第30話 小金持ちのある日 (下)
シオンがクランハウスを借りてからクリスと一緒に高額な買い物を行った翌週。
「何だこれ」
「何って、あんたが出せって言ったんじゃない。分かる範囲で書いたレポートよ」
首を傾げるシオンと自慢げな顔でレポートを提出したアメイジア。確かにシオンは現在のラクシャミル姉妹の薬学の修得具合を確かめるためにレポートを出してほしいと言った。そのことを考えた上でシオンはレポートを見て再度首を傾げた。
「……ペスティーシャのところで多少は勉強してたと聞いたんだが」
「してたわよ」
「して、これ?」
「何よ。文句があるならはっきり言ってくれる?」
「……分かった。現在の君たちの魔術や薬に対する理解度がよくわかる素晴らしいレポートだと言っておこう」
シオンが見た薬のレポートはまるで家庭料理のレシピを自分用に適当にまとめたようなものだった。材料は1株や1本など出来なりで精製方法も強火で煮る。などというかなり大雑把なまとめで、効能については患者の最終的な感想一つと来たものだから内容はお察しだ。
しかし、酷い目に遭ってまで手に入れた知識を馬鹿にされたと感じたアメイジアは怒り心頭だ。
「なによ。それだけ言うんだからあんたはもっと凄いんでしょうね? 目分量とかでやってるって言ったらただじゃおかないんだから」
「そんな天才的なことは出来ない。俺にはせいぜい他の人が開拓して整備した正しい方法をゆっくりなぞるので精一杯だ」
ただ、とシオンは続ける。
「君たちにはそういった方法からまず頑張ってもらう必要がある。新薬開発や新魔術開発より先に広く一般的な治療を覚えて貰わないといけないからな。己の非才は重々承知だが、せめて道があるかないかぐらいは教えたい」
「ふーん、まぁ教えてくれるなら何でもいいわ。実験道具は簡単なのしかないけど、どうするの?」
「実験道具どころじゃないだろ。まずは座学からだ。魔学を筆頭に薬学の基礎となる各種化学の類を基礎の基礎から教えていく必要があるからな」
「何だかわからないけどまぁやってやろうじゃない」
やる気を覗かせるアメイジア。やる気があることだけは分かったシオンは基礎から教えるとは言ったもののどこから教えるべきか悩む。
(元難民でスラム育ちだろ? 控え目に見積もって……)
「取り敢えず確認だ。気を悪くしないでほしいが加減乗除は出来るか?」
「かげんじょーじょ?」
「……足し算、引き算、掛け算、割り算」
「出来るわよ!」
憤慨するアメイジアだが、比較的簡単な言葉の意味も危ういことを考えると小学生レベルから教える必要がありそうだ。シオンは計画を改めにかかる。
(……いや、流石に小学生レベルの内容を事細かに正しくは覚えてないぞ。やっぱり魔術でごり押ししてなんとかするか? ただ、たくさんの人を救いたいっていう本人たちの意向を鑑みて費用対効果を考えると魔薬の方が効率いいんだよなぁ)
小学生レベルから大学生レベルまでの基礎範囲をある程度取捨選択してでも教えるとなるとどう考えても十年以上はかかる。更にそこから実用的な魔術や魔薬学を習得していくとなるとどれだけ少なく見積もっても十五年はかかりそうだ。
そう見積もるシオンの前でアメイジアはこの世界で一般的らしい九九のようなものを披露している。日常生活は大丈夫なのかと不安になるレベルだが、スラムの時代に算数はあまり使うことはないだろうし、基本労働に従事する奴隷にも不要だ。貴族になってからは自分で計算する必要もない。
(支払いはギルドカードで行えば自動だしな)
「どうよ。掛け算が出来るんだから割り算も出来るわ」
「分数や小数についても問題ないか?」
「……あんまり得意じゃないけど出来ないわけじゃないわ。舐めないで」
「うーん……どうするか。正直、薬学については専門知識がある訳じゃないからある程度までしか教えられないんだよな。やっぱり魔学でごり押しすべきか?」
分数で躓いている状態で化学を叩きこむくらいであればまだ体感的に習得出来る魔学の方に力を入れるべきか。美女や美少女と長く一緒にいられることよりも睡眠の方が大事なシオンは真剣に悩む。
ただ、目の前の美少女様はそんなシオンに対してきっぱりと言い切った。
「必要があることなら全部教えてくれないかしら?」
「……全部、ねぇ」
そう言われても困る。そもそも現在のシオンの元の身体の持ち主であるシオン・ラムダ君は無能と言われていたが、意外にも魔力視以外の様々な分野における造詣が深いのだ。それによって前世の知識を十全に活かしているシオンがいる。
貴族の仕事や嗜みなどを放り投げて自分の知識欲や物欲を満たしていたシオン君は確かに貴族としては不適格だが、一人の人間としてはかなりの知識量を誇っていた。
それらの知識も回復術に活かしている今のシオンとしては必要なことを全て教えるとなれば前世での基礎教育に加えて今世での教養を教える必要があるのだ。
そう考えれば十年、二十年どころではない。シオンが難しい顔になって先のことを考えているとアメイジアが不満気に言った。
「何よ。不満があるの?」
「……そもそも、医学と傷病の類との戦いは終わりがないからどこまで教えればいいのかと思ってな」
「そんなの一人前になるまでよ!」
「いや、俺が半人前の知識しか持ち合わせてないんだよ。基本は魔術でのごり押しで薬学は中途半端な知識しかない。魔学だって……」
少なくとも前世における自分が所属していた会社ではそうだった。彼は落ちこぼれで何をやっても中途半端。自主退職を選ぶことになる最後の方は庶務の中でも雑用を押し付けられるような立場だったのだ。
そんな中途半端な自分が教鞭を揮うとなるとかなり気が引けてきたが、アメイジアはそうは思わないようだ。
「でも、あんたそれでもお姉を治したじゃない。それにカナリアもクリスちゃんもあんたの回復魔術や薬に対する知識を絶賛してたわ」
「……ああいうのはただの外傷や一般的な生体反応に対する治療だからな。媚薬についても原因療法というよりは基本的に対症療法で後は身体の免疫に任せた感じになるし」
「よくわかんないけど治したのは事実でしょ? だったらそれを教えてくれればいいのよ」
「いや、教えはするが……まぁいいか」
正直、半人前の知識でどこまで教えたらいいか悩むが、逆に言ってしまえば半人前の知識すらない相手なのだからどこからどう教えても問題ないということだ。
シオンはそう思い直してアメイジアに告げる。
「じゃあ、方針が決まったところで俺は寝るから」
「はぁ? 今日から教えてくれるって言ったじゃない!」
「いや……レポート見て思ってたのと違うから教える内容を考え直さないといけないし」
「む……なら仕方ないわね」
シオンが思っていたよりも自分たちのレベルが低いらしいという事実にアメイジアは悔しさを滲ませながらもなんとか飲み込んだ。そんな彼女にシオンは追い打ちをかける。
「俺が教えるのは昼前の60分と午後の90分だ。そして祝日や安息日は休む」
「いっつもぐうたらしてるんだから安息日はまだしも祝日は教えなさいよ! あんたそんな信心深い人間でも愛国心溢れる人間でもないでしょ!」
抗議するアメイジアにシオンは気怠そうに告げる。
「確かに国教も王国もどうでもいいが、休みには忠実に従いたいんだ」
「クリスちゃんを少しは見習いなさい!」
「あいつは……変わってる奴だから」
「呆れるわ……そんなに暇を持て余して何が楽しいの? 人間はすぐに死んじゃうのよ? そんなに寝てばかりいたらあっという間よ!」
動ける内に動けることを楽しんでおくべきだと主張するアメイジアだが、シオンはまともに取り合わない。
「そもそも別に楽しいことがないし……」
「だったら楽しみを見つけなさいよ」
「分かった分かった。その内な」
「……言ったわね? 言ったからには守らせるから」
アメイジアは回復術や治療術を教えて貰う代わりにシオンの人生を彩りあるものにしてあげよう。彼女はそう決めて取り敢えず今日は苦手な算数の復習に取り組む。
そんな彼女たちの相手が義務付けられていることにシオンは面倒臭いと思いつつも楽して金儲けをするために少し目を瞑って新生活を始めることにするのだった。
追放貴族は不労希望 古人 @furukihito
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