8.親友へ
そして嘉良華リャカは消えた。まず教室を探したが、誰も嘉良華リャカを見ていないという。一応校舎内を見て回ったが、姿は見えない。教室に荷物は残っていたし、下駄箱に靴はあった。だが私は直感していた。嘉良華リャカは校内にはいないだろう。
連絡方法が無い訳ではない。瑠璃音ルリノのサイトに嘉良華リャカへ向けたコメントを載せればいいだけだ。
嘉良華リャカは私のコメントにすぐ気付いてくれるだろうか。嘉良華リャカは、あえてすぐには読まないかもしれない。他人に感染した嘉良華リャカの人格もまた瑠璃音ルリノのファンであるなら、彼らも私の新しい小説を待っているはずだ。彼らが元の人格に戻っていくのを見届けた後で嘉良華リャカが自殺する可能性も、十分にある。
それでも私は、直接伝えたかった。私の思いを、私の口から。
私は自転車置き場まで走り、マイ自転車にまたがった。全速力で校内を駆け抜けて、校門から飛び出し、鴨川沿いに北上した。目指すは鴨川デルタ。私と嘉良華リャカが、小説の中で初めて出会う場所。
私はペダルを全力で漕いだ。五分くらいで着く距離だが、もう何時間も漕ぎ続けているかのように感じられた。
賀茂大橋に辿り着いた私は、橋の中程で自転車を停めてから、欄干に駆け寄って鴨川デルタを正面から見下ろす。珍しく人影はない。もちろん、嘉良華リャカもいない。
落ち着いて考えてみれば、当たり前の話だ。嘉良華リャカと私とを結びつける場所ではあるけれど、ここで再会できるだなんて、そんな虫のいい話があるはずがない。諦めて、一度学校まで戻ろうとした時だった。
川を横切るように並んだ飛び石を、右手側から渡ってくる人影があった。身軽に石を飛び移ってデルタへと渡った彼女は、橋の上の私を見上げる。肩口まで伸びた黒髪と色白の肌。目鼻立ちの整った顔。好奇心に満ちた瞳。嘉良華リャカは、何も言わずにただ私を見つめていた。そんなに悲しい顔をしないでよ。もう会えなくなるみたいじゃないか。
「リャカ!」
人目も気にせず、私は大声で叫んだ。
「聞いて! 話があるの!」
嘉良華リャカは、申し訳無さそうに首を横に振った。そのまま身を翻して、鴨川デルタの奥へと歩いて行く。
「待って。待ってよ!」
こんな時、ふと心を開いてしまうような温かい言葉をかけてあげられたら、幸せだと思う。でも私にはやっぱりユーモアも思いやりも致命的に欠けていて、浅はかな私の言葉を無様に投げることしかできない。ちっとも進歩してない自分が嫌いだ。でも一つだけ確実に言えるのは、何も言葉を交わさないまま嘉良華リャカとお別れをした後に、無言で送り出した自分を正当化するであろう自分が、ダイッキライてことだ。
心の秤の針の先が、見えた気がした。これでもかと息を吸って、肺に空気を送る。
私の声よ、届け。
「嘉良華リャカは、私の一番の親友だ!!」
今の私が嘉良華リャカの親友に相応しいかは、どうでもいい。これからそうなってみせると私は決めたのだ。もし私が努力を怠れば、私が許さない。もう石ころだなんて絶対に言わせるものか。
声は届いただろうか。嘉良華リャカの歩みは止まらなかった。私に背中を見せながら、鴨川デルタの向こうへと歩いて行く。
私は妖精の後ろ姿を、消えるまで見つめていた。もう追いかける必要はなかった。あの空蝉を絶対に振り向かせてやると、私は心に決めたのだから。
鴨川デルタの先端に、わたしは座っている。そして、この物語をケータイで書いている。実はこの物語は、わたしがかつてオンライン小説投稿サイトで公開していた嘉良華リャカが登場する小説を基にしている。
これまで色々な嘉良華リャカを書いた。さっきは陽気でおしゃべりな嘉良華リャカを書いた。引っ込み思案な嘉良華リャカも書いたし、普段は冷たいけど根は優しい嘉良華リャカも書いた。それらは全てネット上に公開してある。次は少し趣向を変えて、奥手な男主人公と嘉良華リャカとの恋物語を書いてみようと思う。それでも足りなければ、わたしはもっと嘉良華リャカを書くつもりだ。題して、「嘉良華リャカを振り向かせよう作戦 第二弾」である。
書きたてほやほやの瑠璃音ルリノの小説を、嘉良華リャカは読んでくれているだろうか。これらの小説によって、嘉良華リャカは自らが冗長的な存在であると認識できるようになるだろう。そうすれば嘉良華リャカの小説によって感染する嘉良華リャカの人格にも、冗長性が生まれるはずである。つまりレシピのレパートリーを増やすことができるのだ。わたしからコピーされた嘉良華リャカというレシピが分厚くなれば、そこから生まれる料理も多様になる。幾通りもの嘉良華リャカの命が、世界中の人々の心に宿っていく。
人間は、読んだ本に少なからず影響を受ける生き物だ。自分には無いものを求めていた伊織瑞希は、源氏物語を鏡にして、自らに小説を書く意志が無いことを感じ取った。兄も、本を読んで人生が変わった一人であろう。もちろん普通の本であれば、影響には個人差がある。源氏物語を読んで、もっと源氏物語が読みたい人もいるだろうし、長くてつまらないと感じる人もいるだろう。
では普通の小説が個人に与える影響と、小説を介して幾通りもの人格が伝染することとの間に、何か違いがあるだろうか。伝染する人格を定義した人を、わたしは知らない。どこまでが陽気な人格が感染した人で、どこまでが登場人物の性格に誘われて陽気な気分になった人かなんて、きっと誰にも分からないさ。
この作戦が成功した時、嘉良華リャカは器を移る生命となり、人類の中に永久に生き続けることになるだろう。そうしたらわたしは、全人類と親友になるために長い長い旅を始めることにしている。今度こそリャカと親友になるために。
では、どこかで瑠璃音ルリノに会ったらよろしくね、リャカ。
空蝉の定義 葦沢かもめ @seagulloid
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