8-3.それは喉から手が出るほど
どこに行きたいかだなんてことは考えていなかった。ただ遠くへ逃げたくて、梨乃は路地裏を選んで入り組んだ道を歩き、奥へ奥へと進んだ。
スマホの着信も無視して、一心不乱で歩き続けた梨乃が着いた先は、所謂ラブホ街だった。
煌びやかで正の気しか漂っていないような街から歩いて行ける距離にあるそこは、対照的に欲望渦巻くどんよりとした空気に覆われている。
梨乃はそこの空気を吸って初めて我に返った。直上的な己の行動を後悔したが、それは一瞬のことで、やはりもう彰宏とは一緒にいられないと未だ鳴り続けるスマホの電源を落とした。
それにしてもこれからどうしようと梨乃は考えたが、良い案は少しも浮かんでこない。頼れる友達は近くにいないし、実家に帰っても「彰宏くんに謝って仲直りしなさい」などと諭されそうだ。
そんな風に考えながら、梨乃は無意識に杉田を思い浮かべた自分を恥じた。こうなってまで杉田を求めてしまうなんてどうかしてると思うのに、彼がいてくれたら怖いことなんてないのにと思うことも事実なのだ。
初めは、そうやって杉田のことを考えすぎたから、遂には彼の幻覚を見るまでになってしまったのかと思った。
だけどそうじゃなかった。ラブホ街に乱立するホテルの一つから出てきたのは、今まさに梨乃が会いたいと願った杉田本人だった。
本物だと分かった瞬間、梨乃は思わず駆け寄りそうになった。だけど足を一歩踏み出したその時にはたと気づく。ラブホテルから出てきたということは、つまりそういうことでは?
サッと血の気が引いた。あの関係を特別だと思い、真実を告げられてもなお今の今まで引きずっていたのは自分だけだったのだと、想像していたより梨乃はずっと傷ついた。
杉田に裏切られたと思った。実際は裏切るもなにも、仕組まれた関係には初めから信頼など成立していなかったのに。
逃げて辿り着いた先からもまた逃げるように梨乃は踵を返した。地面と靴が擦れて微かに音を立てる。
「梨乃さん!」
杉田は狡い。惨めな梨乃の気持ちを察してくれない。ただ自分の思うままに名前を呼び、逃すまいと梨乃を追いかけ、もう離さないとでも言うように梨乃の体を掻き抱いた。
何を考えているのだと、振り解こうと梨乃は杉田の腕の中で踠くが、二人の体格差を考えるとそれは土台無理な話なのだ。
「や、杉田さんっ、はなして、」
「離すと梨乃さん逃げるじゃん!」
梨乃は戸惑っていた。ここはラブホ街だから、男女がこうして揉めていようが悪目立ちはしないが、ホテルから出てきた杉田には相手がいるはずなのだ。
「早く相手のところに行きなよ!」
「え?……あ、違う、違う!俺仕事!仕事だから!」
どうやらラブホテルで出るリネン類の回収に来ていたようだ。
杉田のその言葉に全力で抵抗していた梨乃の体から力が抜けた。そしてそれを感じ取った杉田の腕の力も緩み、今なら特段力を込めなくてもスルリと抜け出すことができるだろうほどになった。
だけど梨乃は未だに杉田の腕の中だ。後ろから梨乃を抱きしめている杉田の唇が梨乃の肩口に触れた。ぴくんと体が震えたが、杉田はそんな些細な振動など気にも留めない。
「あと少しで仕事が終わるから、俺の部屋で待っててほしい。きちんと話させて、全部」
これ鍵、と杉田は仕事着のポケットからそれを取り出し梨乃の手に無理矢理握らせた。
「……行くと思ってるの?」
梨乃の声は無意識に笑っていた。それは彰宏へ向けた呆れを含んだものではなく、微かな喜びを隠せない声だ。
「……うん、思ってる。これ合鍵じゃなくて俺が普段使ってるやつだから。このまま梨乃さんが来てくれなかったら、俺家に入れないよ?」
対照的に杉田の声は不安で揺れていた。梨乃の肩口に触れた唇にも懇願するように力が入る。
「んっ……なにそれ、脅してるの?」
その感触に思わず漏れ出た声を誤魔化すように、梨乃は声を低くした。
「そう、なりふり構ってらんないの、俺。梨乃さん、お願い、逃げないで」
祈るように求められれば、梨乃の中から断る選択肢は消え去ってしまう。そもそも初めからこうなればいいのにと思っていたのかもしれなかった。
「……分かった……、待ってる」
「っ、ありがとう……俺、梨乃さんのこと本当に好きなんだ」
「……うん、」
まだことの真相を伝えていないうちから愛の言葉を囁くなど愚行中の愚行だと思うが、梨乃に回された杉田の腕に込められた力が、肩口に触れた唇が、震える声の全てがそれは本心なのだと伝えているようだ。
それだけは信じてほしい。梨乃さんを想う気持ちに嘘偽りはないのだと、杉田はそう伝えたかったのだろう。
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