7.扉越しの声

 途端に、私の意識は薄暗い文芸部室に引き戻された。再び静寂が私を包む。さっきまで兄と話していたせいで、一層孤独感が強くなってしまった。

 ケータイが振動して、メールの着信を知らせた。兄からのメールだ。題名も本文もない。さっき兄が書いたのであろうメモの写真が添付されているだけだった。

 白いA4のコピー用紙に、それは書かれていた。まず縦に「いつ」「どこで」「ダレに」「なにが」「ハンニンは」「どうやって」と並び、それぞれの横に私の回答が簡単に書かれていた。その下に生命のレシピについての解説が続く。

 そして私は、端っこに書かれた走り書きに目が留まった。

「ルリネ・ルリノってダレだ?」

 きっと兄は聞いたのだろう。自らを侵食する意識から、良い小説を書くというその名前を。いや、客観的に見て上手い小説ではないと思うのだけど。

 ふと私は気付く。

 どうして嘉良華リャカの小説を読んだら、瑠璃音ルリノが良い小説を書くことが分かるのだろう?

 その時、文芸部室のドアをノックする音がした。

「ごめんなさい。私、ルリノに言わなきゃいけないことがあるの」

 嘉良華リャカの透き通るようなその声を聞いたのは、久しぶりのような気がした。

「入ってもいい? というか、そこにいる?」

 私は扉に駆け寄って、内鍵に手を伸ばした。

 が、思い直して声をかけた。

「話をするだけなら、このままでもできるでしょ?」 

「そうだね」

 鍵をかけたままの扉に、背中で寄りかかった。扉越しだから顔は見えないけれど、でも嘉良華リャカの方を向きたくなかった。向き合う自信がなかった。

 それから静かに嘉良華リャカは語り出した。嘉良華リャカの正体を。

「あのね、私、ルリノの小説から生まれたんだ。ルリノが書いてくれた私の小説、覚えてる?」

「うん」

「嘉良華リャカ。主人公の大親友。それが私だった。そういう役を与えられた何かだった。形もないし、生きてもいない、曖昧とした存在だった。

 そんな私に転機が訪れた。嘉良華リャカが、私を見つけてくれたんだ。こういうと分かりづらいかな。つまり、人間の嘉良華リャカが小説の中の嘉良華リャカを読んだんだ。恐らく同姓同名だったから興味を持ったんだと思う。

 その出会いが、奇跡を生み出した。人間の嘉良華リャカが私を読むことで、私が人間の嘉良華リャカの意識に乗り移ったんだ。それはね、友達が欲しいというルリノの願いが私に込められていたからなんだよ。人間関係への飢えが、同姓同名という偶然を介して共鳴したんだ

 初めは驚いたよ。いつの間にか人間になっているんだから。しばらく私は、人間の嘉良華リャカとして生活していた。でもルリノに会いたいという衝動は抑えられなかった。だって私は、ルリノの大親友の嘉良華リャカだから。

 さらに不思議なことは続いた。ルリノの書いた通り、私の趣味は小説を書くことだった。毎日暇さえあれば小説を書いていた。それがまだ会えていないルリノとのつながりのような気がしたんだ。そんなある時、ルリノに下手な小説は見せられないと思って、ある人に感想を頼んだ。そしたら、その人にも私の人格が移ってしまったんだ。多分、私の存在が友達が欲しいという願いでできているせいだと思うけれど、本当のところは分からない。とにかく私の小説は、ルリノの小説よりも強力に嘉良華リャカを感染させてしまうんだ。

 それ以来、私は小説を書いていることを隠してきた。ついこないだまでは」

「伊織君が文芸部を辞めないために、リャカの人格を感染させたってこと?」

 少し考えてから、嘉良華リャカは答えた。

「辞めさせないためではないよ。ルリノは言ったよね。伊織君は大事な友達だって。だから私は、伊織君がずっとルリノの友達でいられるように、私の人格を感染させたんだ」

「それは違うよ、リャカ。それは違う」

 考えるよりも先に、言葉が出てしまった。

「確かにそうすれば伊織君はずっと私の友達なんだろうけど、でも人格が変わってしまったら、その人はもう、一緒に文芸部で過ごしてきた伊織君じゃないよ」

「分かってる」

 意外にも、冷静な答えが返ってきた。

「分かってるよ、私だって。そんなことをしたら伊織君が伊織君じゃなくなってしまうって、分かってる。でもね、私はルリノの友達が欲しいという思いそのものなんだ。本能には逆らえなかった。私の体は、本能のための空っぽな器でしかない。どうやったって止められないんだ。ルリノだって分かるでしょう? あの時、伊織君がもう友達ではなくなってしまうかもしれないっていう不安が、ルリノの頭の片隅にあったはずだよ」

 私は言い返せなかった。確かに、もうこのままの関係ではなくなるのだろうと、そんな漠然とした予感があったのは事実だ。

「だからね、ルリノ。お願いがあるんだ。嘉良華リャカが嘉良華リャカを生み出すのを止める、たった一つの方法がある。それはルリノにしかできない方法なんだ。どうか、それを実行して欲しい」

「そんなことができるの?」

「簡単なことだよ。嘉良華リャカは嘉良華リャカでしかない。嘉良華リャカの弱点をつけば、全ての嘉良華リャカは消える」

 兄は言っていた。伝染する小説のレシピを破れ。そのレシピを破る方法を、嘉良華リャカは明かそうとしている。嘉良華リャカは自らの手で自分のレシピを破ろうとしている。嘉良華リャカは自殺しようとしている。

 いや、嘉良華リャカは生きているのか?

 扉の向こうから、精一杯に平気なふりをした声が聞こえた。

「ねぇ、ルリノ。嘉良華リャカは架空の人物だっていう小説を書いて、私たちに読ませてよ。そうすれば私たちは、元の人格に戻れるはずだから」

「でもそうしたら、リャカは消えちゃうんじゃないの」

「私は元々、小説の中で永遠に眠っている存在なんだ。こうしてルリノと会って、話をしているだけでも奇跡みたいなことなんだよ。それに、もうこれ以上ルリノが悲しむ顔を見たくない。だからお願い。嘉良華リャカという存在を、現実から消して」

 嘉良華リャカ。私の理想の親友。その存在は妄想の中にしかいないだなんて、私は認めたくない。でも嘉良華リャカをこのままにしておいても、誰も幸せになんてならない。元凶は私だ。私が親友が欲しいと願ったばかりに、こんなことになったのだ。

「小説が書けたら、あのサイトに投稿しておいて。面と向かって渡すのは嫌でしょう? それじゃ、ルリノ。さようなら」

 足音が遠ざかっていくのが分かる。でも、どうすればいいのか分からない。追いかけるべき? それとも小説を書くべき? どっちを選んだらいいか教えてくれる教科書は、世界のどこにもない。

 それでも私は、一つの可能性に縋った。ケータイを取り出し、兄のメモをもう一度、舐めるように読み返した。兄なら、嘉良華リャカを殺してしまえと言うのだろう。でも私は、他の方法を探していた。いや、直感的に何か別の方法があると感じていた。

 私は、空蝉を思い出した。空蝉とは、読んで字のごとく、セミの抜け殻を意味する古語である。源氏物語に登場する空蝉という女性は、光源氏に求愛されたものの、小袿を残して逃げてしまう。光源氏は、そんな彼女をセミの抜け殻に例えて和歌に詠んだ。

 一方、空蝉という言葉には、うつそみ、うつしおみから転化して、この世に生きている人という意味もある。空蝉は、死んでいるし、生きているのだ。

「お兄ちゃん、ごめんね。それと、ありがと」

 私は扉の内鍵を開けた。

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