8-1.肩xxx

 彰宏だけが上機嫌で、普段は絶対にしないコーヒーを淹れたりして、杉田の目の前にそれを置いた。


「飲めよ。ここの豆すっげぇ美味いんだよ」


 場違いに明るい彰宏の声が誰に拾われることなくぽとりとその場に落ちる。

 杉田は何を考えているのか、眉間に皺を寄せてこめかみを強く押さえた。部屋に入るなりキャップを脱いだことによって、彼の魅力的な瞳は落ちてきた前髪に隠されている。そのせいで余計に杉田の気持ちが読めなくて、梨乃は殊更不安になるのだ。


「梨乃、俺と離婚したいんだって。で、お前と再婚したいらしいよ?」

「……違う!そんなこと思ってない!わたしはアキくんと離婚したいだけ……杉田さんとそんな風になりたいわけじゃ、」


 梨乃の語尾は段々と弱くなって最後まで言い切れなかった。


「俺の不倫を責められる立場じゃねーじゃん。慰謝料は相殺だな」

「…………っ、わかった、それでいい」

「てか、お前俺と別れてどうやって生活していくの?お前の親も弟たちもガッカリするだろうなー。貸した金は返してもらうから、定食屋は廃業で、弟たちは進学も諦めなきゃな」


 彰宏はこの上なく愉しそうに梨乃の不安を煽る。


「あのさぁ、人間には身の程ってのがあるんだよ、わかる?お前はずっと俺の家政婦として、」

「おいお前、やめろ!」


 先ほどまで黙っていた杉田が彰宏の胸ぐらを掴んだ。今にも殴りかかりそうな己を鎮めようと、肩で息をして深い呼吸を繰り返している。


 梨乃は杉田が自分のために怒ってくれた事実を目の当たりにして胸がいっぱいになった。もうそれだけでいいと「杉田さん、大丈夫だから」と宥めるように杉田の名前を呼んだ。


「は?お前なんなわけ?なにマジで怒ってんの?離せよ」


 彰宏は興ざめしたとばかりに視線を鋭くし、自身の胸ぐらを掴む杉田の手を強く払った。


「お前、梨乃さんのことなんだと思ってんの?この子はお前の物じゃねーぞ」

「は?なに?お前もしかして、マジで惚れたの?」


 杉田の剣幕にも彰宏は動じず、それどころか「そんなことある?」と先ほど醒めた興が戻ってきたとばかりにギャハハと大声で笑い始めた。

 梨乃はもうその笑い声を聞いていたくなくて、思わず耳を塞いだ。


「はぁ……もういい。梨乃さん……俺と一緒に行こう?ここにいてほしくない」


 彰宏の言動に呆れ返った杉田が梨乃の瞳を見つめ、嫌に力の入った梨乃の手を彼のそれでそっと包み込んだ。

 それだけで梨乃はまた息ができる。やっぱりこの人と一緒にいたい。ずっと、ずっと。梨乃は杉田を見つめ返し、大きく頷いた。


「純愛気取りかよ……、きっしょくわりぃ。やってることはただの薄汚い不倫だろ?」

「で?言いたいことはそれだけか?」


 梨乃の中の杉田は気さくで優しく、いつも笑顔で温厚で、可愛いものが大好きで、すぐに頬を赤くするそんな男だった。

 だけど今の杉田は真っ黒な瞳を携え、彰宏に危害を加えることも厭わない、そんな危うい雰囲気を纏っている。

 梨乃の知っている杉田は彼のほんの一部なのだろうと思えた。彰宏の母が言っていた「少年院に入っていた」という話が梨乃の頭に浮かんだ。


「……っ、はは、杉田、お前梨乃に言ってないんだろ?」


 そんな杉田の気迫に気圧された彰宏が負け惜しみ然とした口調で杉田に食ってかかる。

 しかしそれに杉田はたじろいだ。そんな彼の姿を見て、梨乃は少年院云々の話が事実なんだろうなと察したのだ。だけど彰宏の口から吐き出された事実は、思いもよらぬことであった。


「梨乃、お前、杉田と出会ったのが本当に偶然だと思ってるのか?」


 彰宏の言っている意味が理解できなかった。いや、その言葉は分かるのだが、その奥に隠された真意を理解できなかったのだ。

 なにが言いたいの?と険しい顔つきになる梨乃だが、大きな溜息を吐いた杉田を見て、ただことじゃないんだなということだけをなんとか汲み取った。


「コイツはなぁ、俺が金で雇ったんだよ」


 たしか30万だったか?と、彰宏は言わなくてもいい金額までをわざと口にして、梨乃の不快感を煽った。

 杉田が否定しないことがなによりの証拠だと思えたが、梨乃の頭は全てを理解していない。雇った?お金で?なんのために?と途切れ途切れに疑問が浮かんでは、解決しないまま蓄積されていく。


「不倫相手がお前と別れてほしいって言うから、まぁそれもいいかと思って」


 だけど慰謝料とか払いたくねーじゃん?と、彰宏はご丁寧に全ての疑問に答えてくれるつもりのようだ。

 めまいがする。杉田がいても息がうまくできない。頭が痛い。

 ハァハァと息を荒くする梨乃を心配し、杉田が「おい!」と彰宏に制止を求めたが、彰宏はそれを呑むつもりはないようだ。


「梨乃さん、ごめん、……俺、」


 杉田の温かな手のひらが梨乃の背中をさするが、まるで一枚布を隔てたように感覚がないのだ。


「続けてい?だーかーらー、梨乃が不倫したらそっち有責で離婚できるかと思って、杉田にお願いしたの、ハニートラップ?」


 あ、逆ハニートラップか!と、どうでもいい訂正を入れた彰宏は、俯く二人を見てニタニタと下卑た笑みを浮かべる。


「もう、わかったから、もういいから」


 梨乃はそれ以上を聞きたくなくて頭を左右に振ったが、彰宏はまだ納得していない。

 杉田のさらなる思惑を暴露したくて仕方がないのだ。心を折るなら粉々にしなくてはいけない。それが彰宏の心情だった。

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