めでたしめでたし、それからそれから

1.運命というものがあるなら、これがそうなのでしょう



 そもそもの話として、杉田は誰かを殴るという選択肢のない男だ。それに彼は随分と優しい男だ。だからこそ、本来彼は揉め事とは無縁な人柄なのだ。

 しかし杉田の縦に大きく走った左頬の傷がそれを許してくれない。


 荒れていると噂されていた杉田の地元の中学は、噂に違わぬ荒れ具合で、目立つ風貌の杉田が目をつけられないはずがなかった。


 入学早々に呼び出され、目つきが生意気だと腹を殴られたときは「え〜、なんなのぉ?」と戸惑った。

 怖がりもせず、泣きもせず、怒りもしない。ただ、「なんなのぉ?」と首を傾げる杉田は、上級生にはさぞ不気味に映っただろう。し、煽られているような気にさえなった。こうして逆上した者たちに、杉田はさらに殴られたわけだ。


 杉田は滅多なことでーー袋叩きは滅多なことだろうという議論は一旦置いておいてーー怒らないが、痛いことが好きなわけではない。殴られながら、やられなきゃやられるじゃん、という思考に漸く行き着いた杉田は、瞬間的に拳を振るった。

 

 杉田の肉体は、天性の強靭さと瞬発力と純粋な力強さが備わっていた。だからこそちょっと粋がっているような輩はただの烏合の衆で、杉田の敵ではなかった。

 恐れられていた上級生たちをこうして一瞬で伸してしまった杉田は、彼の本意とは別に新たなる番長として祭り上げられてしまったのである。


 もうそこからは杉田の意思など関係なく喧嘩を売られまくった。

 初めこそ「勘弁してよ〜」などと言っていた杉田だが、友人が攫われたり、暴行を加えられたりすると放っていくわけにはいかない。こうして彼は強制的にその闘争に巻き込まれていったわけだ。

 そうなると杉田の心はバラバラになった。本来の彼は優しく誠実で、人のことを傷つけたいなどとは微塵も思わない。陽の光の下でぬくぬくと育つべき人間だった。

 しかし今の自分はどうだ。追い込まれ致し方ない状況だとはいえ、"やられる前にやれ"を心情とし、拳は血塗れになり、殺気が染み付いている。

 不良と呼ばれる生徒以外には恐れられ、近寄られもしない。かと思えば、距離を置きたい奴らばかりが近寄ってくる。誰も本当の杉田を見ようとはしない。杉田は自分でも気づかぬうちにこの生活に心が摩耗していた。




 本当は俺だって手芸部に入りたかったんだよ、と、その日の杉田は地元から離れた公園のベンチで時間を潰していた。それもこれもこの左頬の傷のせいなんだよなぁ、と杉田が天を仰いだその時、ふと視界に入った人物に視線を戻した。


 真っ赤なランドセルを背負った女の子。正確な歳は分からないが、2、3年生ぐらいだろうか。杉田が戸惑ってしまうほどジーッと彼のことを見ている。

 こういうときってどうしたらいいんだろ、と悩んだ杉田だが、彼の表情筋は無意識に笑顔を作った。

 へらりと笑った杉田を見たその女の子も表情を緩め、次の瞬間にはずんずんと杉田との距離を縮め始めた。


「こんにちは!」

「……あ、あぁ、こんちには。小学生?」


 突然投げかけられた礼儀正しい挨拶に面食らった杉田は、見たら分かるだろうという質問を返した。それに女の子はコクンと頷き「2年生」と答え、何を思ったか杉田の隣に腰を下ろした。が、背負った大きなランドセルが邪魔をして、正確にはベンチにお尻が触れているといった具合だ。


「ランドセルおろしたら?」


 女の子のそんな姿を見かねた杉田が提案すれば、その子は「はい」と素直に従い、おろしたランドセルをギュッと抱きしめた。

 そこから暫しの間沈黙が続く。杉田も女の子もボーッと前を見つめ、そよぐ風に身を任せている。


「それ、いたい?」


 そんな風にボーッとしていたから、突然の質問に杉田の思考は追いつかなかった。「それ?」と傾げながら女の子の方を見れば、その子は杉田の左頬にチラリと躊躇う視線をやる。

 恐らくその質問が失礼なことかもしれないと、なんとなくだが理解しているのだろう。


「あ〜、これねぇ。今は痛くないよ」

「……そっかぁ。自分で切ったの?」

「ん〜、悪い男の子にやられたのぉ」


 その杉田の言葉を聞いた途端、女の子は俯けていた顔を持ち上げ、杉田の傷に力強い視線を送った。

 なんだか親近感を持たれたらしい。そこからその子は同級生の男の子に揶揄われていることをポツリポツリと話し始めた。

 杉田はそれに一生懸命耳を傾けた。その男の子はキミのことが好きなんだよぉ、という答えに辿り着いたが、そこには触れず、ひたすらに彼女の話に相槌を打った。


「男の子はきらい。らんぼうだし、すごくイジワルだから」


 その言葉に杉田は苦笑いを浮かべる。キミの目の前にいる俺の方が余程乱暴だと思うよ、とはもちろん言えない。


「まぁ、男はみーんな狼って言うしねぇ」


 これが適切な答えでないことは杉田も十分理解していたが、ポロリと出てきた言葉がこれだった。


「じゃあ、お兄ちゃんもオオカミなんだ?」


 その女の子はくりりとした清らかな瞳を瞬かせた。


「そうそう、だから早く帰りなぁ?」


 キミみたいな子は凶暴な狼と関わるべきじゃないよ、と杉田は思った。穢れない純粋な子供の瞳は今の杉田には眩しすぎる。


 女の子は素直に「うん」と頷いてベンチから降り、杉田の目の前に立ったかと思えば、再び杉田の顔をジーッと見つめた。遠慮のないその視線に思わずたじろいでしまう。

 勝手に己の罪を咎められている心地になった杉田は、フッと視線を逸らした。その刹那、まだ赤ん坊の名残りがあるふっくらとした小さな手が杉田の左頬の傷をゆっくりと撫でた。


「きずだらけのオオカミさんはやさしいんだねぇ」


 傷だらけだなんて、随分な言葉だと思うが、確かにその通りで。杉田の心は瘡蓋だらけの傷だらけだった。

 こんな小さな子にささくれ立った心を慰められた気がして、杉田は思わず泣きそうになってしまう。


「ねぇ〜、絶対悪い男に引っかかるんだけどぉ、この子ぉ」


 それを誤魔化すように茶化せば、女の子は訳が分かっていないキョトンとした顔を見せた。


「わるい男……?」

「そ。悪い狼。もしそうなったら俺が助けてあげるからね」


 軽口を叩いた杉田はその子に手を振り、2人は別れた。

 もう随分と、それこそ20年も前の話だ。






「そういえば、昔、わたしが小学校低学年のときかな……この公園で中学生の男の子に『男の子は狼なんだよ』って教えてもらったことがあるの」


 梨乃の実家に結婚の挨拶をした帰り、公園の前で足を止めた梨乃が当時を思い出したのかクスリと小さく笑んだ。


「え、なにそれ、どんな話?小学生に?どんな男だよ」


 杉田はソイツは絶対に危ない奴だと、梨乃さんが何もされなくて良かったぁと安堵の息を吐いた。


「あはは、そういうんじゃないよ!もう顔も声も覚えてないんだけど……とっても優しく笑う人だったなってことは覚えてる」


 梨乃の声が、表情が、あまりにも優しいから、杉田は過去のその男に思わず嫉妬してしまう。女々しいから絶対口にはしないけれど。


「なぁんかぁ、その人のこと好きだったみたいな言い方するじゃーん」

「えぇ?……まぁ、今思うと初恋だったのかも。おかしいよね、ほんと少ししか話さなかったと思うんだけど……」

「……ふふ。良かったね、とっても素敵な人だったんだ?」


 一瞬嫉妬心が湧き出た杉田だが、梨乃の幸せそうな顔を見ると自分の感情などどうだってよくなってしまう。

 杉田は、梨乃さんの幸せが俺の幸せ、と心の底から大真面目に思っている男なのだ。


「……ふふ。そうなの。久人くんと同じ左頬に傷があってね……」

「え〜、俺とぉ?それもしかしてマジで俺だったんじゃない?」


 これは杉田の完全なる軽口だが、梨乃は耐えられないといった風に吹き出した。

 あはは、と声をあげて大笑いする梨乃を見て、「いや、冗談だからね!俺が梨乃さんの初恋相手だとか思ってないから!」と杉田は必死で弁明しているが、実はそうなのだ。


 梨乃の方は気づいている。正確にはほんの数週間前に思い出したのだ。

 その直後杉田に確認しようと思ったが、こうして今も杉田に黙っているのは、彼に思い出してほしいからで。

 幼い頃の些細な記憶が特別な思い出になる体験を独り占めしていることがこそばゆい。いつか思い出した杉田のリアクションを想像することも楽しい。


 この後梨乃が慈しみの眼差しで杉田の左頬の傷を優しくなぞれば、杉田のシナプスが漸く仕事をしてやっと記憶が掘り起こされるのだが。その時の杉田のとびっきり可愛い反応は、梨乃だけの秘密だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る