9-1.瞼xxx

 杉田の部屋に入った梨乃は、彼のベッドの上に置かれたもっぺん人形を手に取った。イベント会場で梨乃が最後までどちらを買おうか悩んだ片割れだ。

 それを撫でながらふと匂いを嗅ぎたくなって、出来心で鼻の近くまでやった頃、ピンポーンと間の抜けた音が鳴った。

 わたしってばすっごい変態っぽかったと、我に返った梨乃が照れながら玄関を開ければ、そこには眉を八の字に下げた杉田が立っていた。


「おかえりなさい?」

「あ、あぁ、うん、た、……ただいま?」


 なんと言って出迎えたらいいのだろうと疑問系の様相を呈した挨拶に、これでもかと照れた杉田は頬を真っ赤にして、傷跡をポリポリと掻いた。


「待たせたかな?ごめんね。何してた?」


 暇だったでしょと、杉田は洗面所に入り手を洗い出した。衣擦れの音が聞こえる。仕事着から部屋着に着替えているのだろう。

 何してた……あなたが毎日一緒に寝ているぬいぐるみの匂いを嗅ごうとしてましたとは、口が裂けても言えない梨乃は、「ボーッとしてた」と無難な言葉で誤魔化した。


 そっかそっかと、杉田は梨乃の言葉を疑わない。杉田には梨乃が嘘をつくだなんて考えがないのだ。彼は好きな女を神聖なものとして偶像化するきらいがあった。

 だから"俺なんかが幸せにできないよな"と身を引こうとするのに、好きで好きでどうしようもない梨乃を目の前にすると本能の部分が"この人を離したくない"と暴走するのだ。


「ここ、座って」


 杉田はこの部屋の中で唯一の柔らかい場所であるベッドの上へと梨乃を促した。だけど梨乃は、外を歩いてきた服のままそこに座ることに拒否感を示してしまう。

 だから「ここでいい」と杉田の横に腰を下ろした。少し距離を置いて座ると、どうしても目に入ってしまう杉田の顔に絆されそうで、梨乃は彼の近くに擦り寄ったのだ。

 これに参ったのは杉田だった。立ちのぼる梨乃の香りに理性が溶かされていきそうで、それでもそんな野蛮なことをしたくなくてグッと歯を食いしばって、理性を総動員して耐える。そして真面目な話をすればそんな気も起きなくなるだろうと、早速本題に入った。 


 杉田が梨乃に説明したことは概ね彰宏の話をなぞったものであった。

 

 クリーニングの集荷の際に彰宏と偶然再会をし、「俺の嫁にハニトラしかけてくんない?」と話を持ちかけられたと杉田は告げた。


 彰宏のことを"変わってねぇな"と思った杉田は、"コイツの弱みでも握れたら儲けもんだな"なんていう軽い気持ちでそれを請け負ったらしい。


「俺、アイツに虐められてたんだよねぇ」


 と、杉田は左頬の傷を親指の腹でさすった。それ以上は何も語らなかったが、杉田の彰宏へ対する恨みは相当なもののようだと梨乃は感じた。


「入りは確かにそれだった。正直、アイツの奥さんのことなんて少しも考えてなかった……だけど、」


 杉田の声が悲痛なそれに変わり、梨乃は思わず彼の手を握った。そうしなければならないと体が分かっているかのように自然と動いたのだ。


「はは……ほらね。俺は駄目だった。知れば知るほど梨乃さんに惹かれた。途中からはどうやって梨乃さんとアイツを別れさせようかって、そればっかり考えてた。


 だけど俺なんかが梨乃さんには相応しくないって、身を引こうとしたりもしたんだけど……どうしても好きで……」


 俺のことを好きになってほしくて必死だったんだよ、と杉田は梨乃の指先を握り返した。

 そして「ずっと隠しててごめん」と杉田は深々と頭を下げた。いつか言わなければいけないと分かっていながらも、言ってしまうと梨乃が離れてしまうんじゃないかと、それが怖かったと杉田は言った。

 


「結局、俺は自分のことしか考えてなくて……、そのせいで梨乃さんを深く傷つけた」


 あのような形で暴露された原因は己の意気地の無さだ。杉田は梨乃を無用に傷つけたことを心底後悔していた。


「杉田さん……」


 梨乃は彼のそんな弱いところも愛おしいと、杉田の名前を呟き、慈愛の眼差しを向ける。いつも明るく朗らかな杉田の弱った表情が、梨乃の母性をくすぐったのだ。


 その表情に杉田は許された気になって、今すぐ梨乃を抱きしめたかったが、まだ伝えなければいけないことがあるだろと己を律した。


「そうだ、あとさ、俺、梨乃さんに渡したいものがあって」


 そう言いながら杉田は四つん這いになり、「ちょっとごめん」と梨乃の背後のベッド下の収納ボックスを開けて何かを手にする。

 そして「これ、使ってほしい」と梨乃の目の前に分厚い封筒を躊躇いがちに差し出した。

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