星を灯す

一ノ宮ひだ

星を灯す

「ねえ、星羅、知ってる?星の寿命ってさ、百億年もあるらしいよ」


「」


「だからさ、どんなに小さくても、星は輝き続けてるんだよ。私たちには想像もできない、遠いどこかで」


「私たちが生きている限り、星は消えないでいるの」


 ✭


 マスロックのメロディーを詰め込んだヘッドホン。シングルコイルと思わしき音色の束が、夏特有の冷気を放つ。その冷たさに寝起きの目は刺激され、ページの止まった音楽雑誌の続きをめくり始める。

 だけど、それにも飽きていくので、結局天井と睨めっこしながら家に籠っていく。

  寝ては聴いて、そして読んで、そして飽きて、また狂った様に聴いて――ただ、それをずっと繰り返す。

 音楽を聴くしか脳がない女子高校生の、夏休みの一日。

 何も得られるものがないから、毎日というのはとてつもなく軽い絶望みたいなものだ。

 

 夢や目標なんてない。学力も身体能力も、そこまで高くない。政治もスポーツも、色恋沙汰にだって何ら興味はない。

 だけど音楽だけは死ぬほど聴いてきた。だから、シューゲイザーとオルタナティブ、それにグランジは私の精神安定剤で、それらがないと死んでしまうのではないかと本気で思う。大抵こういう類の話は、同級生の誰も知らないから、誰とも話せない。話す気になれない。

 犬ほど利口ではなくて、かと言って猫ほど自由気ままでもない。私は、何者にもなれない不器用な人間だ。

 それでも、毎日本気で――

 本気で普通に生きているのだ。

 本気で普通に生きて、引きこもる夏休みを過ごしているだけだ。

 今まで、何があっただろう。

 何を、得てきただろう。

 何が、私にはできるだろう。

 最後には、こんな抽象的で否定交じりの自問自答で自己陶酔する。

 それにも飽きると、閉塞感であふれた部屋を抜け出して、重い足を動かし、ようやく街に出る。

 暑さは嫌いだ。汗ばんだ肌がインナーに吸い付くのが嫌いだから。だけど、汗ばんだ肌を見るのは好きだ。それは、本気で何かをやっている証みたいなものだから。

 夜の街は好きだ。歩いているだけで、昼間の風景とは全く違うから。それは別世界にいるのかと思えるほど、暗くて、冷たくて、全てを失っていて。

 何も無いは、何でもできるから、私にとってそれは自由だ。

 このどこにも行けないような雰囲気が、私にとっての幸福なのだ。

 気分をハイにするために、眼鏡を外す。世界の輪郭がぼやけて、境界線が曖昧になって、次第に全部が一つになっていく。

 ここには、何も無い。何も無いから、もうそこにはなにもいらない。

 深夜徘徊は、私にとっての本気の――たった一つの世界なのだ。

 そんな中、ある少女を見かけた。重そうなギターケースを左手に持ちながら、キョロキョロしてる女の子。

 見覚えがある。眼鏡をかけ直し、彼女を凝視する。


 同じクラスの同級生。

 夏――なんて名前だったっけ。すごく、綺麗な名前だったことは覚えている。

 誰かと話しているところは見たことない。だけど、童顔ショートヘアーの凛々しげなルックスがやたら印象に残っている。キメ細かい白い肌からは、ダウナーの空気があって、確かにギター弾いてそうな雰囲気ではある。

 面白そうなので、後をつけてみることにした。


 「……ひっ」


 二十数歩歩き続けた後、彼女は素っ頓狂な声を上げた。


 「……」


 「……いや、その、幽霊?」


 「幽霊って言うな」


 「えっと、クラスが同じの……何さん、やっけ?」


 「……夜野星羅やのせいら


 「……えっと、星羅さん。私は夏来日向なつきひなたっていいます」


 「知ってる」


 「あっ、はい」


 「それと、星羅、でいい。一応タメだから、さんはいらない」


 「……いや、いきなり呼び捨てとか……無理だよ。だってあなたの声、今初めて聴いたし」


 「うるさい。根暗で悪かった、もう」


 「……いや、ごめん、星羅。突然だけど、変なこと、言ってもいい?」


 何かしら詫びるだろうと思っていたのに、この子はあっさり認めた風の返事をしやがった。


 「何?」


 「……私、ギター弾けるんだ」


 「……そりゃ、ギター持ってるから分かるよ」


 「……あっ、そっか。私、担いでたね」


 「えぇ……」


 すごい、天然だ。

 なんか関わりたくない。けど、彼女を見ているのは面白そうなので、やっぱりついていくことにする。


 「どんな音楽聴くの?」


 「……いや、まあ。シューゲイザー、とか」


 「……しゅーげいざー?シュークリームの派生品、みたいな?」


 「分かった。もういい、もういいから」


 何でこういうとき、こういう話になると私が恥をかかなきゃならないんだ。


 「で、今から、どこ行くの?」


 「どこにも行かないよ」


 「……じゃあなんで一人でテクテク歩いてるのよ、こんな深夜に」


 「ただ、歩いてるだけだよ」


 「どこにも行かないんじゃないの?」


 「……うん、どこにも行かないよ。だけど、どこにも行けないから、『どこへだって行ける』って思いたいの」


 やっぱり天然だ。


 「……そんな訳で今から、弾き語りライブするから。良かったら聴いてってよ」


 だけど、この一言で、彼女の雰囲気が少しだけ変わったような気がした。


 ❀


 「何で弾き語りを始めようと思ったの?」


 「……大した理由なんてないよ。私は、逃げたいの。どこか遠くへ。なんか、今起こってることをずーっと考えるのって、疲れちゃうじゃん。どこにも行けないというのが事実だったとしても、『どこかに行きたい』という思いはあり続けるから」


 答えになっていない。


 「だから私、嬉しいんだよ。こんな真夜中に聴いてくれる人が、解ってくれる人が、ずっと隣にいるってことが」


 あまりにも真っ直ぐすぎる言葉は、心がムズムズするから、その行先を曲げたくなってくる。


 「共犯者って、こと?」


 だから、うまい言葉を使って、ねじ曲げるように話をはぐらかした。


 「きょーはんしゃ?」


 「……言い換えると、日向って、すごく、かっこいいねってこと」


 「……えっ?」


 「いや。ほんとうに。私、驚いた」


 「いや。そんな、別に」


 「……すごい顔赤いけど、大丈夫?」


 「……えっ、いや、だって。そんな、同じクラスの子にかっこいいなんて言われたら、照れるというか恥ずかしいというか」


 「……かっこいい。けど、かわいいね」


 「もう、かっこいいとかかわいいとか、言い過ぎ」


 やっぱりこの子、馬鹿だ。

 そう思ったとき、夜風が靡いた。

 少し埃ばんだ、大人の匂いの混ざった夜の匂い。彼女の清々しいまでに黒髪のショートヘアーが靡く。黒髪のショートヘアが蛍光灯の無機質な光を反射させる。

 そして、彼女は前を見た。

 前を向いた彼女は、やっぱりどこか違って見える。

「でも」と「やっぱり」を繰り返していくそんな私は、彼女についてまだ何も知らない。

 そして、薄暗い私と彼女の二人きり。見つめ合うようにして、小さなナイトショーが始まった。


 「じゃあ、ここで一曲。『星と旅人』という曲を――ええっと、この曲は星の光と、それに見惚れた旅人を歌った曲だよ。旅人は自分勝手な性格で、星を追うけど、それがどこか愛おしくて、それは優しいの――」


 小さな風が止み、Cコードのダウンピッキングで、曲が始まる。そこからは、G、Am、Emと、王道のカノンコードだ。

 今まで、飽きるほど聴いていた――王道すぎて耳が拒んでいたこの旋律。

 どこか遠い果てを見つめているような黒い瞳を見ていると、こっちが吸い込まれていきそうで。私は、ただ見ることしかできなかった。

 きっとあの目は、夢に心奪われた者の目だ。太陽の熱気と光に日常を拒まれた者にしか見えない――音を奏でる彼女は、夜空の向こう、ただひとりきりで輝く、星の光みたいだった。

 曲が終わると、彼女はこう言った。


 「私は、星になりたい。だって太陽は、こんな私には眩しすぎるから」


 眩しかった。ただ、一瞬。数字にすると三秒に満たない。だけど、そこは、彼女の世界だった。理屈なんて存在しない、直感と妄想と戯言で満たされた、ただ純粋すぎて、触れたら壊れそうな小さな世界が、当たり前のように広がっていた。

 ――「星になりたい」。なんて、もし本気で言ってるのなら。ただ自分に酔ってるだけだ。私以外の全ての人に無視され、知らない人が、知らんふりをして馬鹿にされるだけの、ただ意味のない言葉だ。

 だけど、それでもいいのだ。

 その世界に、その一言に、私は騙されたいのだ。

 そして、騙されていくのだ、きっと、ずっと。


 「……ちょっと、緊張した。汗、かいちゃった」


 そんな彼女を見て、ただ率直に、綺麗だと感じてしまう。

 この場で伝えたら、どう思うだろうか?

 ――ちょっと、緊張する。

 私も彼女も、きっと脆くて。

 後できっと後悔するタイプの人間だ。

 だけど、一つ、想うことがあった。

 ――きっと、私の日常は、これくらいの悩みがあれば、色づいていく。


 その想いの儚さに、私は感傷的になって、いつしか夜の匂いを辿っていた。


 ♦


 ポツポツとなる灰に似た雨は、全ての風景を暈していく。眺めていくと、心さえも滲んで消えていく、そんな感覚に陥ってしまう。

 半年後、日向の路上ライブはそこそこの人気を得た。来るとはいえ、五人か十人、あるいは二十人かそこら、だけど。


 「ごめんね。星羅。時間貰っちゃって」


 「うん。まだ、ライブまで時間あるし」


 「……私、ずっと考えてるの、あなたのこと。授業中も、家にいるときも、作曲しているときも」


 「日向。あなたを見ているだけで、私は幸せだよ」


 「そうなのかもしれない。あなたにとっては。だけど、私にとっての幸せは、あなたが傍にいてくれて、ただありふれた日々を送ってくれること」


 よからぬ雰囲気がした。なにかが、どっと押し寄せるような雰囲気だった。そしてそれは、確信へと変わった。


 「星羅、あなたが好き」


 「……」


 「理由なんてわからないけど、ただ、どうしたって、好きなんだ、全てが。あなたを愛していたい。傍にいてほしい。だから謝るよ。私は、星になれなかった。理由は、星が、あなたが、綺麗すぎたから」


 彼女は、涙を浮かべている。それは、今日の曇り空にも似た、砂利色の泣き顔だった。


 私は、彼女が好きだ。

 それは何者にも染まることのない、穢れのない、日向のことだ。

 無茶な屁理屈ばかり語って、それでも希望を見出す、純粋で美しい、夏来日向のことだ。


 「……私は、嫌だ」


 だけど、その瞬間、あなたが泣きだした瞬間。「好き」と言った瞬間。その一瞬で、私は彼女を愛せなくなってしまった。

 その泣き顔は、私の愛する彼女を壊してしまった。私は、彼女の横顔が少しでも何かに汚されることを、どうしても許せなかったのだ。


 「分かってるよ。自分でも思うよ。こんなの馬鹿げてるって。でも、私はあなたとなら、何だってできる。それに、限りなんてないと思うの」


 違う。

 そんなのじゃない。

 苛立ちと、不甲斐なさと、呆れと、諦め。ぐちゃぐちゃな私の感情が、彼女を拒む。


 「……嫌だよ」


 「……何で?……私のこと、もしかして、嫌い?」


 「……違う。私だって、あなたが好き」


 「じゃあ、何で……」


 答えになっていない、なんて分かっている。それでも言う。

 光のない彼女に、終わりをつけるために。


 「あなたと私の『好き』は、同じだよ。だけど、だけどね。どうしようもなく、それは全てが違っているの」


 私は、彼女が好きだ。理由なんてちっぽけだ。

 あなたの歌を聴いていたい。もっと、ずっと。

 私の傍にいてほしい。

 あなたの歌を、あなたの側で聴き続けていたい。

 理由なんて、全部、同じだ。

 だけど、どこか違うのだ。

 彼女は、変わりたい。

 私は、彼女に変わってほしくない。

 今のままの彼女を、変わらず見守っていたい。

 彼女は、私が好きだ。

 私も、彼女が好きだ。

 だけど彼女には、私を好きでいてほしくなかった。

 夢を、夢のまま。変わることなく追い続けている彼女だけ、私は愛おしいと思える。

 私はそんな彼女を、「愛おしい」と思いながら、ただ、見ていたいだけなのに――

 彼女は、その境界線を越えようとする。

 きっとそれは、どこへも行けなくても、どこかへ行こうとする思いが、彼女にはあるからだ。

 彼女の顔は大粒の涙で溢れている。

 それを見て、涙を拭くことも、慰めることも、抱きしめることも、手を握ることすらできない。

 純白だった彼女の顔が涙で溢れているのを、私は見ることしかできなかった。だけどそれを見ることしかできない私が、ただ許せなかった。彼女を愛せないのは、私のせいだから。

 何もないから、もうどこへでもいけない。

 どうしようもなくなって、私は言う。


「……ずっと、あなたを、信じてた。信じてた、のに」


 「泣いても、意味なんてないよ」


 「……泣く以外に、何もできないんだよ」


 「……そんな顔なんて、見たくなかった。だから涙に意味なんてない」


 「よく、そんなこと、言えるよね」


 そう言って、日向は、私の頬を叩いた。


 「……あなたのせいだ」


 名も無き何もかも。

 目前の何もかもが、言葉にできないくらい、すっと消えていく錯覚。


「私が今泣いているのも、私があなたを好きなのも、そもそもこんな私になったのだって、全部、全部、あなたのせいだよ!」


 「……そうだね。私のせいだ」


 ああ、失うって、こんな感じなんだ。

 音を聴いては眠りにつく、とてつもなく軽い絶望――私の繰り返してきた日常みたいなものなんだ。


 「あなたのことなんて、大っ嫌いだ」


 私が日向を愛することができないのも、私がこんな捻くれた感情を突き刺せるのも。ずっと愛し続けている日向のせいだ。

 

 私も彼女も、歪な形に結ばれてたリボンみたいに不器用で。一度強く縛られても、いつか解けてしまう運命だと心に刻んだ。


 ❀


 私は、高校を退学した。理由なんて要らなかった。ただ、何をすればいいか分からなかった。

 どうでもいいと思った。別に。誰が、どう生きようか、なんて。毎日本気だったのだ。

 本気で普通に生きていたかったのだ。

 本気で普通に生きようとして、結果としてそれが出来なかっただけなのだ。

 だけど、時々思い出す。


 「私は、星になりたい。だって太陽は、こんな私には眩しすぎるから」


 そう彼女は言っていた。

 その言葉を思い出す度、吐き気がした。

 目眩がした。耳を塞いでもあの歌を思い出してしまうから、耳だけ引きちぎりたかった。どこへ逃げても彼女が心の中から出てくるから、消えてなくなりたかった。

 ――もう、終わりなんだ。どこへも行けないのだ。全て、無かったことにでもして、閉じこもるんだ。

 一人で深夜の路地を歩く。誰もいない、ただの道。冷たく、暗く、何も無い道。

 私には、何も無い。何も無いから、もうそこにはなにもいらない。それだって、れっきとした、たった一つの世界なのだ。

 ギターの音が鳴っていた。それは、音と音が交じりあって、絡み合っている。悲観と楽観の両方を感じさせる音色。

 そして、歌が聴こえた。ずっと、心に閉じ込めていた、あの日の星の歌と、あの日の少女だった。


 星はまだ、綺麗だ

 だけど、いつか消える

 だから急がなくちゃ

 まだ、許してくれるかな

 まだ、覚えていてくれるかな


 私は、ただ想っていた。


 何も、いらなかったのだ。

 彼女さえいれば。

 何も、恨まなかったのだ。

 彼女さえいれば。

 何も、嫌いたくなかったのだ。

 彼女さえいれば。


 涙が、止まらなかった。どうあがいても、どう見つめても、彼女の横顔が綺麗すぎて、ただ涙を流すしかなかった。

 彼女の緩やかな優しさの音が、鼓膜と喉につき刺さって、思わず嗚咽をもらしてしまう。今まで溜まっていた苦しみを吐き出すように。何度も。何度も。

 あちらも、こっちに気づいたみたいで、寄り添うように近づいてくる。


 「ばーか」


 「……ごめん……ごめん……ほんとに、ごめんなさい」


 「……ふふっ、すごい泣き顔。なんか、じゃりじゃりしてる」


 「……うぅっ、日向、ごめん。私は、ただ……」


 「……泣いても、意味なんてないよ」


 彼女は私を抱き寄せる。優しく、暖かい彼女の体温が、私の冷たいだけの肌に移る。越えられない境界線に、足を踏み入れるみたいに。


 「……泣くこと以外、何もできないから。だからっ、だから私は、泣いているの」


 ああ、そうだ。私はただ、騙して欲しかっただけ。彼女に、騙されていたいだけ。この気持ちを、この涙を、この「好き」を。


 「……日向。私、知らなかった。『好き』は、こんなにも脆くて、ぼろぼろで、尊いものだってこと」


 ただ、寂しいのだ。

 日向がいないと。

 だから、縋っていたいのだ。甘えていたいのだ。優しさがほしいのだ。ずっと、一緒にいてほしいのだ。


 「……『許して』なんて、卑怯だけど。だけど、一つだけ……私は、あなたの傍にいたい、あなたの奏でる音を聴いていたい。あなたの歌声を、そばで聴いていたい。もっと、ずっと。願うなら、星より近くで」


 日向はゆっくりと頷く。そして更に、離れない、離さないように、私をぎゅっと抱き寄せる。


 「星羅が望むなら、私はなんにでもなる。何でもする。だから、私が望んだときは、こうやって、優しく抱き締めていてほしい」


 彼女は続けた。囁くように笑って、泣いて。


 「あなたがいるから、私がいる。あなたが笑えるから、私だって笑える。あなたが泣いているから、私だって泣きたくなる」


 すでに瞳には、大粒の涙が溜まっている。それは、醜い砂利色でできた、この世で一番美しい泣き顔だった。

 日向は「愛」だとか「好き」だとか、他愛もなく言うけれど。

 「好き」という気持ちに「好き」という言葉をのせると、その心が壊れてしまいそうだから――

 ひねくれ切った私は、ここに来ても言いたくなかった。

 だから、その代わりに私は言う。


 「約束して。ずっと、あなたの音を聴かせて。私は、ここにいるから」


 それは「愛」も「好き」も拒む私の、無意味で、無価値で、わがままで――触れたらそっと消えてしまうような、ちっぽけな想いだった。


「あなたが何も見えなくなって、苦しんでいるとき。私は、あなたの傍で光を灯していく、星になりたい」


 ♦


 そんな出来事があって、数年が過ぎた。

 この世界には多くのものがある。見るもの、感じるもの、耳にするもの、その他諸々。

 その中にあるもののほんの一部が、私の生活を形作っていく。私はそのほんの少しのものだけで生きていける。そして、その中の多くが変わっていく。高校中退からブレザーも着なくなったし、通学路の途中にあった喫茶店も、今ではけたたましいバールによって取り壊されている。

 だけど、変わらないものだって、きっとある。


 「ライブ絶対泣かすから、覚悟してよ。もし泣いたら、一つだけ私の願いを叶えること」


 「……なんだってするよ。あなたがしたいことなら」


 「約束ね」


 「うん、約束」


 「……誰にも言わない?」


 「……言うわけないでしょ。そもそも、誰に言うのよ?」


 「……うん。よかった」


 「で?何して欲しいの?」


 「……えっと、そのぉ……疲れてたら、添い寝、かなぁ……」


 彼女が求めたのは、馬鹿みたいな甘やかし。セッションでもカラオケでも、練習の付き添いでもなかった。大きなため息をついた後、私は彼女の耳元に触れる。触ると壊れそうな世界に、そっと手を伸ばすように。


 「あわっ、ちょっ、やめっ。めっちゃくすぐったい」


 「……理性保てる?こんな弱々で」


 「……絶対、大丈夫……多分」


 覚悟が必要なのはどっちだ。


 「……まあ、頑張って」


 「うん」


 そうして、私は彼女にハグをする。


 「今日も、私の番だな」


 「……まだ何も言ってないのに」


 「じゃあ、明日は日向がしてよ」


 「……えっと、私が。そんなハグは……いや、そのね。肌の感触とか、手の温度とか……そういうの気にしちゃって、なんか、ね」


 「うわ」


 「……いや、決してそういうのでは」


 「別に、そういうのも、していいよ。もし、日向が出来るのなら。良い曲聴かせてくれるみたい、その勇気があるのなら」


 「……じゃあ、もっと、そういう……妄想を、曲にすればいいの? 私、あんまりわかんないんだけど 」


 あほくさ。まあ、高校退学する私が言えることじゃないけど。

 震えてビクビクしてる、ひきつった笑顔の日向。ゲンコツ代わりに頭を撫でてあげる。


 「あーもう。わかったわかった。どーせ出来ないんだから。ライブに集中。私、感想聞くの楽しみにしてるから」


 「……ごめん。変なこと言って」


 「……別にいいよ。あなた、元から変だし」


 「うん」


 「おー、認めた。さすが天然なだけある」


 「……あっ、そうじゃないの。私もライブ頑張るから、星羅も夜勤、頑張って、っていう意味」


 「うん、知ってる。そう言われると、頑張れる。じゃあ終わったら、いつも通りここで会おう」


 ――そう。私はそのほんの少しのものだけで、生きていける。  

 二人きり泣きじゃくって、目の前が見えなくなっても――


 何も変わらなくていい。

 何も欲しがらなくていい。

 何も怖がらなくていい。

 間違いだらけかもしれない。だから、こんなことに意味なんてないのかもしれない。

 だけど、今はそれが全て。

  あるがままを、ただ、ありのままで――その全てに、二人だけの嬉しさも悲しさを乗せていけば、それでいい。

 ただ音を奏でながら、どこへだって逃げていけるように。

 漠然とした世界をゆっくりと漂いながら、その世界のどこへだって駆け出していけるように。何も見えない夜空に星の光を灯すみたいに、強がりの涙を流して。私たちはきっと、何もかも乗り越えられる。


「歌わないと落ち着かない。でもいざ歌っても、やっぱりドキドキして……そんな気持ちを、次は歌にして届けたい」


 歌声が今日も鳴り止まない。それは星に憧れて、星を好きになって、その傍にいることを決めた少女の歌声。歌って、泣いて、騙して、また泣いて、そして笑う。悩ましき思いは、まだまだ物足りないから。

 つつがない日々は、ただただ繰り返していく。

 もしもある日、大きな困難に行き着いたとしたら。そこにある想いは色褪せて、いつか劣化していくのかもしれない。

 それでも、絶対に。星は、いつまでも輝き続ける。

 その光さえあれば――私は、普通の日常を、ただ精一杯に生きていけるのだ。


「二人で光を灯そう。いつまでも消えない、小さくて惨めで、綺麗な星の光を」


 なんて言えたら、私は――

 ……言葉は嘘じゃないけど、やっぱり落ち着かない。


 今日も彼女は、 私の星になって――囁くように光を灯していく。

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