恐るべき女たち

クニシマ

◆◇◆

「なあ、虫が入ってたよ、これ。今。見たろ。ほら。飛んでったよ、そっちにさ。」

「ええ、ほんとにい? やだあ。どこ?」

 二十三時半のファミリーレストランはまずいスパゲティを出すだけにとどまらず、巨大な黒い虫をその中に潜ませておくのだからたちが悪い。それが脚をばたつかせて不恰好に飛び去った先、真向かいの席に座るあやは、眉をひそめてオレンジジュースを吸い上げた。

 あや羽は僕の恋人で、頭が悪くて、目と乳房が大きくて、僕の顔を見つめてはいやみっぽくなく笑うから、愛している。

「こんなもの、客に出していいわけ、ないよな。おかしいんだ、店員がさ。知ってるか? どこの店でもさ、夜中はまずいもの出すんだよ。ちゃんと作っちゃないんだ。怠慢だよ。」

 フォークを投げ出しながらそう教えてやると、あや羽は目をみはって驚いた。

「へええ、知らなあい。ゆうくん、やっぱり頭いいね」

「あや羽は、ばかだからね。」

 ともかく文句を言おうと辺りを見回すが店員はどこにもいやしない。近くのテーブルには突っ伏して眠りこけている中年男が一人。遠くの席からは何か言い争うような声と、それから硬質のものを叩きつける音が漏れてくる。素足にサンダル、耳には白いイヤホンを突っ込み、うるさく喚く赤ん坊を背負って店内をうろつく若い女は、両手にコップを握りしめている。呼び出しのベルを押してみると、十二度目でようやく奥から店員が走ってやってきた。見るからに鈍臭げな男だから、しっかりと注意してやることにする。

「虫が入ってんだよ、ここの食べ物はさ。よく金なんか取れるよな。見上げた商売根性だよ。ばかにするのもいい加減にしろよ。虫をさあ、食べるために注文してないんだよ。なあ。」

 僕が指差す皿を見もせずに、店員は何度も頭を下げる。そうしておけばいいと教わっているのだ。

「はい、はい、それは、はい、本当に申し訳ございません。あのすぐ新しいものをですね」

「いらないよいらないだろ普通。食べないよね。虫が入るようなところでさあ作ってるものを。冗談じゃないよ。どうなってんの、この店は。おかしいんだよな。おかしいんだよ。」

「はい、本当に、はい、申し訳ございません。こちらの、はい、不手際で、はい」

 話にならない。もう帰ろうとあや羽に言う。彼女は急いでジュースを飲み干した。その手を引いて外へ出ようとすると、店員がすばやく動いてそれを阻む。

「お客さま、あのですね、お会計を」

 金を取ろうとするときばかり迅速だ。まったくふざけている。

「虫に金払えって言ってるんだよ、おかしいと思わないのか、自分でさ。ただだろ、ただ。ただにするだろ。普通。払えないよ金なんかさ。」

 僕がそう言っているというのに、あや羽は財布を取り出そうとする。やはり僕のようにちゃんとした常識を持っている人間がそばにいてやらないと、こういう女はすぐ詐欺に騙されるのだから危ない。

「払わなくていいんだよあや羽。ばかだなあ。」

「いえお支払いいただかないと困りますから!」

 とうてい客に対して向けるものではない怒鳴りつけるような声。この店はいったい店員にどんな教育をしているのかはなはだ疑問だ。結局あや羽はそれに怯え、僕の制止も聞かずに金を払ってしまった。困ったものだ。店を出てから僕は彼女を諭した。払わなくていいものを払っているようではいけない。いつかきっと痛い目を見ることになる。僕はあや羽が心配だからこう言っているのであって、決して嫌いになったわけじゃないから安心していいんだよ。あや羽はごめんねと言った。その瞳は潤んでいた。女はすぐに泣くから弱ってしまう。僕は彼女にそっとキスをしてやった。月のない夜だ。街灯ばかりが僕らを眺めていた。

 数年前、通っていた大学の近所に短大ができた。その年の夏季休暇が始まる頃に僕とあや羽は出会った。短大の敷地から吐き出されてくる日傘の大群は狭い道をちんたら歩み、街路樹にしがみついた蝉が騒ぎ立てる中、僕は追い越そうにも追い越せないその集団のすぐ後ろで彼女らの会話を聞くともなしに聞いていた。そうしてしばらく歩くうちに、その中の一人がどうも軽んじられているらしいと知った。彼女は周囲より頭ひとつ抜けて整った顔立ちをしていて、だから友人とおぼしき連中に嫉まれているのだとわかった。それがあや羽だった。そのまま駅に着き、女たちはプラットホーム上でそれぞれに別れて電車へ乗り込んでいった。僕は彼女の後を追い、自宅のある駅には止まらない快速に乗った。

 平日午後の上り線はがらんとして、無人の座席には窓から差し込む陽光ばかりがずらりと並んでいた。僕は彼女の隣に座り、少しの間だけ何を言おうか考え、それから口を開いた。

「きみ、かわいそうにね、いじめられてるんだな。」

 彼女は驚いたような顔で僕を見つめた。大きな瞳が日差しを跳ね返して煌めいた。彼女の降りる駅に着くまで、僕らはぽつぽつと言葉を交わした。それから夏が過ぎるまでに何度か会い、秋の風が吹いた頃、僕は彼女に愛をうちあけた。そうやって僕らは恋人になったのだった。

「あっ。ねえ、ゆうくん、あたし、ごめんね、今日は帰んなきゃ」

 僕のアパートの前までやってきておいて、あや羽はそう言った。さっきスパゲティから出てきた虫が、まだ僕の体の周りを飛び交っているような気がした。どうして、と、意図もしないのに這うような声が出る。

「明日友達と会うからあ。あのねえ中学の先輩でねさんって」

 それを聞いた瞬間、比喩でなく息が止まった。ひどく苦しい。僕はこんなにもあや羽を愛している。それなのに、なぜそんなことができるのか、まるでわからない。

「誰だよゥそれ誰だよ。僕がいるのによく、男と会えるな。そんな女だったんだな、ああ、そうなんだな。」

 あや羽は慌てた顔をして「違うよ女のひと」と言う。うそをつくなよ。気のせいではない、飛んでいる、巨大な羽虫が飛んでいる。だってゆうくん知ってるじゃんあたし女子校だった、とあや羽は喚く。

「大きい声出すなうるさいんだからあ、ああ! どうしていっつもそう騒ぎ立てるんだようんざりなんだよ。勘弁してくれよ。」

「だって違うもん、ほら、ほら、さん、これほらね女のひと! ね、ね」

 あや羽が見せてきた小さな液晶画面を走るひびの裏に、目つきの悪い不良じみた女が映っていた。大きくため息をついた僕を、あや羽は不安そうな目で見つめる。怒った僕が自分を捨てるかもしれないとでも思ったのだろう、そして帰っていった。僕はひとりで眠った。まるで小さな、小さな枯葉にでもなったようだった。

 朝日が窓ガラスを貫いても、僕は夢にもぐり込むのをやめなかった。そのままで正午を迎えた。枕元に置いた時計の画面上で、角ばった数字がきっかり移り変わったとき、唐突にインターホンが唸った。重い頭を手で押さえて玄関のドアを開けると、そこにはあや羽とが立っていた。僕は驚いて、どうしたんだよ、と尋ねる。

「申し開きでもしにきたのか。怒っちゃいないよ。わかってるよ昨日は言いすぎた、悪かったよ、男だと思ってさ、情けないけど嫉妬だよ。ほら、愛してるからさ。」

 そうしてあや羽の頭を撫でてやろうと手を伸ばすと、あろうことか彼女はそれを避けるかのように後ずさった。反対にが一歩前へ歩み出て、僕の顔をぎっと睨みつけ、大声で言い放った。

「言ったろ、こいつ頭おっかしんだよ。」

 何が起こっているのかさっぱり理解できない。虫だ、虫が、虫がいる、耳元でぶんぶんと飛び回っている。とにかくひとつ確かであるのは、この女も、あや羽も間違っているということだ。僕はあや羽の目を覚まさせようと平手で軽くその頬をった。途端、の拳がその何倍もの力で僕の鼻っ柱に振るわれた。ちか、ちか、とすべてが白く瞬いたその奥に、があや羽を連れてどこかへ去ろうとするのが見えたらしかった。

 次に見たのは薄暗い地面と無数の小さな影だった。影のひとつひとつに、せかせか動く脚が六本生えている。僕は腕を振りかぶってそれに叩きつけた。しかし影はずっと動き続ける。ああ、この世界はまるきり間違っている。僕と、僕の愛だけが正しいのに、あや羽がここにいない。あや羽。けれど僕はまだあや羽をちゃんと愛しているから、いつだってきっと許してあげよう。

 僕の指先で、影は広い翅をゆっくりとはためかせていた。

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