第2話
及川さんが家に来たのは、あれから一週間ほど経った土曜の午後だった。私は、いつもの部屋着ではなく、外行き用の白のシャツとジーンズを着て、車椅子に座って待機していた。
玄関から応対する母の声が聞こえる。
「あらまあ、お土産なんて要らないのに。しっかりした子ね」
「あっ、すみません! これ実はお土産じゃなくって……」
そんなやり取りの後、母に案内されて及川さんが私の部屋にやって来た。地元の菓子屋の屋号の入った紙袋を手に提げている。
母はお茶とお菓子をローテーブルに置いて、そそくさと部屋を出て行った。機械音痴の母は、自分が邪魔になると踏んだのだろう。
及川さんが紙袋から取り出したのはお菓子ではなく、ゴーグルみたいな機械と、マラカスみたいな2つの機械だった。
「これはヘッドマウントディスプレイと、コントローラ。学校がレンタルしたやつ」
そう言って、及川さんは丁寧に使い方を教えてくれた。
「このスティックを前に倒せば、仮想空間の中で前に進める。やってみて」
言われるがまま、ヘッドマウントディスプレイを頭に装着する。アニメではよく見るけど、実際に付けるのは初めてだった。ヘッドフォンを付けるのと、感覚的にはあまり変わらない。
だが視界は一変した。私の部屋は、地平線まで広がる草原になっていた。空には紫色の雲が浮かび、朝の訪れを告げている。煌々と輝く朝陽が薄く広がる靄に散乱し、大地に生命を吹き込む。不意に自分の体を見回してみると、私の体は鋼鉄製のロボットになっていた。だからだろうか。朝露のすーっとなる匂いがしない。
恐る恐るコントローラのスティックを親指で倒す。すると私の機械の右脚が振り上げられ、前に向かって降ろされた。それから左膝が宙を蹴り上げ、続けて左の足裏が地面に着いた。草原を踏み締める音はするけれど、機械の脚が冷たい朝露で濡れる感覚も、柔らかい土を踏み締める感覚もない。
「動いた」
「本来なら、脚にモーションキャプチャを付けて、実際の動きをバーチャル空間に連動させるんだけど」
「及川さん、やっぱり詳しいんだね、VR」
「勉強したんだよ。将来はゲーム会社の3Dデザイナーになりたいから、知ってて損はないし。ほら、走ってみて」
不機嫌そうな声の及川さんに促されるままに、私は走り出した。どこまでも続く草原を、空のキャンバスを燃やしてしまいそうなくらいに輝く朝陽に向かって走った。自分の胴体に繋がった脚が動いているのは、懐かしさがあった。
でも、不思議と喜びは感じなかった。
「どう?」
「歩けるのは嬉しいけれど、ボタンを押すだけで歩けてしまうから、ゲームみたい。本当に歩いているっていう実感はないかな」
せっかく善意でお手伝いをしてくれたのに、こんな言い方はまずかったな、と後悔したけれど、及川さんはむしろ嬉しそうな声で答えた。
「そう言ってくれると信じてた。それ、外して」
言われた通りに私はコントローラを置いて、ヘッドマウントディスプレイを外す。及川さんは紙袋から、小物入れくらいの大きさの箱とカチューシャのような機械を取り出していた。
「この箱はシングルボードコンピュータ。要はミニパソコン。で、こっちは脳波計」
「脳波計なんて、どこで手に入れたの?」
「ネット通販で買えるよ。案外安い」
「ふーん。で、どうするの?」
「実際に脚を動かすイメージをした時の脳波のシグナルを、深層学習モデルでモーションに変換して、バーチャル空間のアバターの動きに反映させる。そうすれば、自分の体を動かす感覚でアバターの脚を動かせる」
そう説明しながら、及川さんは脳波計から伸びたUSBケーブルをミニパソコンに接続した。ヘッドマウントディスプレイも、ミニパソコンに繋がれる。ミニパソコンの上面に備え付けられた小さいタッチパネルに黒いウインドウが映し出され、英語が高速で流れていく。
「そんなことできるんだ」
「作ってみたら、意外とできた」
「自分で作ったの!?」
「既製品とネットの情報を繋ぎ合わせただけだよ。大したことはしてない」
「十分すごいよ。少なくとも私にはできない」
「まだ使い物になるかは分からないけどね」
及川さんがヘッドマウントディスプレイと脳波計を差し出す。
「付けてみて」
まずは頭頂部にカチューシャのような脳波計を付けた。付け心地は悪くない。その上からヘッドマウントディスプレイをバンドで頭に固定する。さっきより少しきつくなったけど、装着に問題はなかった。
「まずは、脚を動かすイメージをしてみて。宇野さんの実際の脳波でモデルをチューニングするから」
及川さんの指示にしたがって、右脚、それから左脚を動かすイメージを繰り返した。リハビリの時みたいに、やっぱり私の脚は動かない。
でも及川さんは、ミニパソコンのディスプレイを眺めながら、満足そうに頷いていた。
「これでOK。じゃあ実際に試してみよう」
また私は、朝靄の広がる草原に放り出された。
試しに、右脚をゆっくり上げるイメージをしてみた。すると驚いたことに、機械の右脚がぎこちなく上がった。バーチャルだけど、でも私の脚が動いた感覚が確かにあった。
「すごい! 私の右脚だ!」
そのまま前に降ろして体重をかけ、左脚を振り上げる。
歩けた。
私がまた歩いている!
「ちょっと待った」
及川さんの手が私の両肩を掴む。気が付くと、私は車椅子の上で前のめりになっていた。
「現実とのバランス感覚が課題かもしれないけど、バーチャル空間で歩くのは上手くいったみたいだね」
「うん! ありがとう!」
私の目の前を覆っていた深海の暗闇の中に、一匹のアンコウが仄かな光をもたらしてくれた気がした。
バーチャル歩行に慣れるのに、あまり時間はかからなかった。竹馬で歩けるようになるのと、なんとなく似ている。アバターの脚の先まで自分の神経が伸びたような感じを掴んでからは簡単だった。
でも逆に、そのせいで違和感も感じるようになった。
「なんか、自分の実際の脚よりアバターの脚が長いから、感覚がちょっと変」
「そっか。確かにそれはあるかもしれない。盲点だった。じゃ、専用のアバター作るよ」
「えっ、アバター作れるの? それに大変じゃない?」
驚く私に、及川さんは笑いながら答えた。
「私の趣味は、3Dモデリングだよ」
ついうっかり、忘れていた。
太陽が地平線の向こうに沈もうとしている。宇野さんの家からの帰り道、どこまでも広がる田んぼを突っ切るようにして、細いアスファルトの道路が伸びていた。私以外に歩いている人などいない、THE・田舎道。手に提げた紙袋は、デバイス類が無くなった代わりに、宇野さんのお母さんから貰った自家製ミニトマトとキュウリで重たくなっていた。こころなしか、スーパーの野菜よりでかく見える。それから、宇野さんにアバターのデザインを描いてもらったルーズリーフも入っている。これを使ってモデリングをするのだ。
私は、ほっとしていた。宇野さんが、自分の脚で歩くことを諦めていなかったのが嬉しかった。夢を諦める手伝いをしたくはなかったのだ。
だが、アバターのモデリングをすることになるとは思っていなかった。見栄を張って引き受けてしまったが、実際は、宇野さんの要望したアバターを作れる自信が無かった。確かに3Dモデリングについての知識と技術は、ある程度身に付けているつもりだ。
しかし、未だに丸みのある物体のモデリングが苦手なのである。私の頭の中にある理想的な曲面が、どうしても作れない。ポリゴンが私の言うことを聞いてくれないのだ。
陽が落ちる前に、家の玄関に着いた。
「ただいま」
紙袋を置いて、靴を脱ぐ。その時、運悪く外出する父と鉢合わせしてしまった。サイアク。
父は目ざとく紙袋を見つけて、中を覗く。
「買い物じゃなさそうだな」
「お祭りの実行委員の仕事」
「そんなことやってたら国立なんて行けないぞ。勉強しろ。分かってるだろうが、国立以外は認めんからな」
「はいはい」
こっちこそ、いつまでもこんな田舎に引き籠っているなんて願い下げだ。
まだ文句を垂れている父を放って、さっさと自分の部屋に入って鍵を閉める。
その後でミニトマトとキュウリの入った紙袋を持っていることに気付いたが、適当に放り投げた。台所に持っていくのは後にして、そのまま勉強机の椅子に腰を下ろす。
机の上の半分はディスプレイで占領されていて、もう半分は専門学校のパンフレットが陣取っていた。進路指導室でもらったものだ。それによれば、どこの専門学校もリモート授業が多く、通学は週一回が多い。都内の専門学校だと始発電車で実家から通わされる羽目になりそうだから、関西に行くしかないなと考えていた。どっちにしろ父は鬼のように怒るだろうが。
パンフレットを畳んで本棚に押し込んでから、キーボードのキーを適当に叩く。
デスクトップパソコンのスリープが解除され、立ち上げたままの3Dグラフィックソフトのウインドウがディスプレイに表示された。フォルダを開いて、古いファイルを読み込む。
ローディングのアイコンがくるくると回ること、数秒。
黒い空間に、ニケの胸像みたいに四肢の欠けた人型の3Dモデルが浮かび上がった。練習用に作り始めたが、限界を感じて放置していた問題作だ。
マウスで掴んで、こねくり回してみる。腹のメッシュが粗い。上腕が長すぎ。気になる箇所が出てくる、出てくる。
自然と溜息が漏れる。私は3Dデザイナーになれるんだろうか。
それとも誰にも知られることのない田舎の籠の中に閉じ込められたまま、誰にも知られることのない人生を送るんだろうか。
その時、スマホが通知音を鳴らした。宇野さんから写真が届いていた。等身大のアバターを作るために写真をお願いしていたのだ。できれば三面図が欲しかったが、面倒なので怪我をする前の立ち姿の写真を何枚か要望しておいた。
写真を見ると、陸上大会で走っている姿が多い。親に撮ってもらったんだろうか。
宇野さんの走り姿は、新鮮だった。走っている宇野さんを見るのが初めてだというのもあったが、周りが苦しそうな顔をして走っている中で、楽しそうに笑みを浮かべているのが印象的だった。
きっと、それだけ走るのが好きなのだろう。そんな宇野さんが走ることを奪われた悲しみは、私には想像できない。
もがいてももがいても足が地面を蹴ることはなく、光の無い深海で上に手を伸ばすことしかできないのだ。希望を照らし出す蝋燭の炎を抱えたまま。
でも私は、手を動かしてモデリングができる。まだ諦める訳にはいかない。
宇野さんのアバターの全身像をイメージして、私はメッシュの頂点の配置に取りかかる。
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