ビールと餃子と混沌と。

koharu tea

第1話

生中なまちゅうともやしのナムルと焼き餃子で」


 水曜日の夜。意外と守られるノー残業デーに感謝して、私、真鍋未央まなべみおは毎週この中華屋を訪れる。最初の注文はメニューを見ずに、いつも決まってこの組み合わせ。

 すっかり慣れ親しんだ店内に気持ちを和ませれば、五分と待たずに幸せの第一波はやってくる。


 お待ちどうさま。あとこれサービス。


 そう言って店主の奥さんはビールともやしのナムルの他に、小さな皿に乗った蒸し鶏を置く。ここにはもう何度も通っているが、サービスなんて初めてだ。 

 いただきます、と私は小さく呟くとジョッキを掴みビールをゴクゴク流し込む。この瞬間がたまらない。最近の蒸し暑さと相まって、更に美味しさが増しているかのように思える。

 私はふぅっと息をつくと、まずはテーブルに置かれたもやしのナムルに手を伸ばす。しっかりとした味付けに、シャキシャキとした食感。そしてふわっと香るニンニクの香りがビールのお供にぴったりだ。もやしのナムルこそ、本来脇役であるもやしを一気に主役に持ち上げる最高の一品であろう。

 再びビールを一口飲むと、続いてサービスされた蒸し鶏を口に運ぶ。しっとりとした柔らかいお肉にさっぱりめの味付けが、夏にもってこいの一品だ。これをサービスしてもらえるなんて今日はなんだかツイてるな、と少しだけ気分が高まる。

 店内は相変わらず程よい混み具合だ。おしゃれな店ではないものの、この適度なざわつきと混沌とした雰囲気が、一人で気兼ねなく飲むのにはぴったりだと思っている。


 特別早く飲んだ気はしなかったが、気づけばビールはジョッキの三分の一も残っていない。餃子が到着した時にうっかりビールが切れているなんてことは絶対に避けなければ。そんな思いに駆られ、私は店主の奥さんにビールのお代わりを注文した。


 ────メイク変えたんですね。似合ってますよ。


 残り少ないビールを片手に今日の一コマを思い返す。

 二つ下のカメラマン兼編集担当の坂下君。癖のない黒髪にラフな格好をした、今時の若者という言葉がぴったりの青年だ。仕事上そこまで関わりはないものの、彼とは話す機会が度々あった。そうはいってもコミュニケーション能力の高い彼のこと。私にだけ特別に話しかけてくるという訳ではない。人の些細な変化に気づくのも、職業柄の範疇だろう。

 だけどいつも使っている色味からさほど遠くない色味のアイシャドウを使っただけの、こんな変化に気づかれてしまっては、多少舞い上がるのも無理はない。思いがけず早飲みしたビールのせいか、それとも思い返した彼のせいか、妙に顔が火照るのを感じる。


 生中と餃子ね。


 今日の出来事をぼんやり思い返していると、目の前には待ちに待った焼き餃子が。餃子とビールという完璧な組み合わせに、心なしか黄金色のビールは先ほどよりも輝きを増したかのように見えた。

 私は慣れた手つきで醤油、酢、ラー油を小皿に注ぐと、目の前に置かれた熱々の餃子に手を伸ばす。


「あ、餃子にはビール派なんですね」


 突然降ってきたその声に慌てて餃子から目を離すと、さっきまで脳内に存在していた坂下君があまりにも自然に座っていた。


「え、なに、いつの間に……?」


「俺、餃子の時はハイボール派なんですよね。ハイボールはあんまり飲まないですか?」


 私の問いには答えずに、彼はハイボールを注文する。


「あぁ……私ウイスキー苦手なんだよね。……それより制作部がこの時間に上がれるなんて、珍しいね」


 依然として頭の整理はついていないながらも、私はひとまず冷静を装うことにした。


「まあたまにはね、早く帰らないと続かないですよ」


 私の部署はそこまで残業はないが、彼のいる制作部はなかなかハードな働き方をしている。早朝スタートの撮影に、締め切り間近になれば夜明け頃まで会社にこもることもしばしばだと言う。同期で入った女性社員の沢村梨花さわむらりかは、一緒に飲むたびに今年中に辞めてやると言うのが恒例だ。


「そういえば真鍋さん、来月で辞めるって聞いたんですけど本当ですか?」


「ああ、うん。有給消化するから正確には再来月になるんだけど、最終出社は来月末」


 バリキャリタイプではないけれど、ここ一年ほど代わり映えのない毎日にどこが物足りなさを感じていた。三十代まであと数年というこのタイミングでもしご縁があれば、と軽い気持ちで始めた転職活動は、思った以上の成果を上げた。正直今の職場に大した不満がある訳ではないし、逆に新しい職場で上手くやっていけるのかという懸念はあった。しかしこのまま代わり映えのない毎日を送るよりは、せっかくだからチャレンジしてみようと退職を決意したのだった。

 そう考えると、この店に来るのもあと数回。そして何より坂下君と話すこともなくなるのか、と妙にセンチメンタルな気分になる。


「じゃ、ちょっと早いですけどお疲れ様でしたということで、かんぱーい」


 彼はいつの間にか来ていたハイボールのグラスを手に取ると、私の目の前に差し出す。私は慌ててジョッキを持ち上げると、コツンとグラスが音を鳴らす。ビールジョッキの向こう側にゆらりと琥珀色のハイボールが波を打つのが見えた。


 それからはいつもよりお酒も進み、他愛もない会話をした。仕事のこと、最近会社の近くに来る美味しいと評判のキッチンカーのこと、好きな音楽のこと。会社の飲み会では席が近くなることはほとんどなく、こうしてくだらない話をだらだらとするのは初めてかもしれない。話した内容はどれも大したことではないのに、ここ最近の飲み会の中ではきっと一番楽しい時間を過ごしたと思う。

 そんな話をしながら結局締めのラーメンまで食べてしまい、食べ終わる頃には満足感と後悔の間で私の脳内は揺れ動いていた。

 

「トイレ行って来るね」


 帰り際、少し酔いが覚めたからかきっと崩れているであろう化粧が無性に気になりトイレへ向かう。店内よりもひんやりとした空気に身を包まれ、更に酔いが覚めた気がした。鏡に映る自分の肌を見て、せっかくなら昨日の夜パックでもしておけばよかった、と心の中で呟く。私はささっとパウダーをはたくとリップを塗り直し、足早にトイレを後にした。

 

 店内に戻ると先ほどまで座っていた席に坂下君の姿はなく、先に外に出たのだろうかと私はまっすぐに入口を目指す。今日は結構飲んだものの、まだ足取りはしっかりしている。二ヶ月前、高校からの親友と飲んだ時に泥酔したことを思い出し、今日はそうならずに済んだことに安堵のため息をつくと、私は少し重めのドアを押す。

 なんだかいつもよりドアが重く感じるのはやはり自分が思っているよりも酔っているからだろうか。力を入れても片手ではドアを開けることが出来ず、両手でドアの取っ手を掴み、少し大げさに体重をかけてドアを開ける。

 

 すると目の前に現れたのは中華屋の前の見慣れた景色、ではなく机の上に置かれた、恐らく出来立てであろう熱々の餃子だった。呆気に取られながら店内を見渡していると、不意に背後から声をかけられる。


 ハイボールお代わり、お待ちどうさま。



 




 



 


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