歳の差(サ)ービスエース
@yakasa_2130
第一話
僕の通う中学には、生徒たちから人気の女の先生がいた。先生の担当教科は保健体育で、部活は陸上部の顧問。先生は普段からジャージ姿やテニスウエア姿などの動きやすい格好でいることが多かった。
それに教師という立場にありながら先生は他の先生とは違って堅苦しさはない、さっぱりした性格。同性である女子たちとは、時に友人同士のような気さくさで話す――そんな人だった。
休み時間になってクラスの女子が数人、廊下で雑談をしているときだった。
「あ……しずか先生だ。おーい」
その中に居た一人の女子が、廊下の奥から現れたテニスウエア姿の先生に気づいて先生のことを呼んだ。先生もその声に気がつくと、彼女たちの所まで真っ直ぐ歩み寄った。
「どうかした?」
「せんせー、聞いて聞いて。実はこの子、一組の男子に好きな子がいるんだけど……でもその男子にはもう別の子がいるみたいで」
「あ、そうなんだ……」
「先生はさあ、どうしたらいいと思う? やっぱり彼女のいる相手に告白なんて傷つくだけだし、無謀だよね?」
女子たちが先生に恋愛相談するその会話は、教室の中で雑談中の僕たちにも聞こえてきていた。
「ははっ……おい見ろよ、あいつら先生に恋愛相談なんかしてんぞ」
「先生ってアラサーだろ? その歳になってもまだ結婚できてない人に、恋愛相談というのも……なあ~?」
「もう結婚は無理だろ」
「だなっ」
先生には聞こえないのをいいことに、友人たちは言いたい放題だった。キャッキャと笑い笑い声まで上げて冷やかしている。
確かに先生は今年で二十九歳になるという噂だった。結婚をしていたとしても不思議ではない年齢ではある。
しかしそんな彼らの……言うなれば、「よけいなお世話」というやつをよそに、先生は女子からの恋愛相談と真摯に向き合っていた。
「そうだね、私だったら……告白はするかな」
「えっ……どうして、ですか?」
「気持ちを伝えて、きっぱりフラれる。そうしないといつまで経っても前に進めないから。それでも仮に告白をOKしてもらえて、フラれなかったら……」
「なかったら?」
「こんッ……の、クズヤロー! って言って、相手の顔面を一発殴ってから別れる」
そう言って先生は手にぎゅっと力を込め、握りこぶしを見せた。そして笑顔だ。
笑いながら、ひたすら人を殴り続けるような殺意の滲む笑み。それを前にした女子たちは畏怖するどころか、むしろ……。
「あはは、なにそれー」
「せんせー。おっかしぃ~」
と、ツボにはまって笑っていた。
「だけどね、それはあくまで先生個人としての考え。その子に告白するしないにしても、まずはちゃんと自分の中で考えてみてからね」
女子たちの笑いが冷めやらぬ中、先生は恋愛相談の相手と正面から向き合い、真剣なアドバイスも送っていたのだった。
「あ……ほらみんな、次の授業は移動教室なんでしょ? 行った行った」
休み時間が終わる間際、先生はついさっきまで話していた女子たちをしっしっと追い払うように促す。気だるそうにしながらも、女子たちはそれに大人しく従っていた。
先生は教室にも顔を出し、教室の中に残っていた僕を含めたクラスメイトにも移動するように促してくる。
近くにいた友人たちも大人しく従い、動き出し始めたのを尻目。
ふと先生が、僕のことを見たような気がした。
「西谷くんもね」
「え?」
それは勘違いではなかった。先生は突っ立ったままの僕のことを見ていた。
「おーい西谷。早くしないと怒られっぞー」
「ほら、友達にも呼ばれてるよ」
「あっ……はい」
僕は慌てて準備をする。扉のところに立つ先生に見守られながら、教室を出た。
きっと先生はまだ去りゆく僕たちの後ろ姿を眺めているのだろう。
僕はそんな先生に、密かな恋心を抱いていた。
けれど僕と先生との間には、そもそも接点らしい接点は無かった。
先生は僕たち三学年を受け持っているものの、先生のクラスは七組で僕は四組。保健体育の授業でも先生は女子のほうを受け持っている。それに部活に関しても、同じ体育会系という共通点こそあれ、ソフトテニス部に所属する僕はたいてい周囲を校舎に囲まれたテニスコートで練習しているため、校庭のトラックで練習する陸上部とは顔を合わせる機会もほとんど無かった。
しかし春の大会を目前に控えた、とある日の部活の時間。
同じソフトテニス部に所属するチームメートが僕に、先生のことでこんな話をしてきたのである。
先生がまだ大学生だった頃、先生はソフトテニスで世代別の日本代表に選ばれていたことがあった――と。彼自身はどうやら昔のテニス雑誌に先生が載っていたのを偶々目にして、それで知ったようだった。
その話を聞いたとき、僕はチャンスだと思った。
その思いのままに先生を探し、先生が一人でいるところを見つけて呼び止める。
「先生!」
振り返った先生に、僕はその話が事実なのかどうかをまず訊ねた。
「――うん。そうだよ。もう昔の話になるけどね」
すると先生は照れくさそうにしながら、それが事実であると僕に明かしてくれた。とはいえ、それならばどうして先生はソフトテニス部ではなく、陸上部の顧問をしているのか。
その問いに関しては、部活の顧問の決定権は校長先生にあるのだという、そんな大人の事情を教えてくれた。
しかしそれを話してくれた先生の表情からは少しだけ、寂しそうな印象を僕は受けたのである。だから逸る気持ちを抑えられなくなってしまった。
「そ……それだったら僕に、教えてくれませんか?」
「え?」
「もちろん毎日は無理だと思いますし、個人的に指導してもらうわけにもいかないので……そうだ! せめて上達するなるための練習法とか、身体のケアについてテニスノートに書いて指導してもらうだけでも……」
「……なるほど」
先生の意味深な頷きに、僕は自分の心を見透かされたのではないかと、一瞬だけドキリとした。けれどそれは杞憂に過ぎないみたいだった。
「実を言うとね、西谷くんのことは部の期待のエースだって顧問の先生から聞いて知っていたんだけど……うん。わかった。そこまで熱心なら先生も協力するよ。それじゃあ今度、先生のところまでテニスノート持って来てもらえる? 先生にアドバイスできることは書いてあげるから」
「あ、ありがとうございます……!」
そうして先生との接点ができた僕は、約束通りテニスノートにアドバイスを書いてもらう以外にも、先生と話す機会にも恵まれた。
春の大会が終わると、残すは最後の夏の大会のみ。それを目前に控えた頃、夏休みで人気のない校舎に囲まれたテニスコートで自主練をしていた僕たち、ソフトテニス部の三年生の前には思わぬサプライズが用意された。
「お邪魔しまーす」
「えっ!」
元気な声をコートに響かせ、僕たちの前に現れのは――自前のテニスバックを肩に担いだ、テニスウエア姿の先生だった。
「どうして……先生が、ここに?」
「顧問の先生にお願いしたの。西谷くんたち、ソフトテニス部の力になりたいって」
どうやら僕たちの最後の大会が終わるまでの間だけ、先生は臨時コーチを引き受けてくれることになったのだ。それも先生自ら顧問の先生に頼んでくれたのだという。
この先生は本気で僕たちの力になろうとしてくれている。
だから僕も、先生のその想いに応えたい――その日から、そう思うようになった。
しかし最後の大会は満足のいく結果で終えることはできなかった。そして引退した。けれど終わったのはなにも、部活に限った話では無かった。
夏休みが明けて学校が始まってからも、先生とはこれまでのようには話さなくなった。とはいえ、それは当然のことだと僕は受け入れていた。
先生とは、ソフトテニスという繋がりがあったからこその関係だったのである。だから部活を引退して、ひとまずの区切りがついてしまえば、それ以前の関係に戻ってしまうのも自然なことだった。
秋の学祭が終わると、僕たち三年生に残されたのは受験と卒業のみとなる。そうして迎えた僕の日常は、まるで祭りの後の静けさとして虚しく続いた。それは三年生のほとんどが志望校を決め、受験勉強に励んでいるときですら変わらなかった。僕だけが一人、自分の進路を決められずにいた。
そんなある日のことだった。
「西谷くん。ちょっといいかな?」
「……先生……」
突然、背後から呼びかけられた声に振り向くと、そこには先生がいた。
部活を引退してから三ヶ月。その間に一度も話さなかった先生と久しぶりに、正面から向き合う機会が訪れたのだ。
「聞いたよ。県外の高校から推薦が来てるって話……まだ返事はしてないみたいだね」
僕がいまだ志望校を決められずにいることを知って、先生は声をかけて来たようだった。けれどそれは、先生が個人的に僕のことを心配して来てくれた、という訳ではないのだろう。他の先生から頼まれたから仕方なくだと、僕は真っ先にそう思った。
「……ええ、まあ」
だから先生に応える言葉も、素っ気ないものとなってしまった。
「親御さんはなんて?」
「地元の高校に進学するように言われてます。部活のためだけに、わざわざ県外に行かなくてもいいだろう……って」
それは僕が進路を決められずにいる理由だった。でもそれが、理由の全てでは無かった。
「そっか……親御さんも心配なんだろうね。高校生で親元を離れるのは早い方だし。寮生活にもなると思うから……」
しかしそうとは知らず、先生は訊ねてくる。
「それで西谷くんはどうなの? 行きたい、って気持ちは……あるってことだよね? まだ返事はしていないんだし」
「はい……一応」
それからも僕は先生の言葉に、覇気のない言葉で応えていった。
ただ、親の言うように地元の高校に進学する選択は、僕自身どうしても嫌という訳では無い。何より地元には大切なものがある。それは例えば人だ。高校に進学することで、いずれにしてもこれまで出会った人たちと会う機会は減ることになる。けれど地元だと、すぐに会える距離にはいる――その事実だけでも、心の持ちようはまた別で。僕にとってそれは重要なことだった。
なんにせよ今の状況なら、先生は親の意向に沿った進路で、早く僕に決断させようとするはず――。
「それなら、親御さんを説得しないとね」
「……え?」
けれど先生の口から齎されたのは、それとはまた違う言葉だった。
「え、ってなに? 西谷くんは県外の高校に行きたいんでしょ?」
「それは……そうなんですけど」
「もしかして本当は、行きたくない……とか? 断り辛いのが理由?」
「いえ、そうじゃ……ないんですけど」
最後の大会で味わった悔しさ。それが無ければきっと、僕は迷っていない。だからこの気持ちが本物なのだとわかる。
そう、だから――。
「普通……進路のことで親が反対していたら、生徒にはその選択を諦めさせるものだと思ったんです」
未成年のうちは親に養われているのだから親の意思に従うのは自然なこと。反抗心があっても親がダメだと言い続ければ、子供は結局それに従わざるを得ない。
でも先生の考えは違った。
「きっとね、大人が子供の進路に反対する理由には、子供たちに後悔しない人生を送ってほしい……っていう願いもあるんだと思う。でも、後悔の無い人生って大人たちが自由に選んであげることはできないの。子供たち……生徒一人一人が自分たちで考え、そして自分が選んだ先にあるもの――それこそ、後悔の無い人生を送ることになるんだって先生は思ってる」
先生の考えの先に見据えることができるもの……確かにそれは、後悔では無いのかもしれない。
「だから、西谷くんが本気で県外に行くことを望むなら、先生はその選択を応援する。それにもちろん……アドバイスもね」
「っ……」
……そうだ。僕の知っている先生は、そういう人だった。
誰かに頼まれたから仕方なく、生徒の相談に乗る――先生がそんな人ではないことを僕は知っていたはずなのに……。
ただ何かを期待した結果、それが裏切られたから。だから僕は不貞腐れて、穿った目で先生のことを見てしまっていた。そのことを今、僕は突き付けられた。
そしてようやく気づいた。
だから僕は、先生のことが好きなのだろう。
先生にとって僕たちは歳の差がある生徒だから。それこそが理由だった。
卒業式。その日一日だけ僕たちは三年生ではなく、卒業生だった。その所為か、校則で禁止されているスマホもみんな自由に使っていた。けれど友達や先生との別れを惜しみながら、そうして最後の思い出を作るのだろう。それは僕も同じだった。
「あっねえ! 西谷くん、県外に行くんでしょ? せっかくだし一緒に撮ろうよ」
「うん……もちろん。いいよ」
僕の進路は県外の高校に決まっていた。だからその分だけ別れを惜しんでくれる声は多く、それにはありがたさを感じた。
けれどやっぱり、こういうときに先生と同じクラスだったらな……と、少しだけ残念に思いつつも、先生に会いに行くつもりは無かった。だからこのまま先生には何も告げることなく学校を去るつもりだった。
「それじゃあ元気でな」
「うん。また」
桜がすでに咲いている校門前。そこで友人との最後の別れを済ませる。
けれどそのとき、先生のクラスの生徒たちが話している声が聞こえてきた。
「それにしてもビックリだったよね」
「そうだね、まさか先生が――」
「…………えっ?」
それを聞いた瞬間、僕は走り出していた。飛び込むように生徒玄関に入り、校舎の中へ。
自分が卒業生だという認識も忘れ、ただひたすら廊下を走る。そして見つけた。
「先生っ!」
「え……? 西谷くん?」
いきなり会いに来た僕に、先生は驚きながら振り返った。
「どうしたの? 何か忘れもの?」
それが果たして忘れもの……だったのか。その答えはまだ出ていない。
「先生のクラスの子が話しているのを聞きました。……先生、結婚するって」
「そっか。知られちゃったのか」
「……はい」
いつもと違ってスーツ姿の先生は、頬を赤く染めて。かつて見たとき以上に、照れくさそうな表情をしていた。そして何より――嬉しそう、だった。
「でもビックリしたでしょ? 君の友達からも散々結婚は無理だの三十路だの言われていた先生が、結婚だなんて」
今更ながら友人たちの「よけいなお世話」は、先生の耳にもちゃんと聞こえていたようだった。
「君の友達にも聞かせてあげたいけど……このことは、内緒でね?」
「はい。言いません」
「ありがとう。……それで、西谷くんの用事は?」
「先生」
「ん?」
先生に何を言おうか、僕の中で答えは固まっていた。
忘れもの……は、結局この場所に置いて行くことにした。だから――。
「ご結婚、おめでとうございます。それと……良かったですね、先生まだ行き遅れていなかったみたいで」
僕はこれまで言うことのなかった精一杯の皮肉で、先生のことを祝福した。
それに一瞬、呆けながらも先生は、
「……うんっ。頑張りなよ、高校生」
そう言って変わらず、僕の背中を押してくれたのだった。
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