8-2.やはり愛しているのでしょう
あれもこれも初めから仕組まれていたのか。わたしの知っている杉田はいったい誰だったのだろう。わたしが好きになったのはいったい誰なの。
梨乃は彰宏の言葉を噛み砕きながら、目の前で何度も謝罪の言葉を口にする男を虚な瞳で見つめた。
「お前、やっぱりその傷のことで俺をまだ恨んでたんだな」
彰宏はしゃがみ込んで、杉田の左頬の傷を指さした。それにピクリと杉田が反応する。
「お前は俺を陥れたかったわけだ。だから梨乃を自分に惚れさせて、俺の不倫の証拠を集めようとけしかけたんだな?」
なんだ……杉田さんはわたしのことを思ってそう提案したわけじゃなかったのか。梨乃は自分があまりにも哀れで、そしてそれ以上に愚かで、クスクスと小さく笑みをこぼした。
「杉田ぁ、コイツを落とすのは簡単だったろ?傷ついて自己肯定感が下がってる女はチョロいもんな?」
シン……と静まり返った部屋に、彰宏の嘲笑が響く。
「お前は杉田に利用されたんだよ、馬鹿な女」
その言葉に弾かれたように梨乃は顔を上げた。瞬間的に杉田の視線と交わり、彼が悲痛な表情を浮かべていたことを知る。
「違う、梨乃さん、違うよ、俺は、」
杉田はそうやって否定の言葉を口にしたが、今は何を聞いても言い訳だと思えてしまう。
結局彰宏が言ったように、不倫は不倫で、それ以上でもそれ以下でもなかった。ただ満たされない心を他の男で埋めようとした愚かな梨乃に、罰が下っただけだ。そこに愛などなかった。
杉田を追い返した彰宏は、梨乃を優しく抱きしめた。それを気持ち悪いと思うのに、今の梨乃にはそれを振り払う気力もない。
その日から彰宏はやたらと梨乃に優しくなった。付き合う前から入籍前にかけてを彷彿とさせるそれは、一見すると彰宏が反省し心を入れ替えて梨乃に償っているようにみえるが、実のところそうではない。
彰宏は梨乃が自分以外に靡いたことが悔しいだけ。プライドを踏み躙られたと感じたのだ。
だから梨乃の心を取り返そうと躍起になっている。取り返せたと思ったらまた不倫でもするのか、それとも彰宏から離婚を切り出して梨乃を本当の地獄に堕としてやろうとしているのか。どちらにせよ碌な思惑でないことを、梨乃はもちろん分かっている。
そして梨乃はあの日から時間が経つにつれ、やっぱり杉田はあんなことを訳もなくする人じゃないと考え始めた。杉田から感じた優しさ全てが虚像だったと思いたくないだけなのかもしれないが。
しかし、やはり金のためだけに杉田が誰かを傷つけることに加担するだなんて信じられない。となると、梨乃の頭に思い浮かんだのは「傷のことで俺を恨んでいたんだな」という彰宏の言葉だった。
「ねぇ、杉田さんの頬の傷って、あれアキくんがつけたの?」
彰宏の機嫌が良いときを見計らって、重い空気にならぬように梨乃は軽い声音で尋ねた。それなのに触れることさえタブーだったのか、彰宏は途端に機嫌を悪くした。彼の機嫌に伴って部屋の空気が重くなる。
「遊んでいたときに枝がぶつかって怪我をさせただけ」
彰宏はただの事故だと言うが、それなら息が詰まりそうなほど怒る必要もないだろうと思う。やはり大きな傷跡を残してしまったという自責の念があるのだろうか。
シン、と気まずい空気が流れ、それを取り繕うように彰宏は笑顔を作った。
「なぁ、今から買い物に行くか?好きなものなんでも買ってやるよ」
その彰宏の誘いに乗って出かけた百貨店で、梨乃はハイブランドが並ぶフロアへと連れて行かれた。
「ここ、お前に似合うデザインがたくさんあるぞ」
その中の一つの店の前で彰宏は足を止め、梨乃の手を握り入店する。彰宏が人前で手を握るなど、何年振りだろうか。どういう魂胆があるのだ。梨乃はもう、彰宏の全ての言動を素直な気持ちで受け止められなくなっていた。
「福崎様、いらっしゃいませ」
女性店員は彰宏を見つけると素早く声をかけた。それだけで彰宏が普段からここを利用していることがよく分かる。
「ああ、今日は妻の物を買いに来ました」
彰宏の口から"妻"という言葉が出たので、梨乃はその店員に軽く会釈をした。
梨乃が思わず見惚れてしまうほど美しい彼女は、鈴村だと名乗り、彰宏の担当販売員をしていると告げた。
彼女に案内された奥の個室でデザートと飲み物を出され、タブレットで商品を吟味している彰宏を見て、梨乃は可笑しくてたまらなかった。
付き合っている時も結婚してからもこんなところに連れて来てくれたことは一度だってなかったのに。自分のプライドを取り戻すためならなんだってするのね、と呆れてしまう。
そしてふと思い出したのだ。彰宏の不倫の証拠を集めているとき、彼がよく連絡をとっていた相手が"鈴村レイカ"という名前だったことを。
彰宏の横に跪き、商品説明をしている鈴村に、梨乃は「下のお名前はなんていうんですか?」と聞けば、彼女は鈴を転がすような声で「レイカと申します」と告げた。
あぁ、やっぱり彼女があの電話の相手なのだと。鈴村の瞳の奥には確かに嫉妬の炎がメラメラと燃えている。
梨乃は鈴村に対してはなんの感情も抱かなかった。可哀想だとすら思わなかった。
ただ、彰宏への嫌悪感は増した。こんなところに妻を連れて来て不倫相手を挑発ないしは諦めさせようとしているのだろうか。それとも梨乃に、俺はお前を選んだんだよ、とチラつかせ、優越感を抱かせたいのだろうか。
どちらにせよ、梨乃のことも鈴村のことも大切には思っていないことだけは確かだ。
やっぱり彰宏のことは理解できないし、したいとも思えない。もう同じ空気すら吸いたくなくて、梨乃は「お手洗いに」と立ち上がったその足で百貨店を後にした。
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