第3話
走る姿を想像すると、私は胸が高鳴った。
大会は何度も経験しているけれど、こんなに緊張する朝は初めてだった。起きた時から目が冴えているし、胃がチクチクして食欲がない。
そんな私の心境が母にも伝わったのか、朝食は醤油の焼きおにぎりとリンゴジュースだった。陸上の大会の朝は、いつも必ずこの朝食を作ってくれる。地元の醤油の香ばしい香りで、浮ついていた心が少し落ち着くのだ。
食べ終わってご馳走様をしてから、大会会場である自室へ向かう。
「応援してるよ」
お母さんの言葉に、私はニッコリ頷いた。
車椅子を転がして私の部屋に入り、広く空間を開けてある中央に停める。
まだ開始時間までは猶予があったけれど、最終確認のためにヘッドマウントディスプレイを頭に装着した。こままねマラソン用のワールドは既に公開されていて、参加者が徐々に集まりつつあった。皆、アバターに凝っているらしく、馬頭人間やらケンタウロスやらがいっぱいいる。アバターだから、外見だけでは誰なのか分からない。
バーチャルのマラソンコースは、実際のコースを元に作られている。小学校を起点に、市の中心部を周って小学校に戻ってくる行程だ。私が居る場所も、実際のスタート地点である小学校のグラウンドを模して作られていた。
でもバーチャルらしさも盛り込まれていて、カメラマンのアバターが空中を飛び回り、ライブ映像を映し出すクジラの飛行船が空に漂っている。ちょっと奇妙だけど、大会会場独特の空気を久しぶりに感じた。
私は、自分にしか見えないプライベートミラーを呼び出し、自分の体をまじまじと見つめる。下は赤のジャージで、上はグレーのウインドブレーカー。頭にはデフォルメした馬の顔が描かれたフードを被っている。私のリクエスト通りに及川さんの作ってくれたアバターは、驚くほど私の体に馴染んでいた。
そう言えば、及川さんにはこの姿をまだ見せていない。今日は会えるだろうか。早くびっくりさせてやりたい。
その時、誘導係から整列するように声がかかった。
私は、スタートラインに立った。
誰もいない小学校のグラウンドに、人影は私一人。朝の穏やかな陽光が、東の空から私をスポットライトのように照らす。校庭に植えられた青々とした樹々は、朝の清々しい風に枝葉を揺らし、私を歓迎するように拍手する。
本来なら、この時間にはこままねマラソン大会のワールドに入って、通信が不安定になっている参加者がいないか確認する係をしているはずだった。
しかし今朝、いきなり部屋に入ってきた父に、机の上に広げていた専門学校のパンフレットを見られてしまった。烈火の如く激昂する父を前にして、私は家を飛び出すことしかできなかった。
そして気付くと、この場所に辿り着いていた。
小学校の校舎の屋上にある時計台を見上げる。そろそろマラソンが始まる時間だ。仮想世界では沢山の参加者がこの場所に立っているはずだが、今ここにいるのは、校庭の隅で囁いているスズメ達と私だけだ。
まるで深海で久しぶりに他の生き物に出逢ったような気分である。この深海の息苦しさを共有できる他者がいるだけで、心が少しだけ軽くなる。
そうか、私も深海にいるのか。
咄嗟に酸素ボンベのメーターを確認する。残量は、あと僅か。酸素が薄くなり始め、焦りが私の理性を溶かしていく。
どこかで号砲が鳴った気がした。
その瞬間、私は馬のように駆け出した。
校門をくぐり、小学校の前の道を左へ進む。隣の私立高校の前を過ぎた角で、コースは右へ曲がる。
その道の両脇には長閑な田んぼが広がっている。田んぼには櫓が建てられており、その上で太鼓が軽快なリズムを刻んでいる。太鼓の震動と共鳴するように、心臓が拍動していた。力の限り脚を振り上げていたけれど、その間、私は次々に追い抜かれていた。このままだとビリになるかもしれない。
田んぼを抜けた先の角で右へ曲がる。この道は商店街のメインストリートになっている。商店街はこままね祭りのイベントや出店で大盛況だ。特設ステージの上では陽気なお囃子が鳴り響き、道に面した広い駐車場には神輿が繰り出していた。大きな掛け声と共に、神輿が荒波のように乱舞している。
その途中、私は歩いていたおじさんと肩がぶつかってしまった。
「大丈夫か? どうしたんだ、そんなに急いで」
おじさんが心配そうに私の顔を覗き込む。朝の人のまばらな商店街の静けさが、私の理性を押し流す。私は慌てて「すみません」と謝って、すぐにその場を立ち去った。
恥ずかしくて、顔が燃えるように熱い。最近はシャッターを下ろしたままの店も目立つけれど、今ばかりは助かったと思った。
商店街を抜けるとともに、通勤の車が増えてくる。ここは国道と並行に走るバイパスになっている。自動車に負けじと、私は疲れてきた両脚に力を入れて速度を上げた。
八幡様の前の角で右折して、裏道へと入っていく。この辺りは静かな住宅街になっているが、家々は電飾で飾り付けられており、屋根の上でご当地ヒーローや市のゆるキャラを含め、十人十色のアバターが踊っていた。私はすっかり最後尾になってしまっていたが、そんな私にも沢山の温かい応援の声が屋根の上から降り注いだ。こんなに楽しいマラソンは、生まれて初めてかもしれない。
そんな夢のような時間も束の間、ゴールまでの道のりは、あと僅かとなってしまった。沿道からの歓声は次第に大きくなっていた。ゴール会場から響いてくるアナウンスの声も近付いてきた。残るランナーは、私だけらしい。
私は、残った力を振り絞って太腿で宙を蹴る。ゴールテープが見えた。ゴールし終えたランナー達も、私に声援と拍手を送ってくれている。まるでスポットライトを浴びたような気分だ。汗だくになりながらも、私は一歩一歩、確実に前へ進む。
あと少し。
私は滑り込むようにしてゴールテープを切った。同時に、打ち上げ花火のような大歓声が鳴り響く。
ゴールできた。その喜びが、じわじわと私の全身を包み込んでいく。気が付けば、私は大粒の涙で前が見えなくなっていた。ビリなのに嬉しいのは初めてだ。
小学校の校門の前で、私は息を切らしながら涙を拭いた。
今日が私にとって忘れられない日になったことは、まだ誰も知らない。
バーチャルこままね祭りが無事に閉幕した次の週の土曜日。
私は宇野さんの家の前に立ち、インターホンを鳴らした。
「はいは~い」
宇野さんのお母さんが玄関を開けた。
「機器の回収に来ました。あと、これどうぞ。先日のミニトマトとキュウリ、美味しかったです」
私は、菓子屋の紙袋からどら焼きを取り出して渡す。
「ありがとう。気が利くいい子だね。さ、上がって」
私は宇野さんの部屋に通された。
「久しぶり」
部屋の中央に停められた車椅子の上で、宇野さんは出迎えてくれた。貸していた機器は、ケーブルを結束バンドで纏めた状態でローテーブルの上に並べられていた。
「マラソンは、どうだった?」
「楽しかった! とっても!」
宇野さんの顔に、満開のヒマワリのような笑顔が咲いた。
「手助けになれたのなら良かった」
「及川さんの作ってくれたアバター、大好評だったよ! 皆、及川さんに作って欲しいって言ってた」
「そっか。でももう辞めちゃったから」
「えっ! どうして?」
「父に反対されてね。パソコンも取り上げられちゃった。仕方ないんだ。国立大学に行った方が良いって、自分でも分かってたから」
「本当に、それでいいの?」
無言のまま、私はヘッドマウントディスプレイや脳波計を紙袋へ収めた。
「3Dデザイナーになるのが夢なんじゃないの?」
その宇野さんの言葉に、悔しさが胃の底から込み上げてくるのをどうにか堪えた。声を上げて泣き叫ぶ代わりに、私は小さく「うん」と頷いた。
「そう言ってくれると信じてた」
すると宇野さんは、おもむろに車椅子から腰を上げた。
「えっ!? ちょっと――」
私は宇野さんの体を支えようと手を伸ばしたが、すぐに止めた。宇野さんは、自分の足でしっかりと立っていた。嘘みたいな、本当の光景だった。
「少しくらいなら歩けるよ」
ゆっくりとではあるが、宇野さんはその場で足踏みまでしてみせた。
「初めから歩けたの?」
「ううん。全然歩けなかったよ。でも及川さんのくれた脳波計をつけてバーチャル空間の中で走る練習をしていたら、それがリハビリになったみたいで、少しずつ足が動くようになったんだ。だからバーチャルこままねマラソン大会は、脳波計使わなかったんだよ! モーションキャプチャを付けて、本当に自分の脚で走ったんだよ!」
私は何を言われているのか分からずに、しばらく呆然としてしまった。
「……おめでとう!」
「私は夢を諦めそうになっていたけれど、及川さんのお陰で本当に走れるようになったんだ。だからね。及川さんも夢を諦めちゃ駄目だよ」
宇野さんは、スマホを取り出して私に差し出した。画面には、宇野さんのSNSが映し出されている。バーチャルマラソン大会の記念写真に、こんなコメントがついていた。
『おめでとう! ところでこのアバター手が込んでるね。作った人を教えてくれない?』
「この人、誰だか知ってる?」
「いや、知らない」
私は首を横に振る。
「CGアニメ会社のデザイナーさんなんだって。学生バイト、募集してるらしいよ」
「本当に!?」
つい大きな声を出してしまった私を見て、宇野さんがにっこりと笑う。
「及川さんのこと、教えてもいい?」
「もちろん!」
知ってもらってからが、本当のスタートラインだ。
お祭りの日にガラスの中で走れ 葦沢かもめ @seagulloid
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