9-2.ボクの心はキミに奪われた
目の前の封筒の中身がなんなのか、それは見なくても分かった。だけど、まさかと信じられない気持ちが大きい。
「え、これって……ダメダメ、ダメだよ」
受け取れないと、梨乃は何度も首を振り、杉田の好意を断った。が、杉田は頑として譲らない。何がなんでも梨乃に受け取ってほしいようだ。
「このお金は絶対に梨乃さんに使ってほしいんだ」
「……どうして?」
そこまで断言するにはそれ相応の理由があるのだろうと、梨乃は問いかけた。杉田は、あーとかうーんとかと言い渋ったあと、意を決したように「実はこれ、」と口を開く。
「慰謝料なんだよね、この傷の。口止め料込みでこの金額。あ、あと今回のことでアキくんから貰ったお金も入ってる」
杉田は左頬の傷を気まずそうにポリと掻いた。
「口止め料……?」
不穏な単語を思わず繰り返せば、「向こうは中学受験前だったしね」と杉田はあっけらかんと答えた。
「親はこの金で傷を治せって言ってたんだけどね、俺は忘れないようにどうしても消したくなくて」
めっちゃ執念深いっしょ、俺、と杉田はカラリと笑うが、梨乃は少しも笑えなかった。
彼の左頬の目立つ傷は、彰宏が言ったような「遊んでたら枝がぶつかった」などという過失ではなかった。彰宏は意志を持って杉田を傷つけたのだ。それはもう立派な犯罪でないか。
この歳になってもその大きな傷を肌に残し、彰宏を恨み続ける杉田の気持ちを思うと、梨乃の胸は張り裂けんばかりに苦しくなった。
「梨乃さんがそんな辛そうな顔しないでよ」
杉田はそう言って、梨乃が泣きたくなるほどの優しい笑みを向けて、彼女の傷一つない頬をやわやわと撫でる。
「だって、そんな酷い話……」
「……ま、とにかくさ、俺はこのお金の使い道が分かんなかったんだけど。梨乃さんのためだったんだな、って思ったんだよ」
だからこれは梨乃さんが使って、と杉田は封筒を再び梨乃に押しつけた。
本音としては有り難い気持ちが3割、申し訳ない気持ちが3割、残りの4割は杉田の為には受け取った方がいいんだろうなという気持ちであった。
「あ、ありがとう……大切に使わせてもらうね」
その言葉を聞いて安心したように笑む杉田を見ると、わたしの選択は間違っていなかったんだなと梨乃も安堵の息を吐いた。
思い残したことはないとまで言いそうなニコニコ顔の杉田を見て、梨乃はハッとあることに気づいた。
「ねぇ、もしかしてお腹とか背中の傷もアキくんにつけられたの?」
杉田の体についた傷は左頬にあるものだけではなかったのだ。心配そうに揺れる瞳を向けられて杉田は焦った。
「え?あはは……いや、これはその、ちょっと荒れてた時の諸々で……アキくんとは関係ないやつ……」
梨乃に嘘はもう二度とつきたくない気持ちと、幻滅されたくない気持ちがせめぎ合った結果のその濁し方だった。
しかし梨乃は彰宏の母から聞いた話とやっと繋がったと、「あ!」と声を上げる。が、その直後これは軽々しく踏み込んでいい話題ではないのでは?と口をつぐんだ。が。
「え?なになに?気になるじゃ〜ん」
と杉田がつついてくるので、梨乃は今この時が確かめるタイミングなのかと思い直し、「えっとぉ……少年院?入ってたって?聞いた?みたいな?」と遠回しなのか直接的なのかよく分からない聞き方をしてしまう。
「え?ちょっと、どこまで話おっきくなってんの?!ないない、それはない」
杉田は慌てて否定をしたが、その否定の仕方的にはそれに準ずる行為はあったのかもしれなかった。そんな杉田を見て、彼は本当に不思議な人だなと、梨乃は思った。
気さくで情に厚く、快活で裏表のなさそうな陽の雰囲気を持つのに、その実彼の過去や心の内は仄暗い部分を多分に持ち合わせている。
しかしだからだろうか。杉田の暗い過去故、恨みの気持ちに支配されつつ、しかしそんな己を否定し続けてきた杉田だからこそ、誰かの意思や思想を否定することを嫌うのだろうか。梨乃はそんな杉田に確かに救われたのだ。
そして梨乃は、未だに掴みきれない不思議な魅力を持つ杉田を、知れば知るほどさらに深く知りたいと思うのだ。できることならこれからもずっと、一番近くで。
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