星を灯す
一ノ宮ひだ
星を灯す
マスロックのメロディーを詰め込んだヘッドホン。シングルコイルの鳴らす、氷みたいな音色の束が、夏特有の冷気を放つ。寝起きの目はその冷たさに刺激され、ページが開いたままの音楽雑誌の続きをめくり始める。
だけど、それにも飽きていくので、結局天井と睨めっこしながら家に籠っていく。
寝ては聴いて、そして読んで、そして飽きて、また狂った様に聴いて――ただ、それをずっと繰り返す。
音楽を聴くしか脳がない女子高校生の、夏休みの一日。
何も得られるものがないから、毎日というのはとてつもなく軽い絶望みたいなものだ。
夢や目標なんてない。学力も身体能力も、そこまで高くない。政治もスポーツも、色恋沙汰にだって何ら興味はない。
だけど音楽だけは死ぬほど聴いてきた。だから、シューゲイザーとオルタナティブ、それにグランジは私の精神安定剤で、それらがないと死んでしまうのではないかと本気で思う。大抵こういう類の話は、同級生の誰も知らないから、誰とも話せないし、話す気にもなれない。
犬ほど利口ではなくて、猫ほど自由気ままでもない。私は、そんな何者にもなれない、不器用な人間。
それでも、毎日本気で――
本気で普通に生きているのだ。
本気で普通に生きて、引きこもる夏休みを過ごしているだけだ。
今まで、何があっただろう。
何を、得てきただろう。
何が、私にはできるだろう。
まずは抽象的で否定交じりの自問自答で自己陶酔する。それにも飽きると、閉塞感であふれた部屋を抜け出して、重い足を動かし、ようやく街に出る。
私は夜の街が好きだ。暗くて、冷たくて、全てを失っていて、それは真昼とは別世界。
何も無いは、何でもできるから、それは私にとって自由を意味する。このどこにも行けないような雰囲気が、私には幸せなのだ。
脳内を高揚感で満たすために、整えてもすぐにズレる眼鏡を外す。輪郭がぼやけて、境界線が曖昧になると、次第に見えるもの全てが一つになっていく。
ここには、もう何も無い。
何も無いから、何もいらない。
深夜徘徊は、私にとっての本気の――たった一つの世界。
だけど、その三秒後に、私の世界は、あっけなく粉々に割れてしまう。
そんなしょうもない世界が壊れる原因は、とある一人の少女を見たことから始まった。
♦︎
重そうなギターケースをか細い左手で持ちながら、キョロキョロしてる挙動不審な女の子。見覚えがある。そう思って私は、眼鏡をかけ直し彼女を凝視する。
あれは――同じクラスの同級生だ。
夏――なんて名前だったっけ。童顔ショートヘアーの凛々しげなルックス。覚えてないけど、すごく、綺麗な名前だったはずだ。
なんか面白そうなので、後をつけてみることにする。ただじっくりねっとりと、後を追う。
「……ひっ」
十秒程歩き続けた後、彼女は素っ頓狂な声を上げた。
「……」
「……いや、その……幽霊?」
「……幽霊って言うな」
こいつ。あまりにも失礼すぎる。
「えっと、クラスが同じの……何さん、やっけ?」
「……
「……えっと、星羅さん。私は
「知ってる」
「あっ、はい」
「それと、星羅、でいい。一応タメだから、さんはいらない」
「……いや、いきなり呼び捨てとか……無理だよ。だってあなたの声、今初めて聴いたし」
「うるさい。根暗で悪かった、もう」
「……いや、ごめん、星羅さ……じゃないや、星羅。突然だけど、変なこと、言ってもいいですか?」
「何?」
「……私、ギター弾けるんです」
「……そりゃ、ギター持ってるから分かるよ」
「……あっ、そっか。私、担いでたね」
「えぇ……」
すごい天然。
面白すぎるので、やっぱり後をついていきたい。
「どんな音楽聴くの?」
「……いや、まあ。シューゲイザー、とか」
「……しゅーげい、ざー?シュークリームの派生品、みたいな?」
「分かった。もういい、もういいから」
何でこういうとき、こういう話になると私が恥をかかなきゃならないんだ。
「で、今から、どこ行くの?」
「……えっ?どこにも行かないよ」
「……じゃあなんで一人でテクテク歩いてるのよ、こんな深夜に」
「ただ、歩いてるだけだよ」
「どこにも行かないんじゃないの?」
「……うん、どこにも行かないよ。だけど、どこにも行けないから、『どこへだって行ける』って思いたいの」
やっぱり天然だ。アホすぎる。
「……そんな訳で今から、弾き語りライブするから。良かったら聴いてってよ」
どんな訳だよ。だけど、この一言で、彼女の雰囲気が少しだけ変わったような気がした。
「何で弾き語りを始めようと思ったの?」
「……大した理由なんてないよ。私は、逃げたいの。どこか遠くへ。なんか、今起こってることをずーっと考えるのって、疲れちゃうじゃん。どこにも行けないというのが事実だったとしても、『どこかに行きたい』という思ってしまうから」
答えになってない。
「だから私、嬉しい。こんな真夜中に聴いてくれる人が、解ってくれる人が、ずっと隣にいるってことが」
あまりにも真っ直ぐすぎる言葉は、心がムズムズする。だから、その行先を跡形もなく捻じ曲げたくなる。
「共犯者って、こと?」
だから、うまい言葉を使って、話をはぐらかすのだ。
「きょーはんしゃ?」
「……言い換えると、日向って、すごく、かっこいいねってこと」
「……えっ?」
「いや。ほんとうに。私、驚いた」
「いや。そんな、別に」
「……すごい顔赤いけど、大丈夫?」
「……えっ、いや、だって。そんな、同じクラスの子にかっこいいなんて言われたら、照れるというか恥ずかしいというか」
「……かっこいい。けど、かわいいね」
「もう、かっこいいとかかわいいとか、言い過ぎ」
やっぱりこの子、馬鹿だ。話が繋がらないし、知識もないし、ドジそうだし、アホの子だし、私が一番嫌いなタイプの人種だ。
そう思ったとき、ふいに夜風が靡いた。
少し埃ばんだ、大人の匂いの混ざった夜の匂いの夏風。彼女の清々しいまでに黒髪のショートヘアーが靡く。
彼女がケースから取り出したヤマハ製のフォークギター。使い込まれた指板やピックガードには細かな擦れ傷や爪痕があり、彼女が何度もコードをかき鳴らした証がそこに残されている。淡く温かみのあるナチュラルカラーの木肌で、表板のスプルースは、電灯の無機質な光を受けて穏やかに艶めいた。
薄暗い私と彼女の二人きり。
私だけを見つめる彼女は、やっぱりどこか違って見える。まるで私のことを全て知っているように。「でも」と「やっぱり」を繰り返していくそんな私は、彼女についてまだ何も知らない。
目と目を合わせるようにして、小さなナイトショーが、街の隅で始まった。
「じゃあ、ここで一曲。『星と旅人』という曲を――ええっと、これは星の光と、それに見惚れた旅人を歌った曲だよ。旅人は自分勝手な性格で、星を追うけど、それがどこか愛おしくて、それは優しいの――」
小さな風が止み、Gadd9のダウンピッキングで、曲が始まる。そこからは、Cadd9、D、Gadd9のエイトビートストロークを繰り返す旋律。
どこか遠い果てを見つめているような黒い瞳を見ていると、こっちが吸い込まれていきそうで、私は、ただ見ることしかできない。
きっとあの目は、夢に心奪われた者の目だ。音を奏でる彼女は、夜空の向こう、ただ一人きりで輝く、星の光みたいだ。曲が終わると、彼女はこう告げた。
「私は、星になりたい。だって太陽は、こんな私には眩しすぎるから」
眩しかった。ただ、一瞬。数字にすると三秒に満たない。だけど、そこは、彼女の世界だった。理屈なんて存在しない、直感と妄想と戯言で満たされた、ただ純粋すぎて、触れたら壊れそうな小さな世界が、当たり前のように広がっていた。
「星になりたい」。なんて、もし本気で言ってるのなら。ただ自分に酔ってるだけだ。私以外の全ての人に無視され、知らない人が、知らんふりをして馬鹿にされるだけの、ただ意味のない言葉だ。
だけど、それでもいいのだ。
その世界に、その一言に、私は騙されたいのだ。そして、騙されていくのだ。
「……ちょっと、緊張した。汗、かいちゃった」
そんな彼女を見て、ただ率直に、綺麗だと感じてしまう。それは、自ら光を放って、輝く星みたいに、何にも揺るがない強さがある。
この場で伝えたら、どう思うだろうか?
――ちょっと、緊張する。
いつか、言えたらいいな。言えるには、あとどれくらいかかるだろうか。この空に浮かぶ星の寿命くらいだろうか。
そう思うということは、私も脆くて、後で伝えられないことを後悔するタイプの人間なのだろう。
だけど、私の日常はそれで充分なのかもしれない。
これくらいの悩みがあれば、日々の輪郭はぼやけることなく、ゆっくりと続いていく。
その思いの儚さに、私は感傷的になって、いつしか夜の匂いを辿っていた。
その先に何があるかなんて知らないまま、足を止める理由も見つけられずに。
♦
ポツポツとなる灰に似た雨は、全ての風景を暈していく。眺めていくと、心さえも滲んで消えていく、そんな感覚に陥ってしまう。
半年後、日向の路上ライブはそこそこの人気を得た。来るとはいえ、五人か十人、あるいは二十人かそこら、だけど。
「ごめんね。星羅。時間貰っちゃって」
「うん。まだ、ライブまで時間あるし」
「……私、ずっと考えてるの、あなたのこと。授業中も、家にいるときも、作曲しているときも」
「日向。あなたを見ているだけで、私は幸せだよ」
「そうなのかもしれない。あなたにとっては。だけど、私にとっての幸せは、あなたが傍にいてくれて、ただありふれた日々を送ってくれること」
よからぬ雰囲気がした。なにかが、どっと押し寄せるような雰囲気だった。そしてそれは、確信へと変わった。
「星羅、あなたが好き」
「……」
「理由なんてわからないけど、ただ、どうしたって、好きなんだ、全てが。あなたを愛していたい。傍にいてほしい。だから謝るよ。私は、星になれなかった。理由は、星が、あなたが、綺麗すぎたから」
彼女は、涙を浮かべている。悲しいのか嬉しいのか、そのどちらでもないのか、その涙の理由が分からない。
私は、彼女が好きだ。
それは何者にも染まることのない、穢れのない、日向のことだ。
無茶な屁理屈ばかり語って、それでも希望を見出す、純粋で美しい、夏来日向のことだ。
「……私は、嫌だ」
だけど、その瞬間、日向が泣きだした瞬間。「好き」と言った瞬間。その一瞬で、私は彼女を愛せなくなってしまった。
その泣き顔は、私の愛する彼女を壊してしまった。私は、彼女の横顔が少しでも何かに汚されることを、どうしても許せなかったのだ。
「分かってるよ。自分でも思うよ。こんなの馬鹿げてるって。でも、私はあなたとなら、何だってできる。それに、限りなんてないと思うの」
違う。
そんなのじゃない。
苛立ちと、不甲斐なさと、呆れと、諦め。ぐちゃぐちゃな私の感情が、彼女を拒む。
「……嫌だよ」
「……何で?……私のこと、もしかして、嫌い?」
「……違う。私だって、あなたが好き」
「じゃあ、何で……」
答えになっていない、なんて分かっている。それでも言う。
終わってしまうこの恋を、糸を切るように終わらせるために。
「あなたと私の『好き』は、同じだよ。だけど、だけどね。どうしようもなく、それは全てが違っているの」
私は、彼女が好きだ。理由なんてちっぽけだ。
あなたの歌を聴いていたい。もっと、ずっと。
私の傍にいてほしい。
あなたの歌を、あなたの側で聴き続けていたい。
理由なんて、全部、同じだ。
だけど、どこか違うのだ。
彼女は、変わりたい。
私は、彼女に変わってほしくない。
今のままの彼女を、変わらず見守っていたい。
彼女は、私が好きだ。
私も、彼女が好きだ。
だけど彼女には、私を好きでいてほしくなかった。
夢を、夢のまま。変わることなく追い続けている彼女だけ、私は愛おしいと思える。
私はそんな彼女を、「愛おしい」と思いながら、ただ、見ていたいだけなのに――
彼女は、その境界線を越えようとする。
きっとそれは、どこへも行けなくても、どこかへ行こうとする想いが、彼女にはあるからだ。
彼女の顔は大粒の涙で溢れている。
それを見て、涙を拭くことも、慰めることも、抱きしめることも、手を握ることすらできない。
純白だった彼女の顔が涙で溢れているのを、私は見ることしかできなかった。だけどそれを見ることしかできない私が、ただ許せなかった。彼女を愛せないのは、私のせいだから。
何もないから、もうどこへでもいけない。
どうしようもなくなって、私は言う。
「……ずっと、あなたを、信じてた。信じてた、のに」
「泣いても、意味なんてないよ」
「……泣く以外に、何もできないんだよ」
「……そんな顔なんて、見たくなかった。だから涙に意味なんてない」
「よく、そんなこと、言えるよね」
そう言って、日向は、私の頬を叩いた。
「……あなたのせいだ」
名も無き何もかも。
目前の何もかもが、言葉にできないくらい、すっと消えていく錯覚。
「私が今泣いているのも、私があなたを好きなのも、そもそもこんな私になったのだって、全部、全部、あなたのせいだよ!」
「……そうだね。私のせいだ」
ああ、失うって、こんな感じなんだ。
音を聴いては眠りにつく、とてつもなく軽い絶望――私の繰り返してきた日常みたいなものなんだ。
「あなたのことなんて、大っ嫌いだ」
私が日向を愛することができないのも、こんな捻くれた感情を突き刺してしまうのも――すべて、日向をずっと愛し続けているせいだ。
どうしようもない矛盾。
まるで意地悪な星座の線みたいに、繋げば繋ぐほど形を失っていく私たちの関係。
私も彼女も、不器用に結ばれた歪なリボンみたいだった。強く縛りつけられたとしても、その結び目はきっといつか解ける運命なのだと、二人どこかで悟っていた。
♦
私は、高校を退学した。理由なんて要らなかった。ただ、何をすればいいか分からなかった。
どうでもいいと思った。別に。誰が、どう生きようか、なんて。毎日本気だったのだ。
本気で普通に生きていたかったのだ。
本気で普通に生きようとして、結果としてそれが出来なかっただけなのだ。
だけど、時々思い出す。
「私は、星になりたい。だって太陽は、こんな私には眩しすぎるから」
そう彼女は言っていた。
その言葉を思い出す度、吐き気がした。
目眩がした。耳を塞いでもあの歌を思い出してしまうから、耳だけ引きちぎりたかった。どこへ逃げても彼女が心の中から出てくるから、消えてなくなりたかった。
――もう、終わりなんだ。どこへも行けやしない。全て、無かったことにして。
一人で深夜の路地を歩く。誰もいない、ただの道。冷たく、暗く、何も無い道。
私には、何も無い。何も無いから、もうそこにはなにもいらない。それだって、れっきとした、たった一つの世界だ。
だけど、そんな世界もいつか、すぐに壊れてしまう。私は一度は拒んでしまった壊す理由を、ずっと探している。探すために、いつも誰かを追いかけている。
変わっていくことはどうしても痛いのに、それを希望に満ちた優しい歌にしてくれる、臆病な私の世界を壊してくれる、そんな誰か。
道端でギターの音が鳴っていた。それは、音と音が交じりあって、絡み合っている。悲観と楽観の両方を感じさせる音色。
そして、歌が聴こえた。ずっと、心に閉じ込めていた、あの日のギターの音と、あの日の「星と旅人」と、あの日の声と、あの日出会った少女だった。
♦
今夜もまた 星の幕が上っている
時が経っても 僕は想っている
夜が眠っている間 見届けていたい
君の手をとって 君と見ていたい
いつか消えるまで そうあの頃みたいに
急いだ足音が 重ねた足跡に変わって
訳もわからないけど ただ先を急ぐんだ
また 会えるかな
また 思い出せるかな
だけどまた 泣いてしまうかな
離れ離れの君も
離れることのないこの星も
伝えたさよならを
忘れられない想いに変えても
♦
ただ想っていた。
何も、いらなかったのだ。
彼女さえいれば。
何も、恨まなかったのだ。
彼女さえいれば。
何も、嫌いたくなかったのだ。
彼女さえいれば。
涙が、止まらなかった。どうあがいても、どう見つめても、彼女の横顔が綺麗すぎて、ただ涙を流すしかなかった。
彼女の緩やかな優しさの音が、鼓膜と喉につき刺さって、思わず嗚咽をもらしてしまう。今まで溜まっていた苦しみを吐き出すように。何度も。何度も。
あちらも、私に気づいたみたいで、寄り添うように近づいてくる。
「ばーか」
「……ごめん……ごめん……ほんとに、ごめんなさい」
「……ふふっ、すごい泣き顔。なんか、じゃりじゃりしてる」
「……うぅっ、日向、ごめん。私は、ただ……」
「……泣いても、意味なんてないよ」
彼女は私を抱き寄せる。優しく、暖かい彼女の体温が、私の冷たいだけの肌に移る。越えられない境界線に、足を踏み入れるみたいに。
「……泣くこと以外、何もできないから。だからっ、だから私は、こんなに泣いているの」
ああ、そうだ。私はただ、騙して欲しかっただけ。彼女に、騙されていたいだけ。この気持ちを、この涙を、この「好き」を。
「……日向。私、知らなかった。『好き』は、こんなにも脆くて、ぼろぼろで、尊いものだってこと」
ただ、寂しいのだ。
日向がいないと。
だから、縋っていたいんだ。甘えていたいんだ。優しさがほしいんだ。ずっと、一緒にいてほしいんだ。
「……『許して』なんて、卑怯だけど。だけど、一つだけ……私は、あなたの傍にいたい、あなたの奏でる音を聴いていたい。あなたの歌声を、そばで聴いていたい。もっと、ずっと。願うなら、星より近くで」
日向はゆっくりと頷く。そして更に、離れない、離さないように、私をぎゅっと抱き寄せる。
「星羅が望むなら、私はなんにでもなる。何でもする。だから、私が望んだときは、こうやって、優しく抱き締めていてほしい」
彼女は続けた。
「あなたがいるから、私がいる。あなたが笑えるから、私だって笑える。あなたが泣いているから、私だって泣きたくなる」
すでに瞳には、大粒の涙が溜まっている。それは、醜い砂利色でできたような、この世界で一番美しい泣き顔だった。
「星羅。好き。大好き」
日向は「好き」なんて、他愛もなく言うけれど。
「好き」という気持ちに「好き」という言葉をのせると、その心が壊れてしまいそう。
だから、ひねくれ切った私は、彼女にこの言葉の束を渡す。色づいた花束みたいな、見えない恋の形を伝える、その代わりに。
「約束して。あなたの音を聴かせて。私は、いつだってここにいるから」
それは「愛」も「好き」も拒む私の、無意味で、無価値で、わがままで――触れたらそっと消えてしまうような、ちっぽけな想いだった。
「あなたが何も見えなくなって、苦しんでいるとき。私は、あなたの傍で光を灯していく、星になりたい」
じりじりと明日が迫っている。
彼女と共に今日を生きて、その全てが歌になる、そんな明日が。
♦︎
高校を中退して、数年が過ぎた。
多忙という言葉が、私の日常の中に居座っている。高卒認定試験のための勉強、掛け持ちバイト――何のために働いているのかはもうわからない。散々迷惑をかけてしまった両親への償いか、大学進学への資金か、それとも二人で暮らすための生活費か。
理由が多すぎて、一つに絞り込めない。
それでも、この世界は私の掌には抱えきれないほど沢山の物事で溢れている。
見えるもの、感じるもの、耳にするもの、言葉では言い尽くせないもの。
そのほんの一部が、私の日々を形作っていく。私はそのほんの少しのものだけで生きていける。そして、その中の多くは、一度尽きてしまうと、変わってしまう。高校中退から着なくなったブレザーはクローゼットの中で眠っているし、通学路の途中にあった喫茶店も、今ではけたたましいバールによって取り壊されている。
だけど、変わらないものだってある。
「ライブあるからって、わざわざここまで来なくてもいいのに」
「なんかさ、日向をずっと気にしてしまうんだよね。あなたを見てるときはさ。心配と期待、センチメンタルと真新しさがせめぎ合うみたいな、そんな気持ちが混ざり合ってる」
「……毎日演奏してても緊張は抜けないけどさ、今日のライブ、絶対成功させるって気持ちは変わらない。成功したら一つだけ、私の願い、聴いてくれる?」
「……なんだってするよ。あなたがしたいことなら」
「約束ね」
「うん、約束」
「……誰にも言わない?」
「……言うわけないでしょ。そもそも、誰に言うのよ?」
「……うん。よかった」
「で?何して欲しいの?」
「……えっと、そのぉ……疲れてたら、添い寝、かなぁ……」
ライブハウス裏で、彼女が私に求めたものは、練習の付き添いじゃない。ただの私の体温。大きなため息をついた後、私は彼女の耳元に触れる。彼女の冷たい耳たぶに、私の手のひらの温度が伝染していく。触ると壊れそうな世界に、そっと手を伸ばすように。
「あわっ、ちょっ、やめっ。めっちゃくすぐったい」
「……理性保てる?こんな弱々で」
「……絶対、大丈夫……多分」
覚悟が必要なのはどっちだ。
「……まあ、頑張って」
「うん」
そうして、私は彼女をそっと抱きしめる。
「今日も、私の番だな」
「……まだ何も言ってないのに」
「じゃあ、明日は日向がしてよ」
「……えっと、私が。そんなハグは……いや、そのね。肌の感触とか、手の温度とか……そういうの気にしちゃって、なんか、ね」
「うわ」
「……いや、決してそういうのでは」
「別に、そういうのも、していいよ。もし、日向が出来るのなら。良い曲聴かせてくれるみたい、その勇気があるのなら」
「……じゃあ、もっと、そういう……妄想を、曲にすればいいの? 私、あんまりわかんないんだけど 」
あほくさ。まあ、中卒の私が言えることじゃないけど。
「あーもう。わかったわかった。どーせ出来ないんだから。集中集中。私、楽しみにしてるから」
「……ごめん。変なこと言って」
「……別にいいよ。あなた、元から変だし」
「うん」
「おー、認めた。さすが天然なだけある」
「……あっ、そうじゃないの。私もライブ頑張るから、あなたも頑張って、っていう意味」
「うん、知ってる。そう言われると、なんか頑張れる」
――そう。私はそのほんの少しのものだけで、生きていける。
たとえ二人きり泣きじゃくって、目の前が見えなくなっても――
何も変わらなくていい。
何も欲しがらなくていい。
何も怖がらなくていい。
間違いだらけかもしれない。だから、こんなことに意味なんてないのかもしれない。
だけど、今はそれが全て。
あるがままを、ただ、ありのままで――その全てに、二人だけの嬉しさも悲しさを乗せていけば、それでいい。
ただ音を奏でながら、どこへだって逃げていけるように。
漠然とした世界をゆっくりと漂いながら、その世界のどこへだって駆け出していけるように。何も見えない夜空に星の光を灯すみたいに、強がりの涙を流して。私たちはきっと、何もかも乗り越えられる。
「歌わないと落ち着かない。でもいざ歌っても、やっぱりドキドキして……そんな気持ちを、次は歌にして届けたい」
歌声が今日も鳴り止まない。それは星に憧れて、星を好きになって、その傍にいることを決めた少女の歌声。歌って、惹かれて、騙して、また泣いて、そして笑う。悩ましき想いは、まだまだ物足りないようだ。
「ねえ星羅、いきなりだけど、星の寿命は百億年あるらしい」
「……だから?」
「私が消えても、星は煌めき続けるの」
幸せの定義も筒抜けになるような、平凡でつつがない日々は、ただただ繰り返していくだけだ。こう考えるのも億劫だけど――もしもいつか、大きな困難に行き着いたとしたら。そこにある想いは色褪せて、いつか劣化していくのかもしれない。
それでも。
絶対に。星は、いつまでも輝き続ける。
そう信じていく。
そう信じながら生きて、音の鳴るほうへ近づいていく。
何も見えないこの夜空に、微かな光を灯すみたいに。その光さえあれば――私は、普通の日常を、ただ精一杯に生きていけるから。
「私はそんな星の光みたいな歌を、あなたに聴いてほしい」
ああ、そうやって、小さな世界の中で、二人で光を灯そう。いつまでも消えない、ちっぽけで惨めで、綺麗な星の光を。
「チューニング完了。それじゃ、リハ、行ってくるね!」
――もしもこの世界が私が生きている日常だとするならば、夜空はライブハウスで、星はあなたが紡いだ言葉と音符たちだ。
パーライトの白光に包まれた日向の背中。
歌声が響く前の、煌めくアルペジオ。耳に馴染んだその音が、暗い世界の中で、夏の始まりを告げる。
そしてまた、ゆっくりと夜は流れていく。
「これは私たちの一曲目。『恒星』!」
今日も彼女は、 私の星になって――囁くように光を灯していく。
星を灯す 一ノ宮ひだ @wjpmwpdj
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