お祭りの日にガラスの中で走れ

葦沢かもめ

第1話

 ただ、知られていないだけ。



「いや、私はVRには詳しくないんですよ、伊藤先生。趣味で3Dモデリングをやってるだけで」

「同じようなもんだろ。少なくとも一番詳しいのは及川だ。実行委員をやれるのは及川しかいない。頼む。緊急事態なんだ」

 パソコンの画面の向こうで、伊藤先生は私を拝むように手を合わせ、額が机につくくらいに頭を下げている。もう六限の授業が終わってから三十分が経っていた。

「……仕方ないですね」

「やってくれるか! じゃああとで実行委員会のグループに招待しとくから。ありがとな!」

 プツンと通話が切れるや否や、ポップアップがメールの到着を知らせた。

「Fwd: Fwd: 第一回バーチャルこままね祭り実行委員会について」

 伊藤先生から転送されてきたメールを開いて、内容を流し読みする。

 夏の恒例行事、こままね祭りが、昨今の社会情勢の影響で、今年初めてバーチャル空間上で開催されること。

 こままねマラソン大会もバーチャル空間にて実施するので、全校生徒は参加すること。

 例年通り、各クラスから実行委員を一名選出すること。

 大体、そんな感じの長くてかったるい文章だった。私は、マラソン大会までバーチャルでやらなくてもいいじゃん、と思った。

 こままね祭りは「駒の真似」、つまり馬の真似をして村々へ祭りの知らせをして周ったのが由来である。それを現代風にアレンジして始まったのが、こままねマラソン大会だ。参加者は、それぞれ思い思いに馬をモチーフにした仮装をして走る。馬の頭の被り物でもいいし、後ろに飾りの脚を付けて四本脚にするのでもいい。要はコスプレマラソン大会である。ちなみに私は毎年、馬印の鉢巻きで誤魔化している。

 メールの最後に、実行委員会会議の初回開催日時と、Web会議への招待URLが記載されていた。

 伊藤先生が言っていた「グループへの招待」というのは、多分これのことだろう。あの人はIT音痴だ。

 でも、だからといって3DモデリングとVRを一緒にされてはたまらない。陶芸と茶道が一緒だと言われているようなものだ。

 私が好きなのは3Dモデリングであって、VRではない。

 でも、私がやりたいことは誰にも理解されていない。

 


 ただ、知られていないだけ。だと思う。



 スマホの画面に映し出された伊藤先生からの返信は、思ったより簡素だった。

「実行委員の及川に伝えたので、詳細は及川から聞いてください」

 それだけだった。

 私は不安で胸がきゅっとなる。左の拳で掛け布団を掴んで、胸の支えをなんとかやり過ごす。ベッドが少しだけ軋んだ音を立てた。

 及川さんとは、あまり話したことはない。今の私にとって、気軽に相談できる相手ではなかった。でもよく考えたら、そもそも気軽に相談できる相手なんていなかった。

 くよくよしていても仕方がないので、枕元のスマホで学校のポータルサイトからクラスのメンバー一覧を開き、及川さんのアカウントを探す。見つけた名前の横にある「メール作成」ボタンをタップすると、新規メール作成画面が開いた。私は一度深呼吸をしてからメールを打ち始める。しかし入力を何度も間違えて、そのたびに削除キーをタップした。

 打つ。削除。

 打つ。削除。

 おかしいな、と思って手元に目を遣ると、私の親指は死にかけのゴキブリの脚みたいに震えていた。

 まだクラスの誰にも伝えたことのない話。

 みんなには隠したままでいたかった話。

 目の前に文章という形で現れたそれは、白い背景に描かれた黒い線の集合体でしかないはずなのに、私の心は浜風に吹きつけられた松の防風林みたいに激しく揺さぶられていた。

 本文が出来上がると、勢いに任せて送信ボタンを押した。スマホはそのまま枕の傍に放り投げ、枕元のリモコンで電灯を消す。

 削除。

 以前までは夜中に布団の中でスマホを握り締め、SNSで呟いたり、いいねを押すのが日課だったけれど、最近はスマホの電源すら入れていない。掛け布団を頭まで被って、夢の無い眠りに落ちていけるように祈った。

 削除。

 九十九里の遠浅の海を、ゆっくりゆっくり沖へ歩いていく。膝を洗っていた波が、腰を越え、胸を越え、やがて私の頭まで到達する。

 息苦しくなって海面へ上がろうとするけれど、その時にはもう海底は私の足の裏を離れ、日本海溝への大きな口を開けて待っている。

 削除、できない。させてくれない。



 まだ知られていないだけ。これから知られるだけ。



 私の学校用メールソフトの受信トレイに、見慣れない差出人の名前があった。

「From: 宇野」

 宇野さんは、最近お休みから復帰していたはずだが、しかし何の用件だろう。と思ってから、ふと思い出した。昨日、伊藤先生に「井野から連絡があるから」とメールで言われていたのだ。井野って誰だろうと思っていたが、多分宇野さんのことだったのだろう。

 私はメールを開封する。



「お久しぶりです。宇野です。


 うっかり交通事故で下半身不随になり、しばらくお休みしていましたが、遠隔授業になったので、最近は授業を受けています。


 本題に入りますが、及川さんがバーチャルこままね祭りの実行委員になったと伊藤先生から伺いました。


 私は陸上部で長距離をやっていて、昔から陸上競技の選手になりたいと思っていました。


 しかし今は、頭の中で脚を動かすイメージをするリハビリを毎日毎日、嫌というほどやっても、私の脚はピクリとも動きません。もう走ることも歩くこともできないのかもしれません。


 でもバーチャル空間でなら、また走れるかもしれないと思いました。


 私もバーチャルこままねマラソン大会で走ることはできますか?

 VRが得意な及川さんなら、なんとかしてくれると信じています。


宇野」



 私は驚いていた。宇野さんが交通事故に遭ったことも、下半身不随になっていたことも知らなかった。クラスでは、宇野さんは親の都合で海外に行っていたと説明されていたからだ。

 その衝撃を受け止められていなかったが、一方でその短い文章の中に秘められた宇野さんの静かな情熱を感じ取っていた。

 それはまるで深海でも消えずにゆらめく蝋燭の炎みたいだった。私は酸素ボンベを背負っているのに、目の前の宇野さんは何も付けず、無表情で、ただ深海へと沈んでいっている。その手に握られた蝋燭の炎は、なぜか消えることなく、光も届かず底も分からない深海の秘密の部屋を照らしている。

 その宇野さんが水面の上に顔を出してみたいと言うのなら、手を貸さない訳にはいかない。酸素ボンベの続く限りは、引っ張り上げてみようじゃないか。私の指は、迷いなくキーボードを叩く。



「私はVRが得意なのではありません。3Dモデリングが好きなだけです。


でも、宇野さんがまた走れるようにお手伝いします。

しばらくお待ちください。


及川」



 私がまだ知らないことは、沢山ある。

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