9-3.キミの瞳に恋してる

 いっせーのーで、の間抜けな掛け声と共に梨乃はスマホの電源を入れた。

 彰宏からは着信が数件とメッセージがいくつか入っていたが、そのどれもが梨乃を心配するものではなかった。

 不倫相手の前で恥をかいたことと、自分ではなく杉田を選んだことに腹を立てているのだろう。

 一番最新のメッセージが『離婚はしてやるから、金は返せよ』というのがいい証拠だ。


「離婚してくれるって……良かった……!」


 だけど今の梨乃には借金返済などは些事であり、彰宏から解放されることこそが喜びであった。


「え〜?こんな簡単に離婚認める〜?これ信じていいの〜?」


 梨乃のスマホを覗き込んでいた杉田が訝しげな表情でブーブーと彰宏への文句を垂れているところを見るに、彼は全く信じていなさそうだ。


「え、え〜?どうなんだろ?」


 そんなことを言われると梨乃の方も自信がなくなってしまう。杉田は不安そうな梨乃に「怖がらせるつもりはなかったんだよ」とフォローを入れて、それから「明日、離婚届を書いてもらいに一緒にアキくんのところ行こうね?」と甘えるように首を傾げた。


「一緒に?それ大丈夫かな?」

「?どうして?」


 プライドの高い彰宏のことだ。梨乃が杉田と現れるなど許せないだろう。それこそ二人揃った姿を見るなり、嫌がらせで「やっぱり離婚はしない」ぐらいのことは言いそうなのだ。


「だからわたし一人で行ってくるよ」


 と説明した梨乃のその主張を、杉田は「絶対にダメ」と一蹴した。

 杉田は杉田で、「梨乃さん丸め込まれそうだし」「危害加えられるかもしんないし」という理由で、「絶対に俺も行く」という主張を譲る気はないようだ。


「……ケンカ、しないでね?平和的解決だよ?」


 そんなことを口にしながら、梨乃はチラリと杉田の腹辺りを見やった。Tシャツ一枚隔てた彼の素肌には、若かりし頃の切創がある。

 今の杉田がそんな無謀なことをするとは思っていないが、梨乃のこととなると杉田は盲目的になることも事実なのだ。万が一彰宏が梨乃に危害を加えようものなら……梨乃は最悪な想像をしてぶるりと体を震わせた。


「大丈夫大丈夫。梨乃さんの前でそんなことするわけないじゃん?」


 じゃあ、わたしのいないところなら?とは聞かない方がいいだろう。世の中には知らない方が良いこともあると、それぐらいは梨乃にだって分かる。


 そんな梨乃に安心してほしくて、杉田は「それに」と話を続けた。


「ややこしいこと言い出したら、未成年の女子生徒との不倫の証拠を突きつけてやればいいよ」


 そしたら黙るしかできないでしょ?と笑う杉田の瞳の奥は、少しも笑っていない。基本的に誰に対しても優しい杉田だが、一度敵認識をした相手にはとことん情けがなくなるらしかった。

 が、杉田の言うことは尤もで、それはこちらの切り札だった。確かにそれを提示すれば、彰宏は離婚を認めざるを得ないだろう。





「じゃあ、今日はもう寝ましょうね〜」


 梨乃が風呂から上がると、杉田は彼女をベッドに寝かせ、ブランケットをふんわりとかけた。

 そんな杉田自身は床に胡座をかいて、ベッドに頬杖をつき、愛おしげな視線で梨乃の顔を見つめている。


「杉田さんは寝ないの?」

「俺?俺は風呂まだだし、もう少し起きてる」


 梨乃さんは疲れたでしょ?寝な〜?と、杉田の口から出る言葉は梨乃を気遣うものばかりで、もちろんそれは彼の優しさ故の本音だ。本音なのだが、杉田にはもう一つの目的があって、それは"絶対に梨乃さんの寝顔が見たい!"という邪なものだった。


 そんなこととは露知らず、梨乃は杉田の優しさに甘えるように眦を下げた。

 その笑顔にたまらなくなった杉田は耳まで赤くし、照れを隠すように左頬をポリポリと掻いた。彼のこの癖は彰宏への恨みを忘れまいと毎日毎日触っていたが故のものであった。


 その傷の真相を知った今、梨乃は杉田のその傷が目に入るたびなんとも言えない気持ちになる。同情や哀憐とはまた違う。彼の痛みや悲しみ、苦しみまで全部まるごと抱きしめて、自分のものにしてしまいたいこの気持ちをなんと呼ぶのだろうか。


「なぁに?この傷気になる?」


 梨乃の視線に気づいた杉田はさらに笑みを深めた。梨乃はなんと答えるべきか迷って、杉田と同じような笑みを浮かべる。

 その表情一つで相手を愛おしいと思っていることが互いに伝わった。


「俺さ……この傷は憎しみの象徴でしかなかったんだけど……今は感謝すらしてるんだ」


 杉田から出た予想もしていなかった言葉に、梨乃は目を見開いた。


「感謝?どうして?」


 杉田自身も自分の気持ちの変化に驚いたのだろう。ビックリだよね、とクスクス笑っている。


「この傷がなかったら、アキくんの誘いに乗らなかっただろうし、そもそもアイツのことなんて忘れてたと思う」


 杉田の大きな手が梨乃の髪を撫で、そのまま輪郭に沿って這う。その手つきが擽ったくて、ふふ、と笑声を漏らした梨乃の唇を杉田は指の腹でなぞった。

 壊れ物を触るような優しさの裏側には、確かに高い熱量を孕む独占欲が見え隠れしている。

 

「だから……これが、この傷が、梨乃さんと出会うためにつけられた傷だったなら、痛みまでも愛おしいんだよ、って言ったら……笑う?」


 おかしなことを言っているなと、杉田は自覚していた。だけどそれが杉田の嘘偽りない本心なのだ。


「……ううん、笑わない」


 いつになく真剣な梨乃の眼差しが杉田を見つめ、ゆらゆらと揺れる。今にも泣いてしまいそうだな、と杉田は唇に触れていた指の腹で梨乃の目元を拭った。


「今までの全部が杉田さんに会うために必要なことだったなら、その全てが愛おしいもの」


 それを言い切ったと同時に梨乃の瞳からはポロポロと涙がこぼれおちた。その甘い雫が杉田の指を伝い、彼へと染み込んでいく。


 梨乃が瞼を閉じたのが先だったか、杉田が彼女の瞼に口づけを落としたのが先だったか。

 

 どちらにせよ、彼らは心から互いが必要だった。互いを唯一無二とし、求めていた。


 あの日、初めて目を合わせた瞬間、彼らは互いの瞳に吸い込まれるように恋に落ちたのだ。


 いつかもしもこの恋が枯れて、そこに痛みだけが残ったとしても、彼らはそれさえも愛せるのだろう。

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