めでたしめでたし、それからそれから
時系列的に前話より前の話です
2.離婚の話し合いの真相
杉田の顔を見た彰宏はあからさまに苛立ち、しかもそれを隠そうともしない。梨乃が杉田のところにいたことをほぼ確信していたが、実際目の当たりにするとまた話は違ってくるのであろう。
梨乃はまず何も言わずに突然姿を消してしまったことを謝罪した。彰宏は「で?」とそれを鼻で笑う。据わった目つきとは対照的に口元だけが歪んでいく様は不気味で、梨乃はギクリと肝を冷やした。
ハクハクと梨乃の口が酸素を求めて動いた。離婚したいという意思は彰宏にも伝わっているはずで、彼はそれを承諾したはずだ。お金を返せばめでたく他人だ。きちんと言わなきゃと思うのに、彰宏の冷えた視線を感じれば、梨乃の声帯はきゅうと閉じてしまう。
握り込んだ爪先が皮膚に食い込む。白んだそこはまるで感覚がない。浅い呼吸を繰り返しているせいか、梨乃の脳みそが"酸素が多すぎるぞ、二酸化炭素を寄越せ"と訴えた。
「梨乃さん、大丈夫だよ」
そんな梨乃の背中に杉田の温かく大きな手のひらが添えられた。俺がついてるからとでも言っているのだろう。梨乃を見つめる杉田の瞳には迷いや少しの翳りもない。
杉田がいてくれるだけで不安なことなどないと、梨乃が力強く頷けば、杉田はより一層優しく目を細めた。
その2人の光景に呆れ返ったのは彰宏だ。厚顔無恥も甚だしいと、不快感露わに顔を歪めた。
しかしここで梨乃を醜く責めることは彰宏のプライドが許せなかったし、そもそも離婚は彰宏としても喜ばしいことなのだからそこを反故にするつもりはない。が、何か一言二言、いや、彼らがダメージを受けるまでの嫌味は浴びせてやりたい。晴れやかな気持ちのままこの話し合いを終えることは許せない。それが彰宏の心情であった。
「まぁ、お前らはお似合いだと思うよ」
突然そんな言葉を彰宏が口にしたものだから、梨乃は訝しげに眉根を寄せた。杉田はただじっと、仄暗い瞳で彰宏の忙しなく動く口元を見つめている。必死で感情を押し殺そうとしているのだろうがそれが逆に恐ろしく、さらにカリカリと何度も左頰の傷を引っ掻くものだから、彰宏はまるで脅されている心地になった。
しかし彰宏は杉田を心底下に見ており蔑んでいる。そんな杉田に怯むことは許されないのだろう。ペラペラとよく回る口は止まらないのだ。
「良いとこなしのなんもできねー女と、低収入の低学歴のしょーもない男。お似合いお似合い。割れ鍋に綴じ蓋」
そんなことを大真面目に、遠回しに自分はお前らとは違う人間だと声高に主張する彰宏に梨乃は怒りさえ湧いてこず、ただ可哀想な人だと同情心すら抱いた。とりあえず離婚してくれるのなら何を言われても平気だ。
あれだけ恐ろしく、逆らう気すら起きなかった彰宏が酷く矮小な人間に見える。彼が喋れば喋るほどそれは顕著になった。
「はぁ?お前なんて言った?」
しかし杉田はそうではないらしい。自分のことはどうだっていい。自分のことならヘラヘラとかわせたし、本当に腹も立たなかった。
過去を振り返れば、そう言われても仕方ないことをしてきたし、杉田本人が自身のことをその程度だと思っているからだ。だからどう言われようがいいが、梨乃のことを馬鹿にされるのはどうしても我慢ならなかった。
梨乃から事前に揉め事はなし、うんうん言ってた方がスムーズに離婚できるからと釘を刺されていなければ、確実に馬乗りで殴っていたと思う。
ずしり、と空気が沈む。杉田から発する怒気を孕んだ殺気が彰宏の肌をひりつかせた。が、調子に乗っている彰宏はそれを些事なことだと気にもとめない。そどころか「いや、凄んだって怖くないからね」などと、さらに挑発する始末だ。
「てか、杉田ぁ、お前顔はいいんだからさぁ、もっとマシな女いるだろ?セックスもつまんねーだろ、こいつ。アンアン喘ぐだけで」
こうなってしまえば彰宏は止まらない。聞くに耐えない性談義まで始めて、教師よろしく杉田に梨乃を悦ばせる為の性技のアドバイスまでを送りだした。
梨乃はこうすればすぐイクやら、こいつは痛ぶられて喜ぶマゾだやら、膣の具合までもベラベラと得意げに話すのだ。杉田に対して優位に立ちたい心の表れなのだろう。
これには彰宏に冷めきって傍観していた梨乃も、さすがに堪えているようで膝の上に置かれた拳がふるふると震えている。
杉田は誰かを殴ることに躊躇なんてしない。彼はとうの昔にそんなハードルは一段も二段も飛び越えてしまって、こちら側に戻ってこれなくなった男なのだ。
そんな杉田は彰宏のことを瞬間的に殺そうと思った。"殺したい"でも"殺さなければいけない"でもなく"殺そう"と、そう思った。
ノータイムで彰宏の胸倉を掴み拳を振り上げた。そんな杉田の行動を梨乃は予測していたのかもしれない。
「杉田さんっ!」
梨乃の悲痛な声が杉田を辛うじてこちら側に引き戻せば、杉田は彰宏の顔面に拳をあてる寸前でその手から力を抜いて大きく息を吐いた。
「……はっ、はは、だっせぇ。ビビってんじゃん、結局」
彰宏の強がりは空気に溶けて消える。杉田は再びどかりと椅子に腰を下ろし、「どうでもいいから、早く離婚しろよ。金の話すんだろ?」と抑揚のない声で投げつけた。
「そーだそーだ。離婚ね。いや、まずお前ら謝れよ、俺に」
ここまでくると最早尊敬の念すら抱いてしまう。彰宏のプライドは人に誇れるものだね、と梨乃は心の中で舌を出した。
「はぁ?謝るわけねーだろ、頭わいてんのか?お前も梨乃さんに謝る気ねーんだろ?慰謝料も相殺なら、謝罪も相殺だ。謝ってほしいならテメーから謝れ」
杉田のこんな高圧的な態度は初めて見たと、梨乃は彼の表情を窺った。目は血走っているのに感情が読めないほどじとりとしている。あぁ、杉田は怒りを通り越した破壊願望と戦っているのだなと思えた。
梨乃が今までの人生で関わってきたことのない、関わりたくなかった人種だ。しかし不思議と怖くないのは、杉田のこの凶暴な部分が絶対に自分には向けられないという確信があるからだ。
彰宏はここにきて初めて言葉を詰まらせた。二の句が継げない彼に向かい、杉田はなおも詰め寄る姿勢を崩さない。
「そもそもお前は梨乃さんを侮辱して、雑に扱ってたことを謝れ。お前、いつまでもお山の大将気取ってんなよ?お前の方がしょーもない男だろ」
ズケズケと言いたいことを並べた杉田の言葉に彰宏は顔を真っ赤にして憤慨した。そして「金は?梨乃の実家に支援した金を返せよ」と伝家の宝刀と言わんばかりに声高にそれを突きつけた。
「賢い賢い彰宏くんが財産分与を知らないわけねーよなぁ?」
彰宏は再び言葉を詰まらせる。そんな彰宏の前に、杉田は離婚届をぺらりと差し出した。「今すぐ書いてね。財産分与が完了したらこっちで提出しておくから」だなんて、もうこの話し合いを終わらせる気しかないようだ。
「あ、お前、妙なこと考えるなよ?こっちは生徒との淫行の証拠もあるんだからな?」
自然と身震いをしてしまうほどの冷たい声だった。それなのに杉田の纏う空気は燃えるように熱い。沸々と燃えたぎる怒りとも形容し難い何かがそのまま鎧のように杉田を包んでいるのだ。
杉田は敵と見做した相手には途端に冷酷になれた。それが昔から恨んでいた彰宏で、さらに大切で大切で仕方ながない梨乃をこれからも苦しめる可能性があるとなれば、そんな一面を出し惜しみする必要性がないのだ。
先程までの威勢はどこに行ったのか。彰宏は震える声で「ああ」と壊れた人形のように何度も頷いた。
「良かった、分かってくれて」
そう言って微笑む杉田は、梨乃が慣れ親しんだ彼の笑顔と寸分も違わないのに、どうしてか心臓を直接握られた恐ろしさがある。
彰宏は、ついさっきまでは己の強さの証明のようであった杉田の左頰につけた傷も、今はどうだ、取り返しのつかない罪そのものでないかと思うのだ。こうなった彰宏にできることは離婚届けに記入をし、即座に財産分与を行うことのみである。
黒で埋め尽くされたあの空間から出るなり、杉田は梨乃に「ごめんねぇ」と謝った。結局最後まで我慢できずに、彰宏に感情のまま掴みかかってしまったことを申し訳なく思っているようだ。
「んふふ。でもわたしが止めたらやめてくれたね」
えらいぞ、久人くん。久人くんがいてくれて良かった、だなんて言って梨乃は随分と高い位置にある杉田の頭を撫でた。
梨乃がそうやって杉田を甘やかすから、杉田もこんな俺でもいっかと思えるのだ。彼女のためなら全てを犠牲にしてもいいと思えるのだ。
▼
それから少しして梨乃と彰宏の離婚は成立した。
そこからもう少し経った頃、杉田は彰宏をこっそりと観察しに出向いた。万が一にも梨乃と接触してほしくなくて、今の彰宏の状態を把握しておきたかったのだ。
彰宏はまだあのタワマンに住んでいるようで、仕事に向かうのであろう彰宏がエントランスから出てきた。
その姿を捉えた杉田は思わず片頬をあげてニヤリと笑う。
高級そうなスーツはクリーニングに出すことを忘れたのか皺が寄っているし、そこから覗くワイシャツの襟が薄汚いこともパッと見で分かった。革靴も随分と艶を失い、所々剥げている。
顔色も良いとは言えないし、なんだか頬もこけて目には生気が宿っていない。恐らく健康的な食生活を送れていないのだろう。
あーあ、あんだけいたお前の不倫相手は誰一人として助けてくれないわけね。結局お互いに遊びだったわけだ、ざまーねーな。
杉田は愉快で仕方なく、彰宏に声をかけてやろうと思ったが、馬鹿馬鹿しいのでやめた。彰宏が杉田と梨乃の人生に関わってくることはもうないだろう。
失くして初めて気づいても遅いんだよ。大切なもんは大切に扱えばいいだなんて、そんな簡単なことに気づかなかったお前が悪い。
まぁ、心配するな。少なくとも俺はそんなことはしない。大切なものは丁寧に優しく大事に大事に扱うよ。
だからお前は二度と梨乃さんに近づくなよ。あの子はもうお前の奥さんじゃなくて、俺の彼女なんだからな、と杉田はスキップしてしまいそうな軽い足取りで、梨乃が待つ自宅へと急いだ。
痛みまでも愛してる 未唯子 @mi___ko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます