星を灯す

一ノ宮ひだ

星を灯す

 マスロックのメロディーを詰め込んだヘッドホン。シングルコイルの鳴らす、氷みたいな音色の束が、夏特有の冷気を放つ。寝起きの目はその冷たさに刺激され、ページが開いたままの音楽雑誌の続きをめくり始める。

 だけど、それにも飽きていくので、結局天井と睨めっこしながら家に籠っていく。

  寝ては聴いて、そして読んで、そして飽きて、また狂った様に聴いて――ただ、それをずっと繰り返す。

 音楽を聴くしか脳がない女子高校生の、夏休みの一日。

 何も得られるものがないから、毎日というのはとてつもなく軽い絶望みたいなものだ。

 夢や目標なんてない。学力も身体能力も、そこまで高くない。政治もスポーツも、色恋沙汰にだって何ら興味はない。

 だけど音楽だけは死ぬほど聴いてきた。だから、シューゲイザーとオルタナティブ、それにグランジは私の精神安定剤で、それらがないと死んでしまうのではないかと本気で思う。大抵こういう類の話は、同級生の誰も知らないから、誰とも話せないし、話す気にもなれない。

 犬ほど利口ではなくて、猫ほど自由気ままでもない。私は、そんな何者にもなれない、不器用な人間。

 それでも、毎日本気で――

 本気で普通に生きているのだ。

 本気で普通に生きて、引きこもる夏休みを過ごしているだけだ。

 今まで、何があっただろう。

 何を、得てきただろう。

 何が、私にはできるだろう。

 まずは抽象的で否定交じりの自問自答で自己陶酔する。それにも飽きると、閉塞感であふれた部屋を抜け出して、重い足を動かし、ようやく街に出る。

 私は夜の街が好きだ。暗くて、冷たくて、全てを失っていて、それは真昼とは別世界。

 何も無いは、何でもできるから、それは私にとって自由を意味する。このどこにも行けないような雰囲気が、私には幸せなのだ。

 脳内を高揚感で満たすために、整えてもすぐにズレる眼鏡を外す。輪郭がぼやけて、境界線が曖昧になると、次第に見えるもの全てが一つになっていく。

 ここには、もう何も無い。

 何も無いから、何もいらない。

 深夜徘徊は、私にとっての本気の――たった一つの世界。

 だけど、その三秒後に、私の世界は、あっけなく粉々に割れてしまう。

 そんなしょうもない世界が壊れる原因は、とある一人の少女を見たことから始まった。


 ♦︎


 重そうなギターケースをか細い左手で持ちながら、キョロキョロしてる挙動不審な女の子。見覚えがある。そう思って私は、眼鏡をかけ直し彼女を凝視する。

 あれは――同じクラスの同級生だ。

 夏――なんて名前だったっけ。童顔ショートヘアーの凛々しげなルックス。覚えてないけど、すごく、綺麗な名前だったはずだ。

 なんか面白そうなので、後をつけてみることにする。ただじっくりねっとりと、後を追う。


 「……ひっ」


 十秒程歩き続けた後、彼女は素っ頓狂な声を上げた。


 「……」


 「……いや、その……幽霊?」


 「……幽霊って言うな」


 こいつ。あまりにも失礼すぎる。


 「えっと、クラスが同じの……何さん、やっけ?」


 「……夜野星羅やのせいら


 「……えっと、星羅さん。私は夏来日向なつきひなたっていいます」


 「知ってる」


 「あっ、はい」


 「それと、星羅、でいい。一応タメだから、さんはいらない」


 「……いや、いきなり呼び捨てとか……無理だよ。だってあなたの声、今初めて聴いたし」


 「うるさい。根暗で悪かった、もう」


 「……いや、ごめん、星羅さ……じゃないや、星羅。突然だけど、変なこと、言ってもいいですか?」


 「何?」


 「……私、ギター弾けるんです」


 「……そりゃ、ギター持ってるから分かるよ」


 「……あっ、そっか。私、担いでたね」


 「えぇ……」


 すごい天然。

 面白すぎるので、やっぱり後をついていきたい。


 「どんな音楽聴くの?」


 「……いや、まあ。シューゲイザー、とか」


 「……しゅーげい、ざー?シュークリームの派生品、みたいな?」


 「分かった。もういい、もういいから」


 何でこういうとき、こういう話になると私が恥をかかなきゃならないんだ。


 「で、今から、どこ行くの?」


 「……えっ?どこにも行かないよ」


 「……じゃあなんで一人でテクテク歩いてるのよ、こんな深夜に」


 「ただ、歩いてるだけだよ」


 「どこにも行かないんじゃないの?」


 「……うん、どこにも行かないよ。だけど、どこにも行けないから、『どこへだって行ける』って思いたいの」


 やっぱり天然だ。アホすぎる。


 「……そんな訳で今から、弾き語りライブするから。良かったら聴いてってよ」


 どんな訳だよ。だけど、この一言で、彼女の雰囲気が少しだけ変わったような気がした。


 「何で弾き語りを始めようと思ったの?」


 「……大した理由なんてないよ。私は、逃げたいの。どこか遠くへ。なんか、今起こってることをずーっと考えるのって、疲れちゃうじゃん。どこにも行けないというのが事実だったとしても、『どこかに行きたい』という思ってしまうから」


 答えになってない。


 「だから私、嬉しい。こんな真夜中に聴いてくれる人が、解ってくれる人が、ずっと隣にいるってことが」


 あまりにも真っ直ぐすぎる言葉は、心がムズムズする。だから、その行先を跡形もなく捻じ曲げたくなる。


 「共犯者って、こと?」


 だから、うまい言葉を使って、話をはぐらかすのだ。


 「きょーはんしゃ?」


 「……言い換えると、日向って、すごく、かっこいいねってこと」


 「……えっ?」


 「いや。ほんとうに。私、驚いた」


 「いや。そんな、別に」


 「……すごい顔赤いけど、大丈夫?」


 「……えっ、いや、だって。そんな、同じクラスの子にかっこいいなんて言われたら、照れるというか恥ずかしいというか」


 「……かっこいい。けど、かわいいね」


 「もう、かっこいいとかかわいいとか、言い過ぎ」


 やっぱりこの子、馬鹿だ。話が繋がらないし、知識もないし、ドジそうだし、アホの子だし、私が一番嫌いなタイプの人種だ。

 そう思ったとき、ふいに夜風が靡いた。

 少し埃ばんだ、大人の匂いの混ざった夜の匂いの夏風。彼女の清々しいまでに黒髪のショートヘアーが靡く。

 彼女がケースから取り出したヤマハ製のフォークギター。使い込まれた指板やピックガードには細かな擦れ傷や爪痕があり、彼女が何度もコードをかき鳴らした証がそこに残されている。淡く温かみのあるナチュラルカラーの木肌で、表板のスプルースは、電灯の無機質な光を受けて穏やかに艶めいた。

 薄暗い私と彼女の二人きり。

 私だけを見つめる彼女は、やっぱりどこか違って見える。まるで私のことを全て知っているように。「でも」と「やっぱり」を繰り返していくそんな私は、彼女についてまだ何も知らない。

 目と目を合わせるようにして、小さなナイトショーが、街の隅で始まった。


 「じゃあ、ここで一曲。『星と旅人』という曲を――ええっと、これは星の光と、それに見惚れた旅人を歌った曲だよ。旅人は自分勝手な性格で、星を追うけど、それがどこか愛おしくて、それは優しいの――」


 小さな風が止み、Gadd9のダウンピッキングで、曲が始まる。そこからは、Cadd9、D、Gadd9のエイトビートストロークを繰り返す旋律。

 どこか遠い果てを見つめているような黒い瞳を見ていると、こっちが吸い込まれていきそうで、私は、ただ見ることしかできない。

 きっとあの目は、夢に心奪われた者の目だ。音を奏でる彼女は、夜空の向こう、ただ一人きりで輝く、星の光みたいだ。曲が終わると、彼女はこう告げた。


 「私は、星になりたい。だって太陽は、こんな私には眩しすぎるから」


 眩しかった。ただ、一瞬。数字にすると三秒に満たない。だけど、そこは、彼女の世界だった。理屈なんて存在しない、直感と妄想と戯言で満たされた、ただ純粋すぎて、触れたら壊れそうな小さな世界が、当たり前のように広がっていた。

 「星になりたい」。なんて、もし本気で言ってるのなら。ただ自分に酔ってるだけだ。私以外の全ての人に無視され、知らない人が、知らんふりをして馬鹿にされるだけの、ただ意味のない言葉だ。

 だけど、それでもいいのだ。

 その世界に、その一言に、私は騙されたいのだ。そして、騙されていくのだ。


 「……ちょっと、緊張した。汗、かいちゃった」


 そんな彼女を見て、ただ率直に、綺麗だと感じてしまう。それは、自ら光を放って、輝く星みたいに、何にも揺るがない強さがある。

 この場で伝えたら、どう思うだろうか?

 ――ちょっと、緊張する。

 いつか、言えたらいいな。言えるには、あとどれくらいかかるだろうか。この空に浮かぶ星の寿命くらいだろうか。

 そう思うということは、私も脆くて、後で伝えられないことを後悔するタイプの人間なのだろう。

 だけど、私の日常はそれで充分なのかもしれない。

 これくらいの悩みがあれば、日々の輪郭はぼやけることなく、ゆっくりと続いていく。

 その思いの儚さに、私は感傷的になって、いつしか夜の匂いを辿っていた。

 その先に何があるかなんて知らないまま、足を止める理由も見つけられずに。


 ♦


 ポツポツとなる灰に似た雨は、全ての風景を暈していく。眺めていくと、心さえも滲んで消えていく、そんな感覚に陥ってしまう。

 半年後、日向の路上ライブはそこそこの人気を得た。来るとはいえ、五人か十人、あるいは二十人かそこら、だけど。


 「ごめんね。星羅。時間貰っちゃって」


 「うん。まだ、ライブまで時間あるし」


 「……私、ずっと考えてるの、あなたのこと。授業中も、家にいるときも、作曲しているときも」


 「日向。あなたを見ているだけで、私は幸せだよ」


 「そうなのかもしれない。あなたにとっては。だけど、私にとっての幸せは、あなたが傍にいてくれて、ただありふれた日々を送ってくれること」


 よからぬ雰囲気がした。なにかが、どっと押し寄せるような雰囲気だった。そしてそれは、確信へと変わった。


 「星羅、あなたが好き」


 「……」


 「理由なんてわからないけど、ただ、どうしたって、好きなんだ、全てが。あなたを愛していたい。傍にいてほしい。だから謝るよ。私は、星になれなかった。理由は、星が、あなたが、綺麗すぎたから」


 彼女は、涙を浮かべている。悲しいのか嬉しいのか、そのどちらでもないのか、その涙の理由が分からない。

 私は、彼女が好きだ。

 それは何者にも染まることのない、穢れのない、日向のことだ。

 無茶な屁理屈ばかり語って、それでも希望を見出す、純粋で美しい、夏来日向のことだ。


 「……私は、嫌だ」


 だけど、その瞬間、日向が泣きだした瞬間。「好き」と言った瞬間。その一瞬で、私は彼女を愛せなくなってしまった。

 その泣き顔は、私の愛する彼女を壊してしまった。私は、彼女の横顔が少しでも何かに汚されることを、どうしても許せなかったのだ。


 「分かってるよ。自分でも思うよ。こんなの馬鹿げてるって。でも、私はあなたとなら、何だってできる。それに、限りなんてないと思うの」


 違う。

 そんなのじゃない。

 苛立ちと、不甲斐なさと、呆れと、諦め。ぐちゃぐちゃな私の感情が、彼女を拒む。


 「……嫌だよ」


 「……何で?……私のこと、もしかして、嫌い?」


 「……違う。私だって、あなたが好き」


 「じゃあ、何で……」


 答えになっていない、なんて分かっている。それでも言う。

 終わってしまうこの恋を、糸を切るように終わらせるために。


 「あなたと私の『好き』は、同じだよ。だけど、だけどね。どうしようもなく、それは全てが違っているの」


 私は、彼女が好きだ。理由なんてちっぽけだ。

 あなたの歌を聴いていたい。もっと、ずっと。

 私の傍にいてほしい。

 あなたの歌を、あなたの側で聴き続けていたい。

 理由なんて、全部、同じだ。

 だけど、どこか違うのだ。

 彼女は、変わりたい。

 私は、彼女に変わってほしくない。

 今のままの彼女を、変わらず見守っていたい。

 彼女は、私が好きだ。

 私も、彼女が好きだ。

 だけど彼女には、私を好きでいてほしくなかった。

 夢を、夢のまま。変わることなく追い続けている彼女だけ、私は愛おしいと思える。

 私はそんな彼女を、「愛おしい」と思いながら、ただ、見ていたいだけなのに――

 彼女は、その境界線を越えようとする。

 きっとそれは、どこへも行けなくても、どこかへ行こうとする想いが、彼女にはあるからだ。

 彼女の顔は大粒の涙で溢れている。

 それを見て、涙を拭くことも、慰めることも、抱きしめることも、手を握ることすらできない。

 純白だった彼女の顔が涙で溢れているのを、私は見ることしかできなかった。だけどそれを見ることしかできない私が、ただ許せなかった。彼女を愛せないのは、私のせいだから。

 何もないから、もうどこへでもいけない。

 どうしようもなくなって、私は言う。


「……ずっと、あなたを、信じてた。信じてた、のに」


 「泣いても、意味なんてないよ」


 「……泣く以外に、何もできないんだよ」


 「……そんな顔なんて、見たくなかった。だから涙に意味なんてない」


 「よく、そんなこと、言えるよね」


 そう言って、日向は、私の頬を叩いた。


 「……あなたのせいだ」


 名も無き何もかも。

 目前の何もかもが、言葉にできないくらい、すっと消えていく錯覚。


「私が今泣いているのも、私があなたを好きなのも、そもそもこんな私になったのだって、全部、全部、あなたのせいだよ!」


 「……そうだね。私のせいだ」


 ああ、失うって、こんな感じなんだ。

 音を聴いては眠りにつく、とてつもなく軽い絶望――私の繰り返してきた日常みたいなものなんだ。


 「あなたのことなんて、大っ嫌いだ」


 私が日向を愛することができないのも、こんな捻くれた感情を突き刺してしまうのも――すべて、日向をずっと愛し続けているせいだ。

 どうしようもない矛盾。

 まるで意地悪な星座の線みたいに、繋げば繋ぐほど形を失っていく私たちの関係。

 私も彼女も、不器用に結ばれた歪なリボンみたいだった。強く縛りつけられたとしても、その結び目はきっといつか解ける運命なのだと、二人どこかで悟っていた。


 ♦


 私は、高校を退学した。理由なんて要らなかった。ただ、何をすればいいか分からなかった。

 どうでもいいと思った。別に。誰が、どう生きようか、なんて。毎日本気だったのだ。

 本気で普通に生きていたかったのだ。

 本気で普通に生きようとして、結果としてそれが出来なかっただけなのだ。

 だけど、時々思い出す。


 「私は、星になりたい。だって太陽は、こんな私には眩しすぎるから」


 そう彼女は言っていた。

 その言葉を思い出す度、吐き気がした。

 目眩がした。耳を塞いでもあの歌を思い出してしまうから、耳だけ引きちぎりたかった。どこへ逃げても彼女が心の中から出てくるから、消えてなくなりたかった。


 ――もう、終わりなんだ。どこへも行けやしない。全て、無かったことにして。

 一人で深夜の路地を歩く。誰もいない、ただの道。冷たく、暗く、何も無い道。

 私には、何も無い。何も無いから、もうそこにはなにもいらない。それだって、れっきとした、たった一つの世界だ。

 だけど、そんな世界もいつか、すぐに壊れてしまう。私は一度は拒んでしまった壊す理由を、ずっと探している。探すために、いつも誰かを追いかけている。

 変わっていくことはどうしても痛いのに、それを希望に満ちた優しい歌にしてくれる、臆病な私の世界を壊してくれる、そんな誰か。

 道端でギターの音が鳴っていた。それは、音と音が交じりあって、絡み合っている。悲観と楽観の両方を感じさせる音色。

 そして、歌が聴こえた。ずっと、心に閉じ込めていた、あの日のギターの音と、あの日の「星と旅人」と、あの日の声と、あの日出会った少女だった。


 ♦


 今夜もまた 星の幕が上っている

 時が経っても 僕は想っている

 夜が眠っている間 見届けていたい 

 君の手をとって 君と見ていたい

 いつか消えるまで そうあの頃みたいに

 

 急いだ足音が 重ねた足跡に変わって

 訳もわからないけど ただ先を急ぐんだ


 また 会えるかな

 また 思い出せるかな

 だけどまた 泣いてしまうかな

 離れ離れの君も 

 離れることのないこの星も

 伝えたさよならを 

 忘れられない想いに変えても


 ♦


 ただ想っていた。

 何も、いらなかったのだ。

 彼女さえいれば。

 何も、恨まなかったのだ。

 彼女さえいれば。

 何も、嫌いたくなかったのだ。

 彼女さえいれば。

 涙が、止まらなかった。どうあがいても、どう見つめても、彼女の横顔が綺麗すぎて、ただ涙を流すしかなかった。

 彼女の緩やかな優しさの音が、鼓膜と喉につき刺さって、思わず嗚咽をもらしてしまう。今まで溜まっていた苦しみを吐き出すように。何度も。何度も。

 あちらも、私に気づいたみたいで、寄り添うように近づいてくる。


 「ばーか」


 「……ごめん……ごめん……ほんとに、ごめんなさい」


 「……ふふっ、すごい泣き顔。なんか、じゃりじゃりしてる」


 「……うぅっ、日向、ごめん。私は、ただ……」


 「……泣いても、意味なんてないよ」


 彼女は私を抱き寄せる。優しく、暖かい彼女の体温が、私の冷たいだけの肌に移る。越えられない境界線に、足を踏み入れるみたいに。


 「……泣くこと以外、何もできないから。だからっ、だから私は、こんなに泣いているの」


 ああ、そうだ。私はただ、騙して欲しかっただけ。彼女に、騙されていたいだけ。この気持ちを、この涙を、この「好き」を。


 「……日向。私、知らなかった。『好き』は、こんなにも脆くて、ぼろぼろで、尊いものだってこと」


 ただ、寂しいのだ。

 日向がいないと。

 だから、縋っていたいんだ。甘えていたいんだ。優しさがほしいんだ。ずっと、一緒にいてほしいんだ。


 「……『許して』なんて、卑怯だけど。だけど、一つだけ……私は、あなたの傍にいたい、あなたの奏でる音を聴いていたい。あなたの歌声を、そばで聴いていたい。もっと、ずっと。願うなら、星より近くで」


 日向はゆっくりと頷く。そして更に、離れない、離さないように、私をぎゅっと抱き寄せる。


 「星羅が望むなら、私はなんにでもなる。何でもする。だから、私が望んだときは、こうやって、優しく抱き締めていてほしい」


 彼女は続けた。


 「あなたがいるから、私がいる。あなたが笑えるから、私だって笑える。あなたが泣いているから、私だって泣きたくなる」


 すでに瞳には、大粒の涙が溜まっている。それは、醜い砂利色でできたような、この世界で一番美しい泣き顔だった。


「星羅。好き。大好き」


 日向は「好き」なんて、他愛もなく言うけれど。

 「好き」という気持ちに「好き」という言葉をのせると、その心が壊れてしまいそう。

 だから、ひねくれ切った私は、彼女にこの言葉の束を渡す。色づいた花束みたいな、見えない恋の形を伝える、その代わりに。


 「約束して。あなたの音を聴かせて。私は、いつだってここにいるから」


 それは「愛」も「好き」も拒む私の、無意味で、無価値で、わがままで――触れたらそっと消えてしまうような、ちっぽけな想いだった。


「あなたが何も見えなくなって、苦しんでいるとき。私は、あなたの傍で光を灯していく、星になりたい」


 じりじりと明日が迫っている。

 彼女と共に今日を生きて、その全てが歌になる、そんな明日が。


 ♦︎


 高校を中退して、数年が過ぎた。

 多忙という言葉が、私の日常の中に居座っている。高卒認定試験のための勉強、掛け持ちバイト――何のために働いているのかはもうわからない。散々迷惑をかけてしまった両親への償いか、大学進学への資金か、それとも二人で暮らすための生活費か。

 理由が多すぎて、一つに絞り込めない。


 それでも、この世界は私の掌には抱えきれないほど沢山の物事で溢れている。

 見えるもの、感じるもの、耳にするもの、言葉では言い尽くせないもの。

 そのほんの一部が、私の日々を形作っていく。私はそのほんの少しのものだけで生きていける。そして、その中の多くは、一度尽きてしまうと、変わってしまう。高校中退から着なくなったブレザーはクローゼットの中で眠っているし、通学路の途中にあった喫茶店も、今ではけたたましいバールによって取り壊されている。

 だけど、変わらないものだってある。


「ライブあるからって、わざわざここまで来なくてもいいのに」


「なんかさ、日向をずっと気にしてしまうんだよね。あなたを見てるときはさ。心配と期待、センチメンタルと真新しさがせめぎ合うみたいな、そんな気持ちが混ざり合ってる」


 「……毎日演奏してても緊張は抜けないけどさ、今日のライブ、絶対成功させるって気持ちは変わらない。成功したら一つだけ、私の願い、聴いてくれる?」


 「……なんだってするよ。あなたがしたいことなら」


 「約束ね」


 「うん、約束」


 「……誰にも言わない?」


 「……言うわけないでしょ。そもそも、誰に言うのよ?」


 「……うん。よかった」


 「で?何して欲しいの?」


 「……えっと、そのぉ……疲れてたら、添い寝、かなぁ……」


 ライブハウス裏で、彼女が私に求めたものは、練習の付き添いじゃない。ただの私の体温。大きなため息をついた後、私は彼女の耳元に触れる。彼女の冷たい耳たぶに、私の手のひらの温度が伝染していく。触ると壊れそうな世界に、そっと手を伸ばすように。


 「あわっ、ちょっ、やめっ。めっちゃくすぐったい」


 「……理性保てる?こんな弱々で」


 「……絶対、大丈夫……多分」


 覚悟が必要なのはどっちだ。


 「……まあ、頑張って」


 「うん」


 そうして、私は彼女をそっと抱きしめる。


 「今日も、私の番だな」


 「……まだ何も言ってないのに」


 「じゃあ、明日は日向がしてよ」


 「……えっと、私が。そんなハグは……いや、そのね。肌の感触とか、手の温度とか……そういうの気にしちゃって、なんか、ね」


 「うわ」


 「……いや、決してそういうのでは」


 「別に、そういうのも、していいよ。もし、日向が出来るのなら。良い曲聴かせてくれるみたい、その勇気があるのなら」


 「……じゃあ、もっと、そういう……妄想を、曲にすればいいの? 私、あんまりわかんないんだけど 」


 あほくさ。まあ、中卒の私が言えることじゃないけど。


 「あーもう。わかったわかった。どーせ出来ないんだから。集中集中。私、楽しみにしてるから」


 「……ごめん。変なこと言って」


 「……別にいいよ。あなた、元から変だし」


 「うん」


 「おー、認めた。さすが天然なだけある」


 「……あっ、そうじゃないの。私もライブ頑張るから、あなたも頑張って、っていう意味」


 「うん、知ってる。そう言われると、なんか頑張れる」


 ――そう。私はそのほんの少しのものだけで、生きていける。  

 たとえ二人きり泣きじゃくって、目の前が見えなくなっても――

 何も変わらなくていい。

 何も欲しがらなくていい。

 何も怖がらなくていい。

 間違いだらけかもしれない。だから、こんなことに意味なんてないのかもしれない。

 だけど、今はそれが全て。

  あるがままを、ただ、ありのままで――その全てに、二人だけの嬉しさも悲しさを乗せていけば、それでいい。

 ただ音を奏でながら、どこへだって逃げていけるように。

 漠然とした世界をゆっくりと漂いながら、その世界のどこへだって駆け出していけるように。何も見えない夜空に星の光を灯すみたいに、強がりの涙を流して。私たちはきっと、何もかも乗り越えられる。


「歌わないと落ち着かない。でもいざ歌っても、やっぱりドキドキして……そんな気持ちを、次は歌にして届けたい」


 歌声が今日も鳴り止まない。それは星に憧れて、星を好きになって、その傍にいることを決めた少女の歌声。歌って、惹かれて、騙して、また泣いて、そして笑う。悩ましき想いは、まだまだ物足りないようだ。

 

「ねえ星羅、いきなりだけど、星の寿命は百億年あるらしい」


「……だから?」


「私が消えても、星は煌めき続けるの」


 幸せの定義も筒抜けになるような、平凡でつつがない日々は、ただただ繰り返していくだけだ。こう考えるのも億劫だけど――もしもいつか、大きな困難に行き着いたとしたら。そこにある想いは色褪せて、いつか劣化していくのかもしれない。

 それでも。

 絶対に。星は、いつまでも輝き続ける。

 そう信じていく。

 そう信じながら生きて、音の鳴るほうへ近づいていく。

 何も見えないこの夜空に、微かな光を灯すみたいに。その光さえあれば――私は、普通の日常を、ただ精一杯に生きていけるから。


「私はそんな星の光みたいな歌を、あなたに聴いてほしい」


 ああ、そうやって、小さな世界の中で、二人で光を灯そう。いつまでも消えない、ちっぽけで惨めで、綺麗な星の光を。


「チューニング完了。それじゃ、リハ、行ってくるね!」


 ――もしもこの世界が私が生きている日常だとするならば、夜空はライブハウスで、星はあなたが紡いだ言葉と音符たちだ。


 パーライトの白光に包まれた日向の背中。

 歌声が響く前の、煌めくアルペジオ。耳に馴染んだその音が、暗い世界の中で、夏の始まりを告げる。

 そしてまた、ゆっくりと夜は流れていく。


「これはの一曲目。『恒星』!」


 今日も彼女は、 私の星になって――囁くように光を灯していく。

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