夜に灯る明かり

令狐冲三

夜に灯る明かり

 夜更けのカフェは閑散として、観葉植物の大きな葉の向こうに、青白い電灯の光を受けて、背中を丸めた年配の男がひとり座っているだけだった。


 日中はそれなりに暖かかったが、日が暮れるとたちまち冷え込んだ。 


 孤独な男はいつも、こうして同じ席に陣取って夜遅くまで飲んでいた。 


 店の奥から二人のウェイターが、遠巻きに男の様子を見守っていた。 


 男は耳が遠いため、たまに勘定を払わず出て行ってしまうので、しっかり見張っている必要があった。


 若い方のウェイターがうんざりした口調で吐き捨てた。 


「こないだ、あのとっつぁん自殺しようとしたらしいぜ」 


「知ってるよ。根も葉もない噂だ」 


「それがそうでもないらしい」 


「信じられんな。だって、あれで結構な金持ちなんだぜ。何で自殺なんかする?」 


「俺が知るもんか。とにかく死のうとしたんだ」


 二人のウェイターは、フロアの隅の壁に寄せかけたテーブルで、テラスの男を見ていた。


 他に客は一人もなく、かすかな風に吹かれて、薄汚れた男が一人きり座っているだけだった。


 水商売風の若い女が、白髪の紳士と連れ立って店の前を通り過ぎた。


 ふと、テラスの男が空になったグラスを持ち上げて何か言った。 


 若い方のウェイターが立って行って、 


「御用ですか?」 


 男はとろんとした目で彼を見て、 


「もう一杯」と、注文した。 


「酔っ払ってますよ」 


 ウェイターが注意すると、男は目を細めてじっと見返した。


 若いウェイターは嫌な気持ちになり、仲間の方へ戻って悪態をついた。 


「ちぇっ、いつまで居座ってやがる。あのとっつぁん、さっさと死んじまえばよかったんだ」

  

 彼はカウンターの裏の棚から酒瓶とコースターを一枚取り出して、男のテーブルへ足早に戻って行った。


 コースターを置き、グラスに酒をなみなみと注いでやった。


  そうしながら、ぼそっと言った。 


「とっととくたばっちまえ」 


 むろん、男には聞こえなかった。


 何も知らぬ男は、 


「ありがとう」と、丁重に礼を言った。 


 ウェイターは酒瓶を棚へ返し、仲間のいる隅のテーブルへ戻った。


 男のほうへ軽く顎をしゃくって、


「忌々しいジジイめ、すっかり酔っ払っていやがる」 


「毎晩のことさ、珍しくもない」と、年上のウェイターが苦笑した。


 そして、


「ところで、どうやって死のうとしたんだ?」 


「ロープで首を吊ったんだ」 


「何で死ななかったんだ?」 


「同居している姪がロープを切って助けたそうだ」 


 若いウェイターはそう言って少し首を捻り、 


「バカなことをしたもんだ」 


「とっつぁんがか?」 


「いや、姪っ子さ。とっつぁんがうまいこと死んじまえば、たんまり遺産が転がり込んだろうによ」 


「そうかもな」と、年上のウェイターも肯いた。


「もう八十は越えてるだろう」 


「ああ、そんなもんだろうな。あんな歳で、大金抱えて飲んだ暮れてるなんざ、罰当たりな話さ」


 と、若いウェイターが言った。


「意地汚い年寄りがしこたま貯め込んでるせいで、俺たちゃいくら働いても楽にならん」 


 年上のウェイターは何も言わなかった。 


「あいつらが何故あんなに貯め込んでるか知ってるか?」 


「いや。何でだ?」 


「老後が心配なんだとさ」 


 若いウェイターは肩をすくめた。 


「棺桶に片足突っ込んで、老後が笑わせらあ」 


 年上のウェイターは感心したように微笑み、


「おまえは若いのにいろんなことを知っているな。大したもんだ」 


「まあね」と、若いウェイターは胸を張った。「俺もいままでずい分回り道をしちまったからな。そんなことより、俺はもう眠いよ。ジジイの酔っ払いにはうんざりだ」

  

「そう言うなよ」と、急がないウェイターが言った。「とっつぁんは、ああしているのが好きなんだ。つき合ってやるのも仕事のうちだぜ」 


「あのとっつぁんは、どうせ帰ったって誰も待っちゃいないんだ。俺は違う、俺には家族がいる。俺の帰りを待ってる女房と娘がいるんだ」 


「とっつぁんにも姪っ子がいるぜ」と、年上のウェイターが言った。「きっと、とっつぁんの帰りを待っている」 


「だったら、なおさらさっさと帰ればいいんだ。いつまでもグズグズしやがって、働く者の身にもなってみろ」 


 男は空になったグラスを見つめ、それから二人のほうを振り返った。 


「もう一杯」と言って、グラスをかざした。 


 若いウェイターが飛んで行き、ぴしゃりと言った。 


「もうおしまい」 


 酔っ払いを追い払う時の、高飛車でぞんざいな言い方だった。


 ウェイターは男の目の前で、嫌がらせのようにテーブルを拭き、首を振った。


 男はあきらめて腰を上げ、よれよれの上着のポケットから革の財布を取り出し、酒代を払って出て行った。 


 やっと肩の荷を下ろし、清々した風の若いウェイターのほうへ、もう一人がやってきて、 


「何も追い払わなくていいじゃないか」と言った。「閉店までまだ30分あるぜ」 


 若いウェイターは閉店準備をしながら、億劫そうに、


「俺は帰って寝るんだ」 


「たった30分じゃないか」 


「30分もありゃ家に帰って寝られるよ。時は金なりさ」 


 少しでも早く帰りたいウェイターは、店を片づけながら、相手の顔も見ずに言った。 


 

 閉店作業を終え、金属製の重いシャッターを下ろして鍵をかけた若いウェイターに、もう一人のほうが寂しげに言った。 


「俺はいつも、店を閉める時気が重いんだ。このカフェが閉まってしまうと困る人がいるだろうと思ってね」 


「そういう連中は酒場へ行けばいい。俺は早く帰って娘の寝顔が見たいんだ。こんな時間まで文句も言わずに働いているのだって、みんな女房や娘のためなんだ」 


「そうだ」


 と、年上のウェイターは肯いた。


「おまえには妻や娘がいる。待っている家族がある。それに、何だって知っている。物識りで、若くて体力もある」 


「あんただっていくつも違わないだろう」 


「俺は夜に灯る明かりが必要な人間なんだ。家族のいる家へまっすぐ帰ってすぐに寝られるおまえとは違う。梟や蝙蝠と同じ夜行性の生き物なんだ」 


「さあ、もうくだらない話はやめだ。俺は帰るよ」

  

「ああ。悪かったな、つまらんことを言った」 


 年上のウェイターは心底そう思った。


 わからない人間には永遠にわかるまい。 


「じゃあな」と、若いウェイターが言った。 


「おやすみ」 


 相方と別れて家路についた年上のウェイターは、やはりまっすぐ家には帰らず、誘蛾灯に誘われる蛾のように、別の明るいカフェの前に立っていた。 


 扉を開けて入って行くと、バーテンダーが閉店準備をしていた。


 彼は、男を追い払った相棒にそっくりな顔で閉店間際の来客を見た。


 しかし、客が素知らぬ顔でカウンターに座ると、仕方なくやってきて訊ねた。 


「何になさいますか?」 


「コーヒー」 


 ふと、昔読んだ小説に似たような場面があったのを思い出した。


 その小説の主人公もやはりカフェのウェイターなのだが、彼と違って実に気の利いた言い回しをするのだ。


 新約聖書をもじったこんな文句だった。 


ナダにましますわれらのナダよ、ねがわくは御名のナダならんことを、御国のナダならんことを、御心のナダにおけるがごとく、ナダにおいてもナダならんことを。われらにこのナダを、われらが日常のナダとして与えたまえ。われらがナダナダにするごとく、われらのナダナダにさせたまえ。われらをナダのなかにナダにすることなく、ナダより救いたまえ。かくてナダナダに満ちたるナダを祝福したまえ、ナダは、汝のものなればなり」 


 彼はそれをぼそぼそ呟き、人知れずニヤニヤしていた。


 我に返ると、そばに立ったバーテンダーが珍獣を見るように見下ろしている。


 目が合うと、慌ててコーヒーを注いだ。


 彼は黙って飲み干すと、立ち上がって金を払い、店を出た。 


 相方と話していた時より、幾分気分が良くなった。


 さあ、ぼちぼち奴を見習って家へ帰るとするか。


 布団に潜り込めば、夜が明ける頃には眠れるだろう。


 同じような人も少なくないに違いない。

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夜に灯る明かり 令狐冲三 @houshyo

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