉄棒を黒汽車に向かって投げた。フンドシ頭巾の一人の胸に突き刺さるが、かれはそれを難なく引き抜いてみせた。

「なぜ死なない。ピンピンしてるぞ」

「無駄だよ。もう死んでいるんだ」そう言った機関士は、ひどく年をとっているように見えた。

「この鉄道は、あいつらを運ぶためにつくられた。バラバラに引き裂かれた囚人を運んで、森の中に捨てたんだ。吹雪で先が見えなくなる冬の数日をのぞいて、毎日毎日だ」少年は淡々と話し続けた。

「なんだ、その話は」

「あの副線も囚人たちが敷いたんだ。汚れきった湿地に身を溶かされ、仲間の肉を喰わされてね。ガスで頭がヘンになって自分を喰ったものもいる。たいがいはひどいリンチで殺された。だから外道になったんだよ」

「なんだってそんなことが。なぜ黙っていたんだ」

「だって、あんたたちも囚人じゃないか」少年は気兼ねすることなく言った。

 その時、激しい衝撃が機関車を襲った。今までで最も強烈な衝突だった。脱線しなかったのと、ディーゼル発動機がまだ燃焼を続けているのが奇跡だった。

「ちくしょう、ぶっ殺してやる。俺が、ぶっ殺してやる」

 冷静だった青目が激高した。大声を張りあげながら運転室を出ると、滅茶苦茶に壊れた機関車後部から黒汽車に跳び移り、穴の中へ姿を消した。

 一瞬の後、黒汽車が再び機関車に追突した。今度はそれほどの衝撃はなかったが、またやられるのではないかと運転室の中は凍りついていた。だが黒汽車はすぐに副線にもどり、樹木の中へ消えていった。

「なんだあれ」

 機関車の後部を見ていたツヨシは、なにやら光るものがあることに気がついた。

「やめろ、いくな」

 少年は止めたが、ツヨシはよたよたと歩き出していた。すでに後部の少なからずの部分が破壊され、サイドの通路やカバー部もひしゃげて、足場になる個所が少なかった。

 通路の端に置かれていたのは、蓋つきの大きなブリキ製バケツだった。いつの間に置かれたのか、それはガタガタと震えていて、すぐにも落ちそうだった。

 ツヨシが近づくと、風圧で蓋が飛んでしまいバケツが傾いた。反射的に身体で支えたが、中身が揺れて少しばかり撥ねた。「熱い」と感じたツヨシは身をよじった。バケツの中身がぶちまけられて、ドロドロしたものが流れ落ちた。それらはささくれた車体のあちこちに引っかかり、振動と風圧で徐々に滴り落ちていった。

 不意に足元に転がった二つの球体を拾おうとして、ツヨシは寸前で手を引っ込めた。濃い青色をしたその眼球は、間違いなく青目のものだ。ブリキバケツの中身は青目のすべてだった。どのような惨たらしい処置がなされたのか、ごくわずかな時間で液体に近い状態まで擦り潰されたのだった。

 夕闇の向こうに血管が浮き出ていた。黒汽車が濃い樹木のすき間に見え隠れする。機関車の汽笛が鳴り響いた。二つの目玉をそのままにして、ツヨシはふらつきながら運転室へと戻った。

「エンジンがダメになりかけている。もうじき線路が交差するんだ。このままじゃあれが前に出てしまう」

 黒汽車がグングン近づいてきた。そして衝突すると思った寸前に前に出た。とたんに前のめりの衝撃が起こった。黒汽車と機関車が繋がったのだ。

「やばいっ、連結された。連れていかれる、このままじゃ連れていかれる」

「どうなるんだ、なあ、これからどうなるんだよう」

 ツヨシは少年にしがみ付いて泣きだした。

「もうすぐ切り替えポイントがある。おれは連結をはずしてポイントを切り替える。妹をたのむ」そう言葉を投げつけると、少年は運転室を出ていった。

 少女が狂ったように泣き喚いていた。少年は連結部分にもぐり込んで、何事かを叫んだ。黒汽車と機関車の連結がはずされ、間隔が徐々にひらいていった。

 黒汽車の屋根に這いあがった少年が歩きだした。いくつもの不浄の手が行く手を阻もうとするが、それらを蹴飛ばし踏みつけて先頭付近までやってきた。

 冷えた夕闇を背にして少年は立ち止まり、振り返って小さく頷いた。

 次の瞬間、彼は飛んだ。そして切り替えポイントの鉄の棒へ激突した。痩せた身体の中心に鉄棒がめり込み、真ん中から折れ曲がるようにひしゃげた。フンジや青目たちに負けず劣らず悲惨な死にざまだった。

 機関士との衝突でポイントが切り替わった。黒汽車はそのまま直進し、機関車は寸分の差で分かれることができた。そして二つの線路は、お互いに反発するように大きく離れていった。

 機関車は下っていた。主を失ったディーゼル発動機は、なおも燃焼をやめなかった。前方に山が立ちはだかっている。樹木で覆われた山裾に小さな黒点があり、徐々に大きくなっていた。トンネルの入り口だ。

 ツヨシが泣きじゃくる少女の手を握った。速度を増した機関車が穴の中に入ると同時に、その入り口にいくつもの爛れた影が集まった。フンドシを巻いた者たちが、機関車が消えた深い穴の中を覗きこんでいた。



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