三十話 中井出世不動尊研究会

 去る令和六年十一月十七日、円空学会の令和六年を締めくくる研究会が東京都新宿区にある中井出世不動尊で開催された。東は茨城県、西は京都府から16名の会員が集まった。しかも、内一人は新規の入会者だ!しかも、若い(笑)

あとは、日本人の奥さんとフランス人の旦那さんのご夫婦と、そのご友人(フランス人)二人がゲストとして参加された。


 当日は、名古屋駅を午前八時半に出発する東京往き東海道新幹線ひかりに乗り、品川で下車。山手線で新宿まで出て昼食。東京メトロで落合南長崎駅まで移動し、徒歩十五分で中井出世不動尊に辿り着いた。


 地区の講でお堂を護るスタイルで、無住のお堂。

着いた時は、まだ講の会議をしているらしく声を掛けて中に入る勇気もなかったので表で参加者を待っていた。

研究会の開始時間が近づくにつれ、徐々に参加者が集まりだす。


 途中、T副理事長から「小島理事長とうまく落ち合えなかった」と連絡が入るものの、その後直ぐに理事長が到着。

そう、我が会の理事長は昔から方向音痴の傾向がみられるので、合流するまでが不安だった。


 小島理事長は、京都から参加のK先生、茨城から参加の全国木喰研究会の事務局でもあるIさんと共に到着。

「小島先生、Tさんは?」

「いやぁ、うまく合流できなかったんだよ。なんでだろう?そしたら、Iさんがいてね、彼詳しいんだよ!」

そして、急ぎT副理事長に連絡を入れるというオチに繋がる。


 理事長が到着されたので、既に現着している参加者と共に境内へと足を進める。

数段の階段を上り、講の皆様にご挨拶。

T副理事長に最新の会報と前号の会報を手渡し、手土産と共に渡していただいた。


 理事長と講の代表者は旧知のようで、話に花が咲いている。また、研究会が始まるまでに冷やされた麦茶の接待を受ける。当日は意外と汗ばむ陽気であったので、なんともありがたい。

 研究会の参加受付を下命されていたので、お堂の一角を借り妻と共に受付作業。

妻と共に参加費を徴収し、資料を配る。

 すると、フランス人の夫と日本人の奥様、そのご友人の二人のフランス人(?)の四人がゲストとして参加したいとのこと。

 偶然、お堂名前を通りかかったら開いていたので、是非拝観したいとのこと。

二人分だけ参加費を頂戴して、先に拝観してもらうこととなった。


 定刻となり、研究会の開始。

今回は、立役者のT副理事長の司会進行で会が進む。


 まずは、講の代表者から挨拶を頂き、この中井出世不動尊の堂についての説明を受ける。なんと、現在のお堂は一九六九年に建てられたとのことで、同い年であった。また、堂の創建時の寄付者の木札は、50人以上にもなるので如何に信仰心が厚かったのかが分かる。


 続いて、T副理事長による説明を聞く。

愛知県一宮市にある尾張国一宮の真清田神社の神宮寺が廃れ、同時所蔵の不動三尊(不動明王、制多迦童子、矜羯羅童子)が江戸後期の文化、文政年間に近隣の御霊神社に移座されたこと。移座の理由などは記録に残っておらず不明であること。尾張藩の武士二人が搬送に随行したこと。そんなことが説明された。


 説明の最中、スマートフォンのファイルアプリを起動し、以前作成した「不動さんいろいろVer.2」を広げる。どの時代の作なのかを確認する為だ。

このファイルには、これまでに僕が撮影した円空作の不動明王(立像、坐像)が二八体登録してある。それによって、どの時代が一番近いのかを探ろうとした。

 それによれば、庄中観音堂(愛知県尾張旭市)旧蔵のものと某所(愛知県岡崎市)蔵のものが一番近いように思われた。


 小声で講の方にその画面を見せながら、「この辺りの像が一番似ているんじゃないですかねぇ?」と解説する。

彼女は、「いろいろな形があるんですねぇ、みんな円空作ですか?」と訊いてこられたので「そうですよ。」と返した。


 T副理事長の解説が終わり、小島梯次理事長から追加で少しだけ補助の説明が加わる。その後、参加者が16名と少ないことから、東海地方以西の会員と関東地方の会員の交流を図る意味合いで自己紹介と疑問、意見を述べることになった。

この場でもやはり、「なぜ、この不動三尊が東京(江戸)のこの地に移ってきたのか?」や「いつ頃の作成なのか?」に疑問が集まる。


 T副理事長の追加情報で「元々の移座先の御霊神社の周辺に尾張藩の下屋敷があって。。。」と聞かされたものだから、頭の中では時代小説で読んだ「下屋敷=賭場」が真っ先に浮かんだ。まさか、大負けした時の担保に取られたのではなかろうか?という謎の妄想が広がってしまった。後に帰りの新幹線内で妻にこの話をすると大笑いされたのは言うまでもない。


 僕の自己紹介は、最後になった。その際、不動三尊全てに目の彩色があること、また新宿区の中井出世不動尊の円空像を紹介するホームページを見る限り、彩色の可能性考えられるのでその辺りを考慮に入れて注視されると良いのでは?と意見具申をした。


 その後は、それぞれに心行くまで拝観と撮影することになった。

最近では、堂内では撮影禁止らしいが円空学会のこれまでの活動や趣旨に賛意を頂き特別に許可された。


 僕の立場だと、会の為に記録撮影をする必要があるため、だいたいの時でも最後に撮影するようにしている。

小島理事長が講の方に依頼してくれ、居残りで手早く撮ることになった。


 撮影をする際にカメラの背面液晶を確認しながら三尊を注視する。

一様に彩色がなされ、目に瞳が描かれている。その彩色は、素地の上に胡粉を塗り、その上に黒い顔料を混ぜ込んだもの(膠?)を塗る。更に白目の部分に胡粉を塗るという感じだ。なので、全体的にボテっとしたイメージで円空像特有の鑿捌きがあまり感じられないのはしょうがないところか。

 不動明王は、先程の「不動明王いろいろ」と比較していくと、やはり庄中観音堂や岡崎市の某所にあるものが大変よく似ていると思う。


 矜羯羅童子は、剃髪し合掌したものが多いがここのは怒髪で合掌しているという珍しいものである。一方の制多迦童子は、怒髪で宝棒を持つオーソドックスな形。


 さて、観察を終え、カメラの準備を始める。カメラリュックから本体とレンズを取り出して合体させる。ただ、問題が一つ。密教寺院ではありがちなのだが、須弥壇の前に五〇㎝程の隙間があり、その前は護摩壇が置かれている。その為、三脚を使っての撮影は無理と判断せざるを得なかった。


 また、須弥壇上にある鴨居が不動明王の頭部に掛かってしまい、正面全身は思うように撮れず終いに終わる。また、三尊とも動かすことの許可は与えられておらず、周りの祭具を動かして正面、両斜め前を撮影し終わらせることにした。


 一応の撮影を終え、カメラやレンズを片付けてこの不動三尊が最初に移座したと言われる御霊神社を訪れ帰宅することとした。



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円空をあるく  天狼星 @tenrousei

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